ハロー、101回目の俺

ハロー、101回目の俺

白い部屋だ。


壁も、床も、天井も、潔癖なくらい白い。


真ん中に椅子が一つ。


正面に、黒いモニターが一枚。


その下に、たった一つのボタン。


再生。


俺は息を吸って、吐く。


指先が、少しだけ震えている。


笑える。


百回も死んだくせに。


いや。


百回、死んだ“はず”なのに。


「……俺は、俺の遺書を見る」


独り言が、白に吸われる。


指がボタンに触れた瞬間、モニターが点いた。


黒が割れて、文字が浮かぶ。


Hello.


それだけ。


次の瞬間、映像が始まる。


モニターの向こう側。


そこにいるのは、俺だった。


目の下に濃い影。


頬は削れて、唇は乾いて。


でも、目だけは妙に澄んでいる。


いや、澄んでいるふりをしている。


画面の俺が、カメラに向かって笑った。


「ハロー、101回目の俺」


その声で、俺はようやく理解する。


これは遺書だ。


俺が、俺に送った遺書。


「まず、謝っとく。こんなもん見せて悪い」


映像の俺は、軽口みたいに言う。


軽口にしないと、崩れるからだ。


俺には、それがわかる。


「でも、見ろ。最後まで。……頼む」


一拍。


それから、映像の俺は少しだけ視線を逸らして、また戻す。


「お前、多分、今の俺よりマシな顔してる。そうであってくれ」


笑って。


でも、次の言葉は笑わない。


「俺は学(まなぶ)。二十歳。――お前も同じだな。で、俺は今、百回目だ」


百回目。


その数字を聞いただけで、胃の奥がきしむ。


俺は椅子の肘掛けを掴んだ。


「なあ。お前、覚えてるか? 医大、落ちた日のこと」


画面の俺が言う。


覚えてる。


覚えてるに決まってる。


一次の結果。


番号がなくて。


スマホの画面を指で何度もスクロールして。


“ここじゃない”ってわかってるのに、何度も探して。


家に帰ったら、母さんが妙に優しくて。


父さんは、新聞を読んでるふりをして。


俺は笑って、「大丈夫」って言って。


そのまま部屋に閉じこもって。


布団に顔を押しつけて。


泣かなかった。


泣けなかった。


涙が出るほど、自分に期待してなかった。


「俺、さ。努力すれば届くって、どこかで信じてたんだよ」


画面の俺は、淡々と語る。


「模試の判定がEでも、机にかじりついてさ。コンビニの夜勤終わって、朝の電車で参考書開いて。駅のベンチで単語帳めくって」


白い部屋の俺は、呼吸が浅くなる。


自分の生活が、他人の話みたいに流れていく。


「でも届かなかった。届かなかったことより、届かないのが当然みたいに納得してる自分が、いちばんムカついた」


画面の俺が、初めて眉を歪める。


「で、金がなかった。浪人する金も、予備校の金も、親に頼る顔もなかった」


映像が少し揺れる。


録画した場所が、きっと施設のどこかの狭い部屋なのがわかる。


「そんなときに見つけたんだよ。治験。高額。短期。寝てるだけ。安全確認済み」


画面の俺は笑う。


乾いた笑い。


「お前も見たよな。あの広告。軽い文字。軽い写真。白衣の人がにっこりしててさ」


軽い。


全部、軽かった。


応募した俺も、軽かった。


「契約書は重かったけどな」


画面の俺が、指を動かす。


紙をめくる真似。


「やたら分厚い。やたら細かい。……読んだ?」


俺は喉が鳴った。


読んだ。


読んだ“つもり”だった。


「死ぬんですよ」


画面の俺が、研究員の真似をして言う。


声色を変えて。


やけに丁寧な口調。


「あなたが。何度も」


その瞬間の空気を、俺は思い出す。


白い会議室。


机。


ペン。


研究員の手袋。


あの人の声が、あまりにも普通だったから。


“死ぬ”って単語が、冗談に聞こえた。


「クローンに記憶を移します。あなたの人格は、連続します。――つまり、あなたは何度も死ねる」


言ってることは狂ってるのに。


言い方だけが、まっとうだった。


「で、俺はサインした」


画面の俺が言う。


「ペン先が震えてさ。あれだけは覚えてる。指が勝手に拒否してた。でも、頭が『金だ』って言ってた」


……そうだ。


俺は、俺の指を無理やり動かした。


紙に名前を書いた。


学。


たった二文字。


それで、全部が始まった。


―――


「一回目は、ちゃんと怖かった」


画面の俺が言う。


「痛かったし、息ができなくて、涙も鼻水も出て、情けなくて」


一回目の死。


俺は、ベッドに縛られていた。


腕と足。


胸にベルト。


研究員が何人かいて、淡々と機械を操作してた。


「大丈夫です。すぐ終わります」


そう言われて、俺は頷いた。


頷いた。


何に頷いたんだよ。


注射が入る。


冷たい何かが血管を走る。


体が熱くなる。


喉が閉まる。


肺が、空気を拒む。


「う、あ……っ」


声にならない。


目の前が滲む。


天井の蛍光灯が、やけに白い。


耳の奥で、機械のファンが唸ってる。


ブーン。


ブーン。


ブーン。


その音だけが、世界の全部になって。


「なあ、101回目」


画面の俺が、カメラ越しに言う。


「死ぬ瞬間ってさ。ドラマみたいにスローモーションじゃない」


そうだ。


スローじゃない。


最後は、唐突だった。


ブーンって音が。


プツン。


って切れるみたいに。


テレビの電源が、停電で落ちるときみたいに。


「……え?」


って思った次の瞬間には、もう無い。


無音。


無。


それだけ。


「俺は、その“プツン”を、九十九回見た」


画面の俺は、目を伏せる。


「最初はな、毎回『死にたくない』って思ってた。叫んでた。暴れてた。次の俺に押しつけるみたいで最低だって思いながら、それでも生きたいって思ってた」


でも。


続く。


続くんだ。


死が、終わっても終わらない。


次の目覚め。


次のベッド。


次の白。


次の『おはようございます、学さん』。


「二十回目あたりから、俺は慣れた」


画面の俺が言う。


「慣れちゃいけないのに。慣れた」


慣れる。


死に慣れる。


その事実が、いちばん怖い。


「一回目の死体は、俺にとって『俺』だった。……でもな。四十回目くらいから、死体は『モノ』になった」


画面の俺の声が、少しだけ低くなる。


「台車に乗せられて運ばれる。ビニールの袋に入れられる。番号が貼られる。『データ』って呼ばれる」


俺の死が。


俺の人生が。


データ。


「他の参加者は壊れていった」


画面の俺は、そこで初めて“他人”の話をする。


「最初はみんな普通だった。俺と同じ、金が欲しかったやつ。夢が折れたやつ。逃げ場所が欲しかったやつ」


でも。


十回。


二十回。


三十回。


誰かが笑い始める。


誰かが泣き止まる。


誰かが、鏡に話しかけるようになる。


「『次の私がいるから大丈夫』って言いながら、自分の腕を切った女がいた」


画面の俺が、乾いた声で言う。


「止められなかった。止めない契約だった。“自発的死もデータに含む”ってやつ。あの一文」


覚えてる。


契約書の隅っこ。


小さな文字。


その小さな文字が、人を殺した。


いや。


人が、自分を殺すのを許した。


施設は、それを“観察”した。


「男が一人、俺に言った」


画面の俺は、少しだけ顔を上げる。


「『お前、怖くないの?』って」


怖い。


怖いに決まってる。


でも。


そのときの俺は。


「……怖いって、何だっけ」


って、本気で思った。


「俺は答えられなかった。怖いのに、怖さが実感じゃなかった。死が、他人事になってた」


画面の俺が、苦笑する。


「九十九回目の死が、それだった」


九十九回目。


代表シーン、三つ目。


そこまで来ると、“死に方”は問題じゃない。


問題なのは、“生き方”が、もう残ってないことだ。


「九十九回目、俺はベッドで天井見てた」


画面の俺の声が、妙に静かになる。


「研究員が『今日は刺激を変えます』って言ってた。俺は『へえ』って思った。……それだけ」


『へえ』。


それだけ。


生き物の反応じゃない。


「そこでさ。ふと思い出したんだよ。昔、人体の図鑑見て、ワクワクしてた自分」


小学生の俺。


骨。


筋肉。


血管。


心臓。


「すげえ」って思った。


“生きてる”って、すげえって。


「なあ、俺、医者になりたかったんだっけ?」


画面の俺は笑う。


でも、その笑いは泣きそうだ。


「忘れてたんだよ。夢を。……死んでたのは体じゃなくて、心だった」


九十九回目の死は。


痛みでも、苦しみでもなく。


空っぽだった。


「そして、他の参加者は全員、死んだ」


画面の俺が言う。


「自分で。自分の手で。――俺以外、誰も残らなかった」


それが、施設にとっての“答え”だったのかもしれない。


壊れるのが普通。


壊れないほうが異常。


「俺だけが残った。残ったっていうか、残された」


九十九回。


“プツン”が九十九回。


それを見て、平気なふりができるやつ。


データとして、優秀。


人間として、失格。


「そして百回目が来た」


画面の俺は、そこで一度黙る。


口を開いて。


閉じて。


息を吸って。


吐いて。


それから。


「百回目で、俺は初めて怖くなった」


そう言って、真正面からカメラを見た。


「不思議だよな。九十九回まで、俺は死を他人事にしてた。……でも百回目だけは」


画面の俺の声が、震える。


「次の俺がいるってことを、急にリアルに想像した」


次の俺。


101回目の俺。


今、椅子に座ってる俺。


「『お前が生きる』って考えたら、急に怖くなった」


怖い。


何が怖い?


死が?


終わりが?


いや。


“続く”ことが怖い。


「もしさ。百回目で終わりなら、俺は最後まで他人事でいられたんだと思う。プツンで終わって、はい終わり。楽だった」


画面の俺は、唇を噛む。


「でも、終わらない。お前がいる。お前がこの記憶を持って、外に出る」


その瞬間。


俺は喉が焼けるみたいに痛くなった。


外。


施設の外。


俺は、まだ出てない。


「だから、言う」


画面の俺が言う。


声が強くなる。


「死は、スイッチが落ちるみたいに途切れる」


淡々と。


事実として。


「痛みとか、後悔とか、叫びとか、そういうのが永遠に続くわけじゃない。最後は、プツンだ。……簡単に終わる」


簡単に。


突然に。


「あっけない。拍子抜けするくらい、あっけない」


画面の俺は、そこで少し笑う。


「だからこそ」


その笑いが消える。


「先延ばしにするな」


短い。


刺さる。


「今の一分を、今の一秒を、『あとで』にするな。どうせプツンで終わる。終わるなら、終わる前にやれ」


画面の俺は、拳を握る。


「それと、もう一つ」


低く。


重く。


「命を軽く扱うな」


俺は息を止めた。


画面の俺が、続ける。


「俺は、俺の命を軽く扱った。金のために。自分の情けなさのために。逃げるために」


そうだ。


逃げた。


努力から逃げたんじゃない。


“届かない現実”から逃げた。


「その結果、俺は命の重さがわからなくなった」


それが、いちばんの罰。


「お前は、俺みたいになるな」


画面の俺が言う。


「お前が外に出るなら、お前は“繋ぐ側”に回れ」


繋ぐ側。


死がプツンなら。


生は、繋がってる。


息が繋がって。


脈が繋がって。


明日が繋がって。


「もしまだ、医者になれるなら」


画面の俺の声が、少しだけ優しくなる。


「行け」


たった二文字。


でも、百回の死より重い。


「救う側に行け」


画面の俺は、そこで目を伏せる。


そして。


堰が切れたみたいに、最後だけ感情が溢れる。


「……好きに生きろ!」


声が割れる。


「今死んでも後悔がないように! 好き勝手に生きろ!」


画面の俺は、泣いてない。


泣けない。


でも、泣いてるのと同じだ。


「俺の人生は、データだった。……でも、お前の人生は違うって言ってみろ」


研究員の声が、脳内で蘇る。


『君の死はデータだ。君の人生は違うのか?』


違う。


違うって、言いたい。


「なあ、101回目」


画面の俺が、最後に小さく笑う。


「お前が『違う』って言えるように、俺はこれを残す」


一拍。


「ハロー」


もう一度。


Hello。


「……生きろ」


映像が暗転する。


黒。


真っ黒。


それだけ。


そして、モニターに最後の文字が浮かぶ。


再生終了。


プツン。


音が消える。


……いや。


消えない。


俺の胸の中だけ、うるさい。


心臓が、うるさい。


生きてる音が、うるさい。


―――


施設の廊下は、白いままだ。


でも、さっきまでの白とは違う。


“出口に続く白”だ。


俺は立ち上がる。


足が少しふらつく。


百回分の記憶が、重力みたいに足首に絡みつく。


それでも歩く。


受付の無機質な顔認証。


無機質な「お疲れさまでした」。


無機質な封筒。


報酬。


俺は受け取って、ポケットに突っ込む。


重い。


紙が、重い。


金が、重い。


命より軽いくせに。


命を削って得たくせに。


自動ドアの前に立つ。


ガラスの向こうに、外の光が見える。


朝だ。


空が、薄い青だ。


眩しい。


眩しすぎて、目が痛い。


俺は一歩踏み出す。


風が頬に当たる。


冷たい。


生きてる。


その瞬間。


歩道の端で、誰かが膝をついた。


スーツの男。


顔が青い。


手が震えてる。


「……すみません」


声が弱い。


俺は反射で駆け寄って、肩を支えた。


体温。


重さ。


人間の重さ。


「大丈夫ですか」


俺の声が、現実の街に落ちる。


男は息を荒くして、胸を押さえる。


呼吸が浅い。


痛み?


過呼吸?


心臓?


わからない。


でも。


放っておけない。


“繋ぐ側”。


脳内で、百回目の俺が言う。


救う側に行け。


俺はスマホを取り出して、119を押す。


指が迷わない。


不思議だ。


俺は医者じゃない。


でも今、やることは一つしかない。


「救急です。人が倒れました。場所は――」


住所を告げる。


目の前の男の呼吸に合わせて、声を落ち着かせる。


「大丈夫。救急車呼びました。ゆっくり息してください」


言いながら、俺は自分の心臓の音を聞く。


うるさい。


でも。


このうるささは、嫌いじゃない。


生きてる音だ。


やがてサイレンが近づく。


赤い光が曲がり角から現れる。


隊員が走ってくる。


俺は男の肩から手を離し、少しだけ下がる。


役目を渡す。


繋いだ。


たった数分。


でも確かに、繋いだ。


隊員の一人が俺に言う。


「ありがとうございました。助かります」


俺は頷く。


その言葉が胸に落ちて、熱くなる。


助かる。


助ける。


助かる側じゃなくて。


助ける側に。


俺は空を見上げた。


薄い青。


施設の白とは違う。


世界の色だ。


俺は息を吸って、吐く。


そして、笑った。


軽く。


軽口みたいに。


でも、誓いみたいに。


「とりあえず、医大、目指してみるか」


学、二十歳。


百回の“プツン”を背負って。


百一回目の朝に、ようやく歩き出した。

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