魔法少女!?キューティエアリィ

雲居雁

第1話 Accept! なんで魔法少女

第一章 夢の中の、少女


 風を切る音だけが、世界から浮き上がっていく。

 白い光の粒が降り注ぐ森の中を、ひとりの少女が走っていた。


 その背中は可憐で、けれどどこか痛いほど切実だった。

 二つに括った肩越しに揺れる髪が、淡い光を受けてさらりと流れる。

 少女は振り返らない。

 何かに向かっている。追われているのではなく、抗うように。


(……誰だ?)


 風景がかすかに反響し、光が軋んだ。

 森が淡くひび割れはじめる。


「──やめろ!」


 少女の声。

 届かない叫び。

 次の瞬間、巨大な影が視界の先で揺らぎ、

 少女はその影に向かって飛び込むように走った。

 世界が白く弾ける。


──どういうことなんだ?

ここは、どこだ?

さっきの……あれは何だ?


 気づくと、別の風景が広がっていた。

 同じ少女が今度は歩いている。

 光の幕をくぐるように、ゆっくりと。


 その隣に、もう一人の少女の影が寄り添っていた。

 笑っている。

 声までは聞こえない。

 けれど、その横顔には確かに見覚えがあった。

 なのに、なぜか思い出せない。


 優しい光に紛れて、森の奥から黒い靄が揺れ出す。

 ふわ、と軽く漂ったそれは、空気に滲むように形を変えた。

  靄の中心に、白い小さな手が浮かんでいる。

 怯えるように震えながら、

 その手の先には──か細い少女の首。


 その怯えた黒い靄の中に浮かぶ〝手〟に握りつぶされる寸前の、首。


(やめろ……!)


 伸ばそうとした手は、夢に吸い込まれるみたいに霧散した。


 光がぱん、と弾けて世界がほどける。


 少女が、境界を破るようにこちらを見る。

 なぜか懐かしい瞳で。


 -*-*-*-*-*-


 胸の奥が焼けつくように痛んだ。

 その痛みを引き金に、夢の世界はぽろぽろと崩れ落ちはじめる。


「──うわぁぁっ!」

 自分の叫びが耳を刺し、大樹は跳ねるように目を覚ました。

 視界には、見慣れた寝室の天井。

(……夢? にしては、やけにリアルな……)


カーテンの隙間から差し込む朝の光と一緒に、賑やかな鳥の囀る声が、激しい呼吸音と共に部屋の中を満たしている。

 額の汗を手の甲でぬぐいながら上体を起こすと、胸の鼓動はまだ落ち着かない。

 走る少女、寄り添う影、黒い靄、握りつぶされる首。

 どれも夢の断片のはずなのに、妙に肌ざわりが生々しい。


 特に、最後にこちらを見た少女の瞳だけが、喉の奥に引っかかったまま離れない。


(……なんなんだ、あの感じ。懐かしい……? でも、誰だ……?)


 ぼんやりとした余韻に浸っていると、寝室にノックの音が響く。無言のまま寝室のドアに目を移すと、ゆっくりと開いていった。

 すると、ふんわりと朝食の良い香りを纏って女性が寝室に入ってきた。


「あら、おはよう。起きてたのね。なあに?そんな驚いた顔をして。変な夢でも見たのかしら?」

「あー……お、おはよう……そうなんだよ変な夢見てビックリしただけだから、大丈夫だよ」

「ならよかったわ。朝ごはん、できるからそろそろ降りてきてね。みゃこは先に起きて食べてるわよ」

「あ、ああ、紗英。わかった、すぐ行くよ」


 彼の妻、〝紗英〟はニコリと彼に笑いかけると、静かに階段を下りていく気配が遠ざかり、部屋は再び静かになる。

 夢の影は、薄い霧のように現実へ溶けていった。


「……ほんと、変な夢だったな」


 大樹はため息をつき、布団を押しのけて立ち上がった。


 一通り出勤の準備を終えてからダイニングに行くと、美夜子の席の前には空になりかけた皿が二枚。美夜子は専用の大きなどんぶりにご飯のおかわりをよそっている最中だった。美夜子は食欲全開で朝食に挑んでいる。


「お父さん、遅いよ。ご飯冷めちゃうじゃん」

「みゃこが早すぎるんだよ。まだ六時半だぞ」

「朝は戦場なんだから、とーぜんでひょ」

 美夜子は言い終わる前に大きな口を開けてひょいとご飯を運ぶ。

 紗英が食卓に新しいおかずを並べながら、テレビのボリュームを少し上げた。

 ニュースキャスターの深刻そうな声が響く。


『昨夜二十一時すぎ、雁奥市沖の海上に旅客機が墜落し……』


「昨日の……ニュースか……」

 箸を止めた大樹が、無意識に画面へ目を凝らした。

映るのは暗い海、浮かぶ残骸、規制線だらけの港。

まだ詳細は不明らしい。


(市街地じゃなくてよかった……とはいえ、ひどい事故だな……)


『乗客……のうち…………奇跡の』

 他人事なのに、胸の奥がざわついた。


「あー、これ昨日みんな言ってたやつだ。クラスLANEでも話題になってたよ」


美夜子がご飯を口いっぱいに詰め込みながら言う。


「んぐ……お父さん、ちょっと聞いてほしいことが……んむ……あって」


「喋るか食べるかどちらかにしなさい」

紗英に言われると、美夜子はごくりと飲み込み、椅子に正座し直す。


「スキー旅行、行ってもいい?」


「スキー? というと、泊まりってことだよな?」

「うん。トモちゃんとアキちゃんと。

 日曜日に三人で待ち合わせして、スキーの話し合いをするつもりなの」


トモちゃんとアキちゃん。

美夜子の数少ない本気で仲良い友達。


「……まあ、その二人なら安心だけど、泊まりはなあ……」


「心配しすぎだよ。だいじょーぶ」

「おまえはだいじょーぶでも、父親は心配するんだ」

「むぅ」


美夜子の頬がふくらむ。


紗英が目だけで合図してきた。

大樹は「ああ、なるほど」と気づいたように頷く。

「よし、条件つきなら許可だ」

「条件?」

「今度の中間テストで悪い点取ったら却下」

「うぐっ……!」

「勉強そっちのけで遊びの計画だけ立てるのは禁止だ」

「……頑張る」

「ああ、頑張れ」

紗英が微笑ましそうに二人を眺める。

「みゃこ、友達との約束ならしっかり守りなさいね」


「うん!」


美夜子は弾むように食器を片づけ、洗面所へ駆け込む。しばらくすると、慌ただしくカバンを手にして玄関へ走って行った。


「行ってきます!」


「おう、気をつけてな」


 元気に飛び出す娘を見送りながら、大樹はひそかに胸を撫で下ろした。


-*-*-*-*-*-


 それから少しして、大樹は最後に残ったコーヒーを啜り、カップをコトンとテーブルに置くと、それがいつもの出勤の合図だ。

 紗英がその音を聞くと、すぐにエプロンで手を拭きながらキッチンから出てきて、大樹の出勤準備を手伝うのであった。

「ん、ありがとう。じゃ、そろそろ俺も行ってくるわ」

「行ってらっしゃい」

「そうだ、今日は夕方からの会議があるからちょっと遅くなると思うよ」

「あら、夕飯は?」

「んー、何時になるかわからんから、俺の分は用意しなくてもいいや」

「そう、わかったわ。行ってらっしゃい」


 玄関先に柔らかな朝日が差しこむ。その光の中へ一歩踏み出した瞬間、大樹の輪郭がふっと揺れたように見えた。


 紗英はまばたきする。


(……あれ? いま、一瞬……)


 光に溶けるように見えた大樹の背中。ありえないはずの錯覚が、胸の奥でかすかにちらつく。

 けれど、大樹は気づかず軽く手を振った。


「じゃ、行ってくる」

「ええ。行ってらっしゃい」


 戸口から外へ出た大樹は、いつものように駅へ向かって歩き出す。自宅から駅までは十数分の道のり。

その足取りはいつも通りだった。この何気ない朝が、静かに軋みはじめていることなど知らぬまま。



第二章 ヒラヒラで、フリフリ


 玄関先で紗英に見送られ、大樹は駅へ向けて歩き出した。

 朝の空気はまだひんやりとしていて、住宅街には穏やかな光が落ちている。


 夢のことなど、すっかり頭から消えていた。

 仕事の段取りと今日のスケジュールが、自然と脳内の優先順位を塗り替えていく。


 十数分で雁奥中央駅(かりおちゅうおうえき)に着く。

 すでにサラリーマンと学生が入り混じり、駅前の空気は朝特有の焦げつくような慌ただしさに満ちていた。


 ホームに滑り込んできた電車に押し込まれ、大樹の職場がある新東坂駅(しんとうざかえき)へと向かう。

 電車の一部に融合してしまうほど詰め込まれたまま、駅に着くまで四十分の攻防。その責苦に耐え抜いた大樹は、毎日のこととは言えもうすぐ四十の体にはそろそろきつかった。


 だが、オフィスへ向かう通勤者たちの列に混じると、自然と大樹の中のスイッチが切り替わる。綿密に準備してきた大口案件のシミュレーションが脳内で何度も再生され、精神はすでに戦闘に向けて温度を上げていく。


(よし……今日のプレゼンはイケる)

 職場に着く頃には、大樹の背筋からは変な達成感が滲んでいた。その確信は、自然と胸の奥から湧き上がってきた。

 慢心と言われれば返す言葉もない。

 それでも、これまでの成功率を考えれば自信を持つのは当然だった。


 自社ビルの玄関ロビー。壁面に大きく掲げられた〝前田建設〟のロゴが朝日を受けて光を放つ。その文字を見ると、大樹の目に柔らかさと鋭さが同時に宿り、完全にビジネスモードへと切り替わる。


 エレベーターに乗り込むと、引き締まった空気と共に営業二課のあるフロアまで上昇していった。


「おはようございます、課長!」

 フロアに入るなり、田中の大声が飛んできた。

 朝から暑苦しいほど元気だ。だが、それがこの課のムードを形作るのに役に立っている。


「おう、おはよう。今日も元気だな」

「課長の今日のプレゼンも、絶対いけますよ!」


 そのさらに奥から、山本が歩いてくる。

「課長、資料の数字、ひとつ補足つけておきました。必要なら使ってください」

「お、ありがとう山本くん。助かるよ」


 山本は軽く頷くだけで席に戻った。

 本当に無駄がない男だ。彼のこのひとつまみの味付けが、資料の説得力を格段に上げる。今までもこのひとつまみにどれだけ助けられたか。


 そして、ゆったりとコーヒー片手に近づいてくる遠山。


「課長、おはようございます〜。駅前の新作スイーツ、今日から販売ですよ。帰りどうします?」


「……遠山さん。朝からそれか」


「大事ですよ? 糖分と癒しは働く大人の味方です」

「……否定はしないけどな。ふふっ」

 遠山の空気の読め無さが逆に、柄にもなく感じていた緊張感を和らげてくれる。

 三人とも個性は強いが、信頼できる部下たちだ。

 こうして朝のやり取りをすると、自然と気持ちが上向く。


(よし……今日も頑張るか)


 自席につき雑務を手早く終わらせると、資料を整え、今日の流れを再確認する。

 プレゼンは午後一番。クライアントは慎重派だが、今回の企画は手応え十分。相手も乗り気なのは事前のやり取りで伝わってきていた。


(うん、悪くないどころか、かなりいい出来だ)


 自分の中で何度かリハーサルし、発声と抑揚まで軽く調整してみる。

 自分で言うのもなんだが、大樹の営業力は社内でも〝切り札級〟だ。

 特に大口案件の仕留め率は高い。


(今日も……決めるぞ)


 そう胸の奥で気合を固め、部下たちに見送られながら大樹は一人会社を出た。


 昼前には客先へ到着。

 受付を済ませ、上層階の一番奥に位置する会議室を案内された。

「ここはどう見ても……」

  照明も備品も、普段の案件で使う部屋とは明らかに格が違う。

 違和感が胸をかすめたが、既にここは戦場だ。今は振り払うしかない。

 

  準備を整えてしばらくすると、クライアントのお偉方が一斉に入室してきた。空気の密度が一段重くなる。

 大樹は一通りクライアントとの挨拶を済ませると、部屋が暗くなり、スクリーンだけが明るく照らし出される。戦闘開始だ。

 スクリーンを操作しながら、いつものように落ち着いた呼吸でリズムを作っていく。


 声も滑らか。

 説明も噛み合う。

 自分でもわかるほど調子が良い。

 そして何より、クライアントの反応も上々だ。


(……いける。今日は確実だ)


 そう確信できる内容だった。


 ……だが。

 最初の違和感が、確信へと形を変えたのはその直後だった。


「……よく理解できました。とても素晴らしいと思います。ただ……」

 担当者が、申し訳なさそうに眉をひそめる。

 その後ろでは、お偉方がヒソヒソと小声で話し合っている。

 その微かなざわめきが、冷たい指で背筋を撫でた。


「社内の方向性がまだ固まりきっていなくて。

 本当に申し訳ないんですが、一度持ち帰らせてください」


「……っ」


 その瞬間、空気の温度がひとつ下がったように感じた。


(……そう来たか)

 方向性を決めるためのプレゼンじゃなかったのか。そのためのお偉方の面々だろう。大樹は顔が少し引き攣った。


「わかりました……ご検討結果の連絡をお待ちしております」

 表情には出さず丁寧に頭を下げる。

 営業マンとして、こういう時の立ち回りは慣れている。

(そうか、うちは利用されたのか)

 あのお偉方の最後の反応は、うちの会社が明らかな噛ませ犬として利用されたということが物語っていた。

 それがわかったところでもうどうしようもない。おそらくこの先検討結果の連絡は無いか、あったとしても悪い知らせだけだろう――胸の奥には、確かな悔しさが沈んでいた。


 クライアントのビルを出た瞬間、大樹は肩の力が抜けるのを感じた。空はまだ明るいのに、胸の奥は重く沈む。

 スマホで時間を確認すると、十六時を少し回っていた。


(……慢心だったか。悪くなかったはずだが……いや、最初から結果が決まっていたのなら、何をやっても意味がなかったか……)


 少しだけ風が冷たく感じた。

 その時、朝の遠山の言葉を思い出した。

『駅前の新作スイーツ、今日から販売ですよ。帰りどうします?』

 大樹はその言葉に一人クスリと笑った。いつまでもクヨクヨしてても仕方ない。次に進むしか無いのだ。

「こんな結果になったが、帰りにその新作スイーツとやらをお土産に持って行ってやるか」


 雁奥市の空は澄んでいる。

 いつもと変わらない街並み。

 抜けるような高い空、秋らしい爽やかな青空が広がっているのに気がつく。

 いつもの帰り道に、ほんの少しだけ色が戻る。


 ──なのに、このあと自分の人生が

 大きな非日常に巻き込まれるなんて。


 このときの大樹は、まだ何も知らなかった。



 -*-*-*-*-*-


 自社の最寄駅の新東坂駅(しんとうざかえき)に着く頃には日もだいぶ傾き、街の無機質な石碑群は夕焼けの赤に染まりかけていた。

 そろそろ仕事終わりの人波が増え始めてくる。彼らの流れと逆方向に向かっているのは、朝の高揚する気持ちとは裏腹に大樹の歩みを妨げているようで、足取りも重くなっていく。

(そう言えば、遠山さんの言っていたスイーツの新作ってこの辺りの店だったか?)


 大樹が周囲を見回すと、突然風がひときわ強く吹き抜けた。同時に大樹の胸の奥に、火傷しそうなほど熱いような、それでいて凍てつくほど冷たいような感覚が湧き上がるのを感じる。


(うっ……?)


 違和感を覚え始め、足を止めた大樹の視界の端で、世界の色がじわりじわりと無造作に絵の具を垂らしていくように塗り替わっていく。

 街路樹が、道路が、空が──鮮やかすぎる極彩色に変質し、現実がぐにゃりと歪み始めた。


 ほんの一瞬で、街は別世界になった。


「……な、なんだこれ……?」


 誰もいない。

 さっきまで人で溢れていたはずの通りに、影ひとつない。それどころか、音が全くしない。耳が痛くなるほどの静寂に包まれている。


 世界が……凍りついた。


 まるで写真で切り取られたような何も動かない世界に大樹は突然放り込まれた。


(誰も……いない? どういう……)


 脳が理解を拒むほどの異常事態。

 

 しかし、そこでふいに静寂を打ち破る爆音──遠くから衝撃音が響いた。

 ──ゴウン。


 地の奥底を叩いたような衝撃が響く。


「うぇっ!? な、何の音だ?」

 あまりの振動に、大樹の視界がぶれる。再び鳴り響く轟音。

 続いて、ビルの向こう側から、街の景色を押し潰すような巨大な影が動いているのが見えた。


 ──怪物。


 そう表現するにふさわしい巨大な異形の〝それ〟は、ビル群の隙間から姿を現した。


  胴体は太く節くれ立ち、複数の眼がねっとりと光り、金属のような尻尾が鈍いきらめきを帯びながら何本も空中に浮かんで揺れる。

 手足は胴体につながっていないのに、勝手に空間に浮かび、ゆっくりとうねる。

 そしてその大きさだ。並んで立つ十数階建てのオフィスビルと比較するとそれよりも高い。

 時折、不気味でいて何処か悲しげな咆哮が大樹の耳に叩きつけてくる。


(……何だよ、これ……)


 言葉が喉に張りつく。

 逃げるべきなのに、その異様さに足がすくんだ。


 だが、次の瞬間。


 「はぁぁぁぁぁっ!!!!」

 怪獣の隣のビルの屋上から、不気味な咆哮に負けないくらいの声が空間を切り裂いた。


 その叫び声が聞こえてきた場所を見ると、光に反射した何かがキラリと光りながら、ビルの屋上から飛び降りていくのが見えた。

 目を凝らすと、ヒラヒラした黄色の布が空中に舞い、それが手にした何か棒状のものを振りかぶって怪獣に叩きつけようとしている。


 ──カキィィィィィンッ!!!!


 直後、空気を震わせるような甲高い金属音がこの不気味な世界に響いた。

 一拍置いて衝撃波が地面、空気を伝いビリビリと大樹をも震わせる。

 何かを叩き込まれた怪獣は苦しげに叫びながら、空中をぴょんぴょんと飛んでいる小さく光る何かを追い払おうとしていた。

 時折り気合を入れるような甲高い叫び声を伴って、金属音が響き渡る。


「あれは?……怪獣と戦っている……のか?」

 目が慣れてくると、その黄色い影は人だということがわかる。しかも……ヒラヒラとした衣装を纏った女性だ。その女性が棒状のものはどうやら金槌のような見た目をしている。ただ、金槌の頭は非常に小さい。あんな小さな金槌で怪獣を攻撃しているのだ。果たしてそんなものが効果があるのだろうかと疑ってしまうが、なかなかどうして一撃を加えるたびに怪獣はダメージを負っているように見える。

 瓦礫を弾き飛ばしながら金槌の一撃が怪獣の頭部を直撃する。

 鈍く、乾いた衝撃が空気を揺らした。

 怪獣の複眼が二つほど割れ、黒い液体が飛び散る。


「す、すごい……」


 大樹は映画を見ているような感覚に陥り、この不可思議な状況にもかかわらず、言い知れぬ高揚感が湧き上がってくるのを感じていた。

  目の前で繰り広げられるのは、現実離れした戦い。

 女性と怪獣がせめぎ合い、じわじわと怪獣の体力が削れていくのが分かる。


「こんのぉぉぉっ!良い加減に倒れなさいよーーっ‼︎」

 飛び回って怪獣と戦っている黄色い彼女は、少し苛立ちを感じる声で叫んでいる。


「アーシィ、落ち着いて!君の攻撃は確実に効いてるよ! 後もう少しだ!」


 どうやら、戦っているのは彼女だけではないようだ。よく見ると、〝アーシィ〟と呼ばれた女性のそばを飛び回る、さらに小さな影が声をかけている。

 これまでの彼女たちの一方的な攻撃で、怪獣はなす術なく翻弄されている。

 彼女は、悶え苦しんでいる怪獣を見ると、ようやく地面に降り立った。


 「アル! もうそろそろいけるかなっ!?」

 「いや、まだだ、まだ決定打が足りないよ!」


 大樹は彼女の姿をはっきりと視認できる位置で、アーシィと呼ばれた女性をよく見ると、かなり年若い。ちょうど娘の美夜子と同じくらいか、少女と言っても良いくらいの容姿をしていることがわかった。そして、彼女の傍にいる小動物、猫のような姿をした人語を解するそれが、〝アル〟というのだろう。

 この空間、怪獣、それと戦う少女、そして猫のような不思議な生物、何もかもが大気の理解の範疇を超えていた。


「決定打……ね。もう少し頑張りますか!」

「その意気だよ!僕が先に行って気を逸らすから、その間に一気に畳み掛けるんだ!」

「わかったわ!」

 小動物──アルは、一直線に怪獣へと向かい、怪獣の目の前でぐるぐると飛び回っていた。

 その間にアーシィは息を整え、手に持った長尺の金槌をギュッと握り直した。


 顔を上げて怪獣を見上げて跳躍しようとするところだった。


「アーシィ! 後ろ!」

 アルが何かに気がつき、眼下のアーシィにそう叫ぶと、切り離されていた怪獣の尻尾が、アーシィを狙っていた。アーシィの視線はそれに向ける。

 そして、そのアーシィの視線を向けた反対側、完全に死角となる物陰にそれはいた。


(あ、あれは!? そうか、違う、そっちじゃない!)


 それは音も風も呼ばずゆっくりと影のようにアーシィの背後へ回り込みつつあった。アーシィが気を逸らせるその一瞬を狙っていた。あらかじめ潜ませて居たのであろう。蛇が獲物を狙うようにゆっくりと、ただそれは確実に獲物に近づいていく。

 最初の怪獣の尻尾は囮だ。しかし、アーシィもアルも気が付いていない。確実に近づいているもう一方の本命、それに気が付いているのは、大樹だけだった。


「くそっ! 間に……合えっ!」

 大樹は考えるよりも先に体が動いていた。足がちぎれそうなほどの全速力で走り、飛び込むように少女へ腕を伸ばす。そして、狙いをつけた本命の尻尾は、獲物を奪われまいとするように突然に速度を上げる。


「危ない!」


 尻尾の攻撃が届こうかという時、大樹はアーシィの身体を突き飛ばす。彼女だけが軽く転がり、その背後で尻尾が──


大樹の背中から腹を貫いた。


 温かい感覚が広がり、世界が霞む。


「がはっ……うっ、あ……?」


 視界が揺れ、腹を貫かれたまま膝から崩れ落ちる。


「な……っ!? だ、誰……!? なんで、人間が……!」

 アーシィの驚愕を聞くと、アルは光を放ち怪獣を跳ね飛ばすと、上空から駆け寄って来る。


「まずい……! アーシィ! このままだとこの人間、死ぬ……!」


 大樹の腹から尻尾が抜け、支えがなくなったその体は膝をついて少女の前に倒れ込むと、アーシィは咄嗟に大樹の体を抱き止める。

「ぶ、無事だったみたいだな。良かった」

 見上げる少女の様子を見ると、優しく微笑んだ。自分が瀕死の重症を負っていてもなお大樹は少女のことを気にかけていた。

「ははっ……血、血か? 俺……かはっ!」

 耐え切れず、大量の血を吐き出した。

 その腹の穴は誰の目にも致命傷、即死レベルの怪我であることは明らかである。

 そして、大樹はそのままスイッチが切れたように少女の腕の中で意識を失った。

 依然として彼の体から血が止め処なく流れ、少女の可愛らしい黄色い服、そしてブーツを赤く染めてしまっていた。


 アーシィは崩れ落ちる指先に触れる血の温度が、現実を容赦なく突きつけてくる。

「アル……お願い……凍結フィールド……!」

 その声には、焦りと祈りが入り混じっていた。

 アルは一瞬だけ迷うように目を伏せたが、すぐに顔を上げる。

「……こんな形で呼ぶことになるとはね。本当に良いんだね、アーシィ。正直僕は難しいと思うけど」

 アーシィは小さく頷いた。もう迷っている〝時間〟はなかった。

 アルはアーシィの決意をある目を見つめると、ゆっくりと瞬きしながら、体勢を立て直しゆっくりと迫り来る怪獣の方を向いて、すぅっと息を飲む。

「凍結フィールド……展開!」

 アルは虚空を見つめ叫ぶ。足元に魔法陣が回転しながらバンッと広がると、バチバチと雷光を光らせながらアルを中心として極彩色の世界を塗り替えるように灰色の球体が風船のように広がっていった。

大樹を包み込み、アーシィを包み込み、灰色の球体は加速度的に膨張し、こちらに迫り来る怪獣をも包み込んだところで膨張は止まった。刹那、灰色に変わった世界は、音も空気も凍りついた。

 ゆっくりと歩みを進めていた怪獣はピタリと止まり、大樹の腹から流れ出る赤い血までも止まった。

「準備は整った。次は〝彼女〟だ」


 アルは素早く地面を駆け、足跡に沿って淡い光の粒がぽつり、ぽつりと灯る。光が円を描いて閉じた瞬間、空気がひゅっとすぼまるように静まり返った。

咆哮も風も、ただ妙に〝遠く〟聞こえる。世界が膜一枚向こう側に押しやられたようだった。

「スピカ!!」

 アルの声が響き、空気が軋むようにひずむ。光が一点に集まり、そこから柔らかな影が立ち上がった。スピカだ。


 スピカはあたりを見回し、足元の血だまりを見て、ひゅっと息を飲む。


「……これは大変なところに呼ばれたわね。戦闘中なの?」

「説明している時間はあまりないんだ。スピカなら分かるよね」

「アル……この人間が? そう……そういうことね」


 スピカは倒れた大樹の顔をじっと見つめ、状況を一瞬で理解すると、静かに沈黙した。

 わずかな間が落ちる。

 そして、ひどく静かな声で言った。


「……分かったわ。やるしかないんだものね」


 スピカの瞳の奥に、鋭い緊張が宿る。大樹の腹から流れる血に視線を落とし、ほんのわずか表情を沈ませる。

「スピカ……お願い……! このままだと……!」

 アーシィの声に、スピカは応える代わりに目を閉じ、深く集中した。


 スピカは目を閉じたまま沈黙し、耳や尻尾がかすかに震えていた。まるで、見えないどこかへ意識を伸ばしているようだった。

「適性は確かにある……でもこのままだとダメ。なら……ああ、そういうことね。そうね、みんな、少し離れていて頂戴」

 アーシィは腕の中の大樹を見下ろし、ほんの一瞬だけためらった。それでもスピカの声の緊張に応えるように、そっと地面へと横たえ、アルと並んで数歩だけ下がる。


 するとスピカの三本の尾が静かに広がり、尾先の光がゆらゆらと地面に染みるように揺れた。

 何が起きているか分からないのに、アーシィには空気がざわつくのが感じられる。横たわる大樹の身体が、かすかに震えたように見えた。

「彼との〝同期〟が……このままじゃ途切れる」

 光が強く脈動し、スピカの耳がぴくりと震えた。

「……まだ反応がある。距離は関係ない……精神がまだ繋がっている。間に合いそうね」


 アルが唇を噛みしめるように問いかける。

「スピカ……本当に……大丈夫なのかい?」

 スピカは静かに目を開いた。

「方法は一つだけ。この人の体を再構築するしかないわね……少し強引だけど」


 その前足が大樹の胸に触れた瞬間、淡い桃色の光がスピカの身体を包んだ。三本の尾がふわりと広がり、尾先からこぼれた光が空中で細い流れとなり、ひとつの結晶へと収束していく。


 脈動する小さな光が、大樹の胸へ吸い込まれた。

 空気が震え、世界がほんのわずか色づいて見えた。


 アーシィは涙をこらえ、ただその光の揺らぎを見つめていた。

 ……そして、大樹の身体に微かな光が宿った。


「コネクト!

我、スピカはこの者の精神、肉体、時間を接続し、新たな魔法少女として承認する!

……いまより再生を開始するわ!」


 宣言と同時に、スピカの背中から薄桃色の光があふれ、翼のような膜がふわりと開いた。

 光は大樹の身体に降り積もり、まるで空気そのものが彼を包みなおしていくようだった。


 光は呼吸を始めたようにわずかに脈を打ち、世界の色がすうっと薄れていく。

 薄桃色の光が渦を巻くように大樹の体を包み込むと、逆再生するように足元に広がる血溜まりが大樹の体の中に巻き戻っていく。

 傷口は白い蒸気を上げながら内側から盛り上がり、大きな穴だったはずの腹部は肌の色さえ元に戻る。

 裂け、血に濡れていたスーツの布地までも元に戻っていき整っていく。

 

 光の繭の中。

 大樹はゆっくりと瞼を上げた。視界は淡く揺れ、現実味が薄い。


「……たいき……大樹ね……聞こえる?」

 頭上から、柔らかい声が落ちてきた。


「ん……俺、生きて……るのか?」


「ええ。あなたは死んでいないわ。再生したの」

 猫の姿をした何かが、ほんのり金色の尾を揺らしながら見下ろしている。


「再生……? って、どういう……。ていうか猫が喋ってるのは……夢か?」


「夢にしては、あなた驚かなすぎじゃない?」

 スピカは眉をひそめるように瞳を細めた。

 そして淡々と言葉を選びながら続ける。


「再生と同時に、あなたの〝因子〟を少しだけ変換したの。

 だから、あなたはもう〝変身〟できる」


「…………へ?」


 大樹の思考が一瞬止まる。

 次の瞬間──彼の顔に、男子小学生の頃の記憶が全部噴き出したような表情が浮かんだ。

「いきなり巻き込まれて、理解できないかも知れない……」

 スピカが言葉を続けようとするその瞬間、大樹は前のめりで割り込んだ。

「変身って……あれか!?

 ベルトをカチャッてつけて、腕を振ってポーズ決めて、敵ドーン! みたいな!? 俺の時代の、あの、憧れの……!」


 スピカの耳がぴくりと動く。


「……ちょ、ちょっと落ち着いて。あなた、死にかけたのよ」


「そりゃそうだけど! だって変身だぞ!?

 ついに俺にも来たのか、選ばれしヒーロー展開が!」


「ヒーロー……かどうかはさておき、

 因子を持つ者は世界を守る力と〝責任〟を持つの。

 いきなりこんなことになって大変かもしれないけど……戦ってもらうわ、大樹」


「戦う……。まあ、世界が危ないならやるしかないよな。

 で! 変身は? その、変身アイテムみたいなのは?

 ベルト? ブレスレット? 腕時計? 指輪? なんかあるだろ?」

 急に前のめりで詰め寄る大樹。

 スピカは一拍だけ無言になり、小さく肩を落としながらも、どこかほっとしたように尾を揺らした。


「……ちょ、ちょっと、落ち着いて。戦うのよ?大丈夫?」

 「何か問題でも?」と言いたげに、大樹の瞳は完全にキラキラしていた。


「はぁ……まぁ快諾してくれているようで良かったわ。じゃあ、説明する手間を省くために言うけど」


 光がきゅっと一点に集まり、

 まるで幻影を具現化するように、手のひらサイズの宝石が生まれた。


 淡いピンクの光を内側に抱えた、ハート型の宝石。


「これがそう。

 あなたが変身するための鍵。

 〝ハーティジュエル〟よ」


 光に照らされて、宝石は鼓動のように脈打った。

 スピカがふわりと近づき、その輝きを大樹の胸元へ差し出す。


「受け取りなさい、大樹。

 あなたがこれから立つのは──ただの人間では届かない場所よ」


「……っ。

 よし……! わかった。やってやるさ!」

 スピカから宝石を受け取った大樹は、しげしげと眺めたあと、どう扱えばいいのか分からないという顔で首をかしげた。

 次の瞬間、腰に当ててみたり、指にはめようとしたり、腕に押しつけたりと、思いつく限りのそれっぽい場所に次々と試し始める。


「? これ、ブレスレッドか? あれ? これどうやって巻くんだ?」


「いいえ、ブレスレッドでも指輪でもないわ。このハーティジュエルは、チョーカー型だから首に巻くの」

「チョ、チョーカー?」


「ええ、そうよ。首に当ててごらんなさい。勝手に首に巻きつくわ」


 言われた通り、ハーティジュエルを首に当てた瞬間、宝石の両端から黒いベルトがしゅばっと伸びて、大樹の首に自動で巻きついた。


 想像以上にしっかり締まる。


「ん? ちょ、ちょっと……これ、だいぶキツイな。

けほっ……うぐっ……いやこれ首苦しいぞ!?

もう少しこう……大きいサイズとか……」


「残念だけど、サイズはそれだけ。それより、ちゃんと聞きなさい。

変身するには、このハーティジュエルに触れながら呪文を叫んで、術式を描くの」


「へんしんじゅもん? じゅつしき?」


 スピカはひとつ息をつき、小さく首を振ってから言った。


「一度しか言わないから、よく覚えてね。


〝アクセプト!

キューティメタモルトランスレーション

エアリィアップ!〟


……以上よ。大丈夫?」


「きゅ、きゅーてぃ……めた……?

な、なんだって? ずいぶんクセの強い呪文だな……」


「しょうがないでしょ。

このハーティジュエルはその言葉と、あなたの声で発動するの。

呪文を唱えたあとは、ハーティジュエルが自動で術式を描くから」


「……わかったよ。

ちょっと首が……うぐっ……キツいけど……よっこらせ……」


大樹はふらつく足で立ち上がり、大きく息を吸った。

覚えたばかりの呪文を思い出しながら、勢いよく叫ぶ。


「アクセプト!」


 喉元のハーティジュエルが眩しい光を放つ。

次の瞬間、大樹の指先が勝手に跳ねるように動き出し、空中にピンク色の光を引きながら大きなハートを描いていく。


「うおおっ!? な、なんだこれ! 手が勝手に動くぞ!?」


「だから言ったでしょ。

いいから、光が消える前に呪文の続き! 早く!」


「お、おう! えっと、たしか……

キュ、キューティメタモル……トランスレーション──エアリィアップッ!!」


 -*-*-*-*-*-


 大樹が呪文を唱えた途端、ハーティジュエルから溢れ出したピンク色の光が、まるで生き物のように彼の体へ絡みついた。視界は一瞬で真白に塗り潰され、現実の輪郭も手足の形も見えない。


「うわっ!? な、なんだ……っ!」


 光が瞼の裏まで刺し込んでくるせいで何も見えず、ただ体感だけが鮮明になる。


 骨が縮むのとも伸びるのともつかない奇妙な圧迫。

 胸の奥が詰まり、呼吸が浅く軽くなる。

 重心が定まらず、足元がふわふわとしていておぼつかない。

 皮膚が張り裂け、頭が割れるように痛い、内臓がミキサーでかき回されるような強烈な不快感。


 ──自分がどうなっているのか……


 だが、光が強すぎて何も見えず、確認する術はどこにもない。ただ、不快感と強烈な痛みが永遠に続いてくるかのような感覚が次々と襲ってくる。


 やがて、不快感が徐々におさまって来たかと思うと、視界が次々とひび割れてくる。


 パキィン。


 ガラスが割れるような音が響き、大樹を包んでいた光が砕け散った。

 痛みと不快感は消え去ったものの、視界はまだ白い残光で揺れ、自分に何が起きているかは分からない。


 終わったのだろうか。と思った矢先、今度は光り輝いたままの体の周囲を、ピンクの光が一枚、また一枚と舞い踊る。

 羽衣のように擦れ、旋回し、体へ触れた瞬間──

 光が実体を持ち、体に纏わり付いてくる。

 まずは両腕。

 光が螺旋を描きながら腕に巻きつくと、

 ピンクと白のロンググローブが形となって残る。


 続いて脚。

 光が太ももからつま先まで走り抜け、ロングブーツへと変わる。


 腰へと流れた光の帯は、幾段ものピンク色の光が渦のように巻きついて、やがて花弁のように形成していく。

 そして、残った光の帯は腰をぐるりと回り、後ろの方で大きく結ばれた。


 上半身には、光がひときわ強く瞬き、白い装飾の入ったピンクのジャケットを織り上げた。


 最後に──

 首元のハーティジュエルから広がる白い光のリボンが胸に流れ、中央の宝石が鼓動のように脈打ちながら鎮座すると、最後に一際大きく閃光を放った。


 目が眩むほど眩しい光が徐々に収まり、目の前の風景がようやく見え始めた。


(はぁ……はぁっ……終わった……のか……?)


 終わったと思った次の瞬間、大樹の体は、理由もわからないまま勝手に動き出した。


 左手が腰に。

 右手が顔の横に。


(お、おい……まだ何かあるのか!?)


 思考が追いつく前に、口が勝手に動きだす。


「そよ風のように幸せ運ぶ!

 キューティエアリィ! おまたせっ!」


(……は?

 いま……誰の声だ……?

 俺の声じゃない……よな……?)


 その声は高く澄んでいて、どう聞いてもいつも聞き慣れた自分の声ではなかった。


 すべての光が霧散した途端、支配されていた感覚が一気に戻ってきた。反動のように強烈な吐き気が込み上げ、彼はその場に膝をついた。


「うぷっ……き、気持ち悪い……なんなんだよコレ……うぇぇ……」


「あのヒト、だ、大丈夫かな……? 顔色すごい悪いんだけど。アル、あたしの初変身もこんな感じだった?」


「い、いや、君とは条件が違うから……ね……か、彼はかなり無理をした……からっ」

 アルは光る魔法陣の中心にいたまま、彼の方をチラリと見て少し苦しそうに言った。


 肩で荒く呼吸をしながら、彼はゆっくりと深呼吸を繰り返す。少し楽になったところで、ふらふらと立ち上がった。


 視界に入ったのは、心底心配そうにこちらを覗き込むアーシィ。

 しかし──その視点に、違和感があった。


(……ん? なんだ? さっきまであんなに小さく見えてたのに……背、高くないか?

 俺と……同じくらい? いや、少し見下ろされてる?)


「あ、あなた……本当に大丈夫?」


「あ、ああ……なんとか……でも、なんか身体が変な感じで……変身って毎回あんな……ふうに……って、あれ?」


 耳に届いた声が、決定的におかしい。


 鈴の粒をばらまいたみたいな、軽いソプラノ。

 自分の喉から出たとはどうしても思えない。


「あーよかった。助かったんだね。えっと……エアリィ、だったよね?」


「えっ……エアリィ? 俺が? いや俺は大樹で……あれ? あれ? なんだこれ、声が……声がおかしい!? あー……あれぇ? げほっ、げほっ!」


 高すぎる声が耳へ返ってきた瞬間、認識が追いつかなかった。

 自分の声のはずなのに、意識がどうしても結びつかない。

 その矛盾が頭の中で渦を巻き、彼は数秒、まるで思考のスイッチが落ちたみたいに固まった。


「アーシィ、彼、まだ混乱してるわね。鏡、持ってる? 現実を見せてあげたほうが早いわ」


「そうね。はい、これ。落ち着いて見て。これが〝いまのあなた〟 キューティエアリィよ」


 アーシィから差し出された鏡の向こうには、ピンク色の長い髪を白くて長いリボンでツインテールにまとめた少女が、不思議そうにこちらを覗き込んでいた。


 桜色をひとはら含ませた頬。

 光を吸い込むように大きく澄んだ瞳。

 睫毛は長く、揺れるたび小さな光粒が跳ねて見える。

 小ぶりな鼻先の下には──


 桜色の、小さな唇。

 微かに震えて、こちらを映し返している。


 どこからどう見ても、完成された美少女だった。


 試しに頬をつねると、鏡の中の少女もまったく同じ動きをした。

 笑えば向こうも笑い、指を動かせば向こうも動く。


(……うそ、だろ……? これ、本当に俺……?)


「俺の……娘くらいの女の子……? はは……まさか……え、これ……俺か!? 俺ぇ!?」


 パニックになりながら、ぺたぺたと自分の顔を触る。


 アーシィはその様子を見て、ぎこちなく笑顔のまま手を差し出した。


「これであなたも、あたしたちの仲間ね。魔法少女キューティエアリィ。よろしく!」


「ま、まままま魔法少女ぁ!? なんで俺が!?」


「だって、あなたはもう魔法少女なんだもの。これからダークウィッチと──」


「ちょ、ちょっと待て!

 この……この膨らんでるの……胸!? おっぱい!? おいおいおい!!」


 彼は反射的に胸をわしっと掴んだ。


「や、柔らかっ!? しかも感覚が……俺の……え、じゃあ……下も……?」


「ちょっ、目の前に人いるんだけど!?」


 アーシィの存在など忘れたように、彼はスカートの中へ手を突っ込んだ。


 そして──固まった。


 そして──震えた。


 そして──叫んだ。


「な……ない……! 本当に……なぁぁぁい……!!

 俺、これからどうすりゃいいんだぁああああ!」


 力が抜けて、その場にへたり込む。

 アーシィは差し出した手のやり場に困り、頭を掻くしかなかった。


「変身って言うから、もっとこう……ヒーローみたいなの想像してたのに……

 なんで女の子……なんでフリフリ……なんでこんなの着て……あああっ!」


 彼女は半ば泣きそうな顔で、ピンクのスカートをつまみ、髪を触り、何度もため息をつく。


「妻と娘に……どう言えば……はは……『お父さん、魔法少女になりました』って……言えるかぁぁ!」


「だ、大丈夫……? 本当に……大丈夫?」


 アーシィは苦笑混じりに心配し続ける。

 だがエアリィは完全に意識が内側へ沈んでしまって茫然自失の状態だった。


 すると、光の魔法陣の中心で魔力を注ぎ続けていたアルが、苦しげな声を上げた。


「くっ……だ、だめだ……魔力がもう底をつく……っ。これ以上は保てない……アーシィ、君の変身も解ける!」


 その叫びは、場の空気をいっぺんに張り詰めさせた。


「……わかった。もう考えている時間はないわね」


 アーシィの表情がぐっと引き締まる。

 そして、へたり込んでいたエアリィの腕を掴み、ぐいっと力強く引き起こした。


「エアリィ。続きをお願いするわ。あいつを倒して!」


「え、ええ!? ちょ、ちょっと待ってくれっ! 一人で倒せって? ムリムリムリ! 俺、やり方も能力も何にもわかんないんだぞ!?」


「無理でもやるしかないの! 大丈夫、さっき私がかなり削っているし、やり方はスピカがちゃんと導いてくれるわ!」


「マジで!?」


「大マジよ! さ、早く!」


「いやいやいやっ、言ってる意味がわから──」


 そのとき、アルが悲鳴のような声を上げた。


「アーシィ、早くっ……も、もう限界だ……凍結フィールドが……解除される!」



 -*-*-*-*-*-


 ガラスを叩き割るような鋭い音とともに、周囲を覆っていた半透明の膜が一斉に砕け散った。

 凍結フィールドが解け、灰色に沈んでいた世界へ、洪水のように色彩が戻ってくる。


 同時に、アーシィの身体を包んでいた黄色の光がぱっとほどけ、一瞬で普通の少女の姿へ戻ってしまった。


 凍結が解除されたことで、怪獣は再び咆哮を上げる。巨体を揺らし、地響きを撒き散らしながら恨みを込めて動き始めた。

 エアリィは、その光景を見て観念するしかなかった。


「しょ、しょうがない……い、いっちょやってやるか!」


「ええ、エアリィ! いくわよ!」


 スピカが彼女の前へ飛び出し、ふわりと上昇する。

 そのまま滑るように怪獣へ向かって突進した。


「ちょ、ちょっと待てって! い、いくわよって……俺は、どうすりゃいいんだ!?」


「大丈夫。私があなたの頭へ、攻撃方法のイメージを送るわ。防御の仕方も!」


「わ、わかった……のか? まあ……わかった!」


「エアリィ! 飛んで!」


「飛ぶ……か。お、おう! 飛ぶ……飛ぶ……飛ぶぞ!」


 飛翔を想像した瞬間、エアリィのまわりに空気の渦が巻き起こり、身体がふわりと持ち上がった。


「わわわっ、う、浮かんだぁぁぁ!?」


 生涯で一度も経験したことのない浮遊感。

 どう体を動かせばいいのか分からず、足はばたつき、姿勢は崩れ、宙の上でぐらぐら揺れるだけだった。


「落ち着いて! あなたは〝大気〟を司るの。空気を操れば、思った通りに動けるはずよ!」


「空気を……操るって……どうすりゃ……」


「ほらっ! 左から攻撃! 防御!」


「う、うわあああっ!」


 エアリィは反射的に腕を前へ突き出し、防御の構えを取った。

 しかし怪獣の腕の軌道は重く、直撃した衝撃は想像以上に強烈だった。

 彼女の小柄な体は、空中へ弾き飛ばされてしまう。


 だが、落下の途中で気づいた。


「っくぅ……いった……くない? あれ?」


「ほら、痛がってる場合じゃないわ! そんなの気のせい!」


「気のせいってな……!」


「いいから反撃! キックでもパンチでも、何でもいいから出して!」


「いやいやいや、あいつトゲトゲだし!

 めっちゃ硬そうなんだけどぉぉぉ!?


 -*-*-*-*-*-


 地上では、アーシィとアルが空を見上げていた。エアリィが不格好に弾き飛ばされるたび、心臓がひやりと揺れる。


「だ、大丈夫……よね……?」

「ほら言った。戦闘中にいきなり魔法少女なんて、まともに動けるわけないんだよ」

「仕方ないでしょ! あの状況じゃあれしかなかったんだから!」

「まあ……そうだけど」

「でも大丈夫よ。彼には適性があったんだから。それにスピカも一緒だし、いまの私たちにできるのは見守ることだけ」


 アーシィの言葉に、アルはようやく小さく頷いた。


 空では、エアリィがアタフタと逃げ回っていた。

 だが風の魔法少女としての本能なのか、動きは素人そのものなのに、攻撃だけはまるで風に押し流される木の葉のように、ギリギリで避けている。


「わわわわわぁぁぁっ!?」


「あなた! 男なんでしょ! ずっと逃げてるだけじゃダメよ!」


「そ、そうだ……西田大樹、三十八歳! ここで逃げたら男が廃るっ!

 ローンはまだ三十年残ってるし、妻と娘が待ってるんだぁぁぁ!!」


 自分で言いながら半泣きのまま、エアリィは怪獣をキッと睨んだ。

 気合を込めた小さな拳がぷるぷる震えている。


「で、でかっ……うう……に、逃げるのはもう……お終いだ!

 くっ……こ、これ以上暴れさせないぞっ! か、覚悟しろぉぉ!」


「その調子よ!」


 しかし、その直後。

 怪獣が目の前で咆哮すると、その風圧だけで身体がビクンと跳ねあがった。


(ひっ……! こ、こいつに刺されたんだよな俺……!)


 脚がかすかに震える。

 それでもエアリィは、自分の頬を軽く叩いて気合を入れた。


「が、がんばれ俺! がんばれぇぇっ! い、いくぞぉぉぉ……え、えっと……こうだっ! えーいっ!」


 ぎゅっと目をつぶって突き出された拳。

 か弱い一撃になるはずだったのに──


 途中で拳が引っ張られるように急加速し、そのままエアリィの全身ごとミサイルのように怪獣へ飛んでいった。


「うわ!?

うぎゃあああああああ!?」


 雨のような攻撃をすり抜け、気がつけば拳は怪獣の腹部へ深々と突き刺さっていた。


 べこん。


 異様な音とともに、怪獣の胴体が大きく凹む。

 内部から白煙が上がり、怪獣は咆哮もできずに後ろによろけてしまう。怪獣の口からは赤黒い体液のようなものが吐き出される。


「……こ、これが……俺のパンチ……?」


 エアリィは、震える小さな右手を呆然と見つめた。


「感心してる暇はないわよ!

 ここまで弱ったら私がホールドするから、あなたは狙いを定めてトドメを入れて!」


「お、お、おうっ! ホールド? なんだか分からないが、わかった!」


 スピカはエアリィの前へ滑り出た。

 ふわりと三本の尻尾が広がり、空気の層が薄く震える。


 次の瞬間、スピカはすっと目を閉じ、深い呼吸とともに、彼には意味の取れない音を紡ぎ始めた。

 それは呟きとも詠唱ともつかない、不思議な律動を持った言葉。

 まるで魔力の回路そのものをひとつずつ繋ぎ合わせているようでもあった。


 空気がぴん、と張り詰める。


 スピカはぱちりと目を開き、怪獣を射抜くように見据える。


「ホールド! 現在座標、承認!

 無獣を固定化!」


 宣言と同時に、スピカの尻尾から奔った光がリングとなって怪獣の周囲へ広がり、ぴたりと位置を固定するように展開した。


 リングはゆっくり回転を始め、徐々に速度を増し──

 やがて、ひとつの輝く球体となって無獣を包み込んだ。


 内部で暴れようとも、内側からは破れない魔力の檻。

 動きを封じただけで倒すことはできないが、決着まで逃がさない。


 まさに仕留めるための、最後の檻だった。


「いまよ、エアリィ!」

「わ、わかった! えっと……必殺技、だよな……!?」

 胸の奥がずきりと熱を帯びる。

 息を吸おうとしても肺の奥が震え、うまく空気を掴めない。

 それでも彼は、自分に流れ込んでくる〝イメージ〟に意識を合わせようとした。


(……こんな格好だけど……こんな姿だけど……

 でも……妻と娘が、待ってる。

 帰らなきゃ……絶対に。ここで負けるわけには……いかないだろ。俺は家族を生活を守るんだ)


 震えた指先に、かすかな風の流れがまとわりつく。


「……わ、我の呼びかけに応え……

 イメージを、具現化……せよ……シルフィヴァーゴ!」


 叫んだ瞬間、スピカの三本の尾が白炎のように燃え上がった。

 尾の先から風が吹き荒れ、音もなく渦を巻く。

 大気の薄層が裂け、光が生まれ、風が花の形に折りたたまれる。


 その折りたたまれた風が、エアリィの手に集い、形になった。


 シルフィヴァーゴ。


 それは、まるで風が自分を忘れて弓の姿を演じているような神秘さだった。

 弦は空気。

 弓身は風の骨格。

 枝先に咲く花は、風のささやきが形をとったもの。

 握りには、薄い円環が静かに回転し、淡い呼吸のような光を発している。


(……すげぇ……

 いや、すげぇなんてもんじゃない……

 こんなものを……俺が……?)


 圧倒と恐怖がないまぜになり、喉がひゅっと狭まる。

 けれど、胸の奥の別の熱がその隙間にすべり込む。


(……やるしか、ねぇんだよな……)


 彼は震える指で、弦──空気そのものに触れる。

 ふわりと矢光が生まれ、彼の心臓の鼓動と同じリズムで脈打った。


「いっくぞぉぉぉおおお!!

 俺の生活を邪魔するやつは……許さない!

 エアリィ……シューティングスター!!」


 矢を放つと、空気がひっくり返ったような感覚が走った。

 彼女のまわりに、星の欠片のようなピンク色の光が瞬く。

 ひとつ、またひとつ……かと思えば、次の瞬間には数百、数千。


 空がピンクの星雨で満たされる。


 光の矢は一直線に無獣へ突撃し、ひとつ残らず突き刺さる。

 矢が貫くたび、空気が高く澄んだ音を鳴らし、まるで世界が彼女の攻撃に共鳴しているようだった。


「……っすげ……」


 矢は止まらない。

 推進力を失わず、無獣を包む光球をぐぐぐっと押しつぶしていく。


 光球は縮む。

 さらに縮む。

 その圧縮は、空間の悲鳴のように空気をうならせながら続く。


 やがて──


 ゴルフボールほどに押しつぶされた光球が、ひときわ鋭くバチバチと揺らめき。


 静止。


 そして。


 破裂した。


 白い閃光。

 風の爆ぜる音。

 無獣の断末魔が、空の高いところで砕け散り、星屑のように消えていく。


 残されたのは、風に舞う、淡いピンク色の光の花びらだけだった。



第三章 魔法少女は、不安がいっぱい


「ほら見てアル! やったわ! 彼女……いや彼? どっちでもいいけど、とにかくやったのよ!」

「……やれやれだよ」


 爆散した無獣の残滓が白煙となって上がる。

 その上空で、エアリィは肩で息をしながら、ふわりふわりと頼りなく宙に浮いていた。


「はぁ、はぁ……俺、やった……のか……?」

「ええ、終わりよ。初陣で予備知識なしなんて普通は無茶もいいところだけど、結果は上出来」

「む、むじゅう……あの怪獣のことか?」

「そう。あいつらを〝無獣〟って呼んでるの」


「しかし……こ、これはしんどいな……これ、これがずっと続くのかよ……?」

「ずっとじゃないわよ。魔法少女全員が揃って、やつらの計画を止めることができれば……この世界を覆う悲しみの歪みを払える、はず」

「はず……? 全員ってあと何人だ?」

「あと二人ね」


「なんだ、二人か。すぐじゃないか。んで……俺が出てくるまでどれくらい?」

「半年くらい。ずっとアーシィが一人で踏ん張ってたの」


「半年……。三人目がさらに半年後……四人目はそのまた半年……。

 ってことは……まだまだ先じゃないか……はぁ……」


 エアリィとスピカはふらつく足取りのまま地上へ降りると、アーシィとアルへ駆け寄っていった。


「やったじゃない! 初めてにしちゃ本当に上出来よ。おめでとう。あ、そうだ、自己紹介まだだったわね。

 あたしは大地を司るキューティアーシィこと、北島明日美」


「僕は明日美のパートナー、アルデバラン。アルって呼んでいいよ。よろしく」

「はぁ……えっと俺は……西田大樹です。三十八歳。……よろしくお願いします」


 ペコリと頭を下げる仕草は完全におじさんで、エアリィの姿とのギャップがどうにも落ち着かない。


「なぁ、君たち……一つ聞かせてくれ。

 俺……元の姿に戻れるよな? ずっと女の子のままじゃないよな?」

「多分大丈夫。変身を解けば、こんなふうに元に戻れるはず」

「多分って……。それに君は、見たところ元から女の子じゃ──」

「アル、それは言い方ってものがあるでしょ!」


「なんだったら今すぐやってみたら?」

「そ、そうだな……。えっと? どうやるんだ?」


 大樹がスピカに助けを求めようとした瞬間、アルデバランがピクリと耳を動かした。


「あっ! しまった……ダークウィッチの気配が、いま……消えた。くそ、もう追えない。完全に逃げられたよ」


「ダークウィッチ……? さっきもスピカが言ってたけど、あの怪獣とは別物なんだよな?」

「そうよ。ダークウィッチは無獣を操って、人々の悲しみを集めてる。世界を破滅の悲しみで満たそうとしてるの」

「そ、そんなヤバい連中と……俺、戦っていけるのか……?」


「大丈夫! あなたならいけるわ」

「なんか、根拠が薄い励ましだな……」

「薄くないわよ。さっきのあなたの戦い方を見てたら分かるもの」


「そ、そうか……。まあいいや、そういうことにしとく……」


 エアリィは華奢な小さな手で、自分の頭をポリポリと掻きながら、納得したふりを全力でしつつも、不安を押し殺すように小さく息を吐いた。


「それと、ひとつだけ。すごく、すごく大事なことね」


 明日美が声を落とした。さっきまでの勝利の熱がすっと引いて、空気が薄く張り詰める。


「あたしたちが魔法少女だってこと。普通の人に知られちゃだめ。絶対に」


「知られると……どうなるんだ?」


「変身が解けなくなるし、巻き込まれた人も危険に晒されるかもしれないの」


「えぇぇぇぇぇ!? そ、そんなの絶対イヤだ!」


「だからバレなきゃいいの」


「いやまあ……理屈はわかるけど……。それよりも俺がさっきのあんな姿、家族に見つかったりしたら……社会的に死ぬ……」


 途端に世界が、絵の具の溶けた水面みたいにゆらりと揺れはじめた。

 極彩色の空気がほどけ、現実の街の夕暮れが透けてくる。


 ピンクの光が彼を包む。

 長いツインテールも、膨らんだ胸元も、桜色の小さな唇も──薄靄のように消えていき、三十八歳の西田大樹が戻ってきた。


「……戻った。……戻ったよなぁ……はぁ、よかった……」


「ふふ。言ったでしょ、変身を解けば元通りだって」


 明日美は胸を撫で下ろしつつ、スマホを取り出した。


「じゃ、何かあったらここに連絡して。あたしのLANE ID」


「お、ありがとう。じゃあ……これ俺のID。あ、でも……夜はあまり送らないでくれ。妻に『誰?』って言われたら死ぬ」


「そ、そうね。あなた結婚してるのよね」


 明日美の視線が、大樹の左手薬指の指輪にとまる。

 彼は照れくさそうに手を握りしめた。


「ああ、頼むよ」


「っていうか俺、会社に帰る途中だったんだ! どのくらい時間が……うわっ、急がなきゃ!」


「大丈夫よ」


 明日美は微笑む。


「ウィッチーズスペースは別位相にあるから、外とは時間の流れが違うの。ほとんど経ってないわ」


「助かった……! じゃ、急ぐから!」


 大樹は鞄を抱えて、ばたばたと走り出した。

 その背中は、さっきまで魔法少女だったとは思えないほど、やけに生活感に満ちている。


「あ、ちょっと! 待って!まだ!……ああもう!」


 呼び止めた声も届かず、彼は雑踏の中へと吸い込まれていった。


 ふと明日美は目を瞬き、小さくつぶやく。


「ハーティジュエル……首に付けたまま行っちゃったわね……。なんていうか……うん、ちょっとだけ、妙に似合ってたけど……」


「似合ってた? 明日美、あの人がタイプなんだ?」


「ち、違うわよ!? スピカ、なに言って……!」


「うふふ、冗談よ」


 スピカはふっと悪戯っぽく笑い、淡い光にほどけながら姿を薄めた。


「じゃ、私は彼についていくから。またね」


 静かに、誰の目にも触れずに消えていく。

 明日美は夕暮れの風を一つ吸い込み、遅れて押し寄せた安堵を胸の奥でひっそり整えた。


 -*-*-*-*-*-


 無獣という得体の知れない怪獣と、こともあろうに魔法少女となってどうにか戦った大樹は、自分の身に起きた現実を咀嚼しきれないまま、職場へと急いで戻った。


 電車の中で、部下の田中にLANEで短く報告した。


『田中。説明は後でまとめてやるが……先方、ダメだった』


 すぐさま通知が連打される。


『えっ』

『課長、それ本気ですか!?』

『今日の案件は勝ち筋しかないと思ってましたよ』

『どうなってたんです!?』


 大樹は簡単に返す余裕もなく、

(ああ、全員ショックだろうな……)

と胸の奥がズキリとした。


 エレベーターを降りた瞬間、田中が駆け寄ってきた。

「課長! ……その、連絡、見ました。まさか、あんな……」

 言葉は続かなかったが、彼の顔がすべてを物語っていた。

 大樹は、ふっと肩をすくめるだけに留める。

「まぁ、そういうことだ。全員に声をかけておいてくれ。集まれるか?」

「……はい。すぐに」

 田中は歯を食いしばりながら頷き、駆け戻っていった。

 その背中には、悔しさの奥に、揺るがない信頼があるように見えた。


 会議室へ入ると、すでにほとんどのメンバーが席についていた。

 大樹が姿を見せるまでは沈黙だった部屋が、ざわ……とわずかに揺れる。

 誰のせいとか、誰が悪いとか、そんな言葉はひとつもない。

 ただ、信じていた案件が崩れた衝撃に、それぞれが整理のつかない表情を浮かべていた。


「……以上が先方の返答だ。途中までの手応えは確かにあった。だからこそ……余計に堪えるだろう」


 プロジェクトメンバーたちは、呆然としたように黙り込んだ。


「そんな……」

「じゃあ本当に……」

「噛ませだったってことですか……?」


「……そういうことだろうな。先方は検討して連絡すると言ってたが、まあ来ないだろう」


 大樹は苦く笑った。

 誰かのせいにもできず、誰を責めることもできず。

 ただ誠実に向き合うしかなかった。

「みんなはよくやってくれたと思う。ありがとう」

 大樹は立ち上がると、その場にいる全員の顔を見回し、笑顔で頭を下げた。

 頭を上げ、パンッと手を叩くと、全員の気持ちを切り替えるように元気よく宣言した」

「さあ、みんな! いつまでも悔やんでも仕方ない、落ちたと言う事実は変わらないんだ。この事実を次に活かそうぜ!」

 落ち込んでいるように項垂れていた部下たちは、大樹の言葉に逆に元気づけられ、会議室は活気付いた。

 「その前に、遠山さんに聞いた新作スイーツをみんなのために買って来たんだ。食べながらやろうぜ」

 傍から出したスイーツの箱を取り出すと、部下たちは歓声を上げた。


 そして、続く会議は和気藹々と進み、練り直しではなく、報告と反省、そして今後の組織としての立て直しに内容が移っていった。

 会議が終わる頃には、逆に大樹のチームとしての結束力が上がり、逆に士気が高くなっていたのだった。


  そして帰り支度をしている部下たちがぽつぽつと声をかけてくる。


「課長、お疲れさまでした……。なんか、今日は色々、助かりました」

「俺たちも次、ちゃんと取り返しますから」

「スイーツ、またお願いしますね」


「最後のそれはいらんだろ」

 呆れたふりで肩をすくめながら、どこか誇らしげでもある。

 良いチームだと、大樹は思った。

 きっとまた、この人たちと一緒に戦える。

 気づけばもう社内は夜の空気になっていた。


 全員が帰ったあとの営業二課のフロアは、昼の熱気を忘れたように静かだった。

 大樹は椅子の背にもたれ、ひとつ深く息を吐いた。


 自分のせいで負けたわけではない。

 だが、みんなで勝ち取りたかった。

 その思いを胸にそっと深呼吸し、気持ちを整える。

 明日は、また明日の戦いがある。


 最後の報告書を提出し、明日の準備を整えたところで、ようやく大樹は会社を出た。


 -*-*-*-*-*-


(ちょっと会議で遅くなるとは言っていたけど、こんなに遅くなるとはな……ん?)


 電車の窓ガラスに映った自分の首筋に、妙な光がきらりと跳ねた。


 大樹はそっと襟元へ手をやる。指先に触れたのは、ワイシャツの下に残っていた細い帯。光沢のあるリボンの感触だった。


(……まさか)


 襟をそっと引き下げると、チョーカーの宝石が車内灯を吸って静かに輝いていた。


(げぇっ……まだ付いてたのか……!

 うわ……今日一日……ずっと……?)

 大樹は一気に顔が熱くなるのを感じた。


(……誰も気づいちゃいないだろうけど。いや、それでも恥ずかしいわ……)


 そんな、トイレ後にチャックを上げ忘れていたのに気づいた時みたいな、自分だけが赤面する類ににている。


 大樹は慌ててチョーカーを外し、背広の内ポケットにぐいっと押し込んだ。


 思い返せば、今日一日の中でおかしなことがいくつもあった。

 非現実と現実が脳内でごちゃ混ぜになり、疲れがどっと押し寄せてくる。


(それにしても……俺が魔法少女って……どうするんだよこれから……)


 父として、夫として、会社員として、そして男として。

 そのすべてを守りながら魔法少女を続けるという無茶な現実に、頭が痛くなる。


 -*-*-*-*-*-


 大樹は不安を抱えたまま、自宅の玄関を開けた。


「ただいまー」


「あら、あなた、思ったより早かったのね」

「おかえりー、お父さん!」


 紗英は頭にタオルを巻いたまま、風呂上がりの足取りで駆け寄ってくる。

 美夜子は寝巻き姿で、いつものクマのぬいぐるみを胸に抱いていた。

 家の空気は温かく、ふわりと湯気の残る幸せな日常が広がっている。


 だが──美夜子は何かを感じ取ったように、大樹の背後をじっと見つめた。


「あれ……? 玄関のところに……猫? お父さん、この猫どうしたの?」


「え?」


 大樹は反射的に振り返った。

 そこで初めて気づく。

 玄関ポーチの明かりの中に、スピカがちょこんと座っていた。


 まるで最初からそこにいたかのように。

 そして、まるで「遅かったわね」とでも言うように、しれっとした顔で見上げている。


「にゃー」


「うわぁぁっ! おまえは、す・す・す……!」


「す? あなた何を叫んでるのよ。近所迷惑よ?」


「かわいいー! 猫ちゃーん、こっちおいでー」


 美夜子が手を伸ばすと、スピカはしなやかに歩き出す──が、それを見て大樹は慌てて抱き上げた。


「あっ、お父さん?」


「にゃーん」


「み、美夜子、あはは……!

 ちょ、ちょっと待っててくれ……!

 こ、この子、なんか怯えてるみたいだ……!

 外で……落ち着かせてくるから!」


 バタン、と無理やり玄関を閉める。


「み、美夜子、あはは……!

 ちょ、ちょっと待っててくれ……!

 こ、この子……なんか怯えてるみたいなんだ……!

 外で……落ち着かせてくるからっ!」


 バタン、と急いで扉が閉じられる。

 残された母娘はぽかんと顔を見合わせた。


「怯えてた? この猫……すごいノド鳴らしてたよね?」


「ねー……なんか今日のお父さん、変だね」


 -*-*-*-*-*-


 スピカを抱き抱えたまま、下手な言い訳で玄関の外に出ると、大樹の腕の中でスピカはするりと体をひねり、小柄な影となってポーチへ飛び降りた。

外灯の下、毛並みだけ妙に神々しい。


「スピカ! なんで俺について来たんだ!」


 大樹の声に、スピカはしれっと尻尾を揺らしながらため息をひとつ。


「言ったでしょう。あなたと私はパートナーだって」


「いや、だからって……!」


「家族の前では猫に徹するから。安心して」


「いや安心できるか! ……いや……できる……のか……?」


「ふふ。もう見つかっちゃったものは仕方ないの」


「お、おまえなぁ……」


 スピカは目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、

ピョンッと軽く跳ねて、再び大樹の腕に収まった。

もう言い訳を聞く気もないらしく、猫としての役割へすっと滑り込んでいく。


 大樹は腕の中の温もりを感じながら、ひとつ息をこぼし、夜空へ視線を上げた。

 秋の星が、どこか他人事みたいに瞬いている。


 こうなると、もう観念するしかない。


 決壊した堤防みたいな気分のまま、そろそろと再び玄関を開けた。


 -*-*-*-*-*-


「あなた、大丈夫?」

「あ、ああ……大丈夫だ……うん」

「お父さん、誰と話してたの? なんか声が聞こえたけど」

 美夜子の鋭い疑問に、大樹の焦りは一気に跳ね上がる。

「は、話し声? いや……そう、電話……仕事の電話が来ててな」

「ふぅーん。変なお父さん。で、猫ちゃんはもういいの?」


「何が?」

「あれ? 怯えてたんじゃないの?」

「あ、ああ……ほら、もう大丈夫だ。な? 見てみろ」


 支離滅裂な言い訳をする大樹の腕の中で、スピカは片目だけをすっと開け、大樹へ静かな嘲笑を投げてから、すぐに猫の無垢な表情へ戻った。


 異様に引きつった笑みを貼り付け続ける大樹の横で、美夜子はスピカを抱き上げ、嬉しそうにくるりと回る。


「ね、お父さん! この子、飼うよね!?

 だってこんな可愛い子、放っておけないじゃん!」


「え、いや……あの……」


 大樹の動揺を一切気にしないまま、美夜子は次のターゲットへ視線を向ける。


「ね、お母さん! いいでしょ? 飼ってもいいでしょ?」


 紗英はスピカを一度見つめ、次に美夜子の弾むような顔を見る。

 ため息とも微笑ともつかない息を吐いた。


「……ちゃんとお世話するのよ?」


 その瞬間、美夜子の表情がパッと花開く。


「するするする! ぜったいする!

 わぁぁ、良かったねぇ、ねこちゃーん!」


 スピカは美夜子に頬をすり寄せ、先ほどよりもさらに喉を大きく鳴らした。

 どう見ても怯えていた猫ではない。


 大樹はその様子を見ながら、心のどこかで諦めの鐘が鳴るのを聞いた。


(……これもう、完全にウチの家族になるやつじゃん……)


「うーん、この猫ちゃん、なんて名前にしようかな〜。

 タマ……は古いし……ミャー子……はボクだし……」


 美夜子は抱いたまま、スピカを上へ下へと揺らしながら名前を考えはじめる。

 その間、大樹は横目でスピカを見ると、猫の皮をかぶった相棒が

「ほら、言いなさいよ」

とでも言いたげに、こちらへチラリと視線を寄越していた。


「あ、あー……実は、さっきふと思いついて、

 ス、スピカ……ってのはどうだ?」


「スピカ? あら、素敵じゃない。お父さんにしてはセンスあるじゃない」


「──にゃあぁん」


 美夜子に抱きしめられ、スピカは満足そうに喉を鳴らす。


「そ、そうか……センスいいか……うん……」


 娘に褒められ、顔が完全に溶けてしまうお父さんである。もちろん、名前を考えたのは彼ではない。


(……この人、本当にやれるのかしら。魔法少女なんて)


 美夜子の腕の中で、スピカの耳がぴくりと動く。

まるで、大樹の未来を案じているように。


 こうして、なし崩し的に魔法少女となってしまった、

もうすぐ四十歳のアラフォーサラリーマン、西田大樹の運命は──。


 誰にも、まだわからない。

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