癒しの聖女は、剣を持たない

塩塚 和人

第1話 目覚めの聖女


 ――ここは、病院じゃない。


 土の匂いがした。消毒液の鋭さでも、白いシーツの清潔さでもない。少し湿った土と、薪が燃えたあとの、やさしい焦げの匂い。


 セラはゆっくりと目を開けた。


 視界に映ったのは、木の梁と粗い布で作られた天井だった。ところどころに小さなひびが走り、天井板の隙間から細い光が差し込んでいる。


 ――天井が、低い。


 起き上がろうとして、身体が思いのほか軽いことに気づいた。痛みも、重さもない。


 「……?」


 声が出た。自分の声なのに、少し高く、柔らかい。


 胸に手を当てる。確かに、心臓は動いている。息もできる。


 ――じゃあ、私は生きてる?


 記憶が、ゆっくりと浮かび上がった。


 夜の雨。濡れたアスファルト。赤いライト。誰かの叫び声。


 最後に思い出したのは、「間に合わなかった」という、胸を締めつける後悔だった。


 「……あ」


 声が震えた。


 そのとき、扉がきしむ音を立てて開いた。


 「目、覚めたか?」


 入ってきたのは、年配の男性だった。日に焼けた顔に深い皺。質素な服装だが、目つきは驚くほどやさしい。


 「ここは……?」


 セラがそう尋ねると、男はほっとしたように息をついた。


 「ノーウェン村だ。倒れてたところを、村の連中が運び込んだ」


 倒れていた? 事故のあと、救急車は――。


 混乱する頭を整理する前に、男は続けた。


 「名前は言えるか?」


 「……セラ、です」


 自然と、その名が口から出た。


 男は小さくうなずく。


 「いい名前だ。俺は村長のバルト。体は……どこか痛むところはないか?」


 セラは自分の腕、脚、胸を確かめた。


 「……ありません。不思議なくらい」


 それは本音だった。あれほどの事故だったはずなのに、傷一つない。


 バルトは少し考え込むような顔をしてから、慎重に言った。


 「なら、一度“計測”をしておこう」


 「けいそく……ですか?」


 「魔力のな。念のためだ」


 魔力。


 その言葉に、セラははっきりと違和感を覚えた。


 やがて運ばれてきたのは、手のひらほどの透明な水晶だった。内部に淡い光が揺らめいている。


 「これに触れるだけでいい。普通なら、光の強さで魔力の量がわかる」


 セラはうなずき、そっと水晶に手を伸ばした。


 ――大丈夫。怖がらせないように。


 理由もなく、そう思った。


 指先が触れた瞬間。


 水晶の中の光が、一気に膨れ上がった。


 「……え?」


 次の瞬間、


 パキン、と乾いた音がして、水晶が粉々に砕け散った。


 部屋の中が、静まり返る。


 「……壊れた?」


 セラは呆然とつぶやいた。


 バルトは目を見開いたまま、しばらく言葉を失っていたが、やがて、震える声で言った。


 「……計測水晶が、壊れるなんて……」


 その日の午後。


 村に一人しかいない治療師が、重傷者を連れて駆け込んできた。


 「頼む、もう手の施しようがない!」


 担架の上には、血まみれの若者がいた。呼吸は浅く、顔色は悪い。


 セラの身体が、勝手に動いた。


 「……大丈夫です」


 誰に言ったのかもわからない。ただ、その言葉が必要だと思った。


 彼女は若者の胸に手を当て、目を閉じた。


 胸の奥が、あたたかくなる。


 ――癒したい。


 それだけを願った。


 淡い光が、彼女の手から溢れ出す。


 数秒後、若者の荒い呼吸が落ち着いた。傷口はふさがり、血は止まっている。


 「……生きてる」


 誰かが、信じられないようにつぶやいた。


 セラは、静かに息を吐いた。


 「よかった……」


 その笑顔は、奇跡を起こした者のものではなかった。


 ただ、人が助かって、心から安堵した者の表情だった。


 この日、ノーウェン村で語られることになる。


 ――癒しの聖女が、目を覚ました日として。


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