キツネ耳彼女と、その後の街 〜共存を選んだ町の、静かな現実〜

狐日和

第1話 耳があるだけで、席が一つ空く

■ 午後のカフェ三狐


 木のドアが、軽く鳴った。

 午後三時。

 客足が戻り始めた時間帯。


「いらっしゃいませー」


 夏樹の声が、いつも通りに響く。


「……あ、こんにちは」


 二人組の客。

 視線が――一瞬だけ、カウンターの端に流れた。


 ヤコは、エプロン姿でグラスを拭いていた。

 耳は隠していない。

 尻尾も、揺れている。


「……空いてる?」


「空いてるわよ」


 夏樹が即答する。

 カウンター席は、四つ。


 ――一つだけ、空いたまま。


「……じゃ、あっちで」


 客は、テーブル席に向かった。


 ヤコは、何も言わない。

 グラスを置き、次の注文票を見る。


■ 祐介


「……気づいた?」


 祐介が、小声で言った。


「うむ」


 ヤコは、あっさり答える。


「でも……前より、マシじゃ」


「前は?」


「……三つ、空いておった」


 祐介は、言葉に詰まる。


 カウンターの一番端。

 ヤコの隣だけ、空いている。


「……俺、座ろうか」


「やめておけ」


「え」


「お主が座ると、

 “特別席”になる」


 ヤコは、少しだけ笑った。


「妾は、“普通の空席”がよい」


■ ミユ


「ヤコちゃーん!」


 勢いよくドアが開く。


「今日も可愛いですね!!」


「挨拶が長い」


 ヤコは、即座に突っ込む。


「えー、だって!」


 ミユは、当然のように隣に座った。

 ――空いていた席。


「ここ、いいですか?」


「もう座っておる」


「えへへ」


 尻尾が、もふっと揺れる。


「……今日、学校でね」


「うむ」


「“耳ある人って、電車とか大変そう”って

 言われたんです」


「……そうか」


「私、

 “慣れますよ”って言いました」


 ヤコは、ミユを見る。


「……それで?」


「……ちょっと、黙られました」


 間。

 コーヒーの抽出音。


「……ミユ」


「はい」


「正しいことは、

 たまに空気を止める」


「……はい」


■ 夏樹


「はい、お待たせ」


 コーヒーが置かれる。


「席の話?」


「……耳の話です」


「あー」


 夏樹は、ため息をついた。


「空いてるのに、空いてない席ね」


「空いておるが、

 選ばれぬ席じゃ」


「言い方」


「事実じゃ」


 夏樹は、肩をすくめる。


「でもさ」


「うむ」


「“座らない”って選択、

 減ってきてる」


 店内を、ちらっと見る。


「三ヶ月前なら、

 店に入らなかった」


「……それも、事実じゃな」


■ 少しだけの変化


 別の客が、会計を済ませる。


「……あの」


 若い男性。


「ここ……いいですか」


 ヤコの隣。


「構わぬ」


 短く答える。


 男性は、少し緊張しながら座る。


「……耳、すごいですね」


「そうか」


「触って……」


「だめじゃ」


「……ですよね」


 それでも、立ち去らない。


「……コーヒー、美味しいです」


「それは、夏樹の腕じゃ」


「え、あ、はい」


 夏樹が、にやっと笑う。


■ 余韻


 夕方。

 光が、店内を斜めに切る。


 カウンターの席は、

 全部、埋まっている。


 ヤコの隣も。


「……今日は、満席じゃな」


「うん」


 祐介が、頷く。


「……席が一つ空くのは、

 悪いことじゃ」


「え?」


「“戻る途中”だと、

 分かるからの」


 ヤコは、耳を揺らす。


「妾は、ここにおる」


 それだけで、

 十分な日だった。


(第1話・終)


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