だけど、心臓だけが動いてた
白夏緑自
だけど、心臓だけが動いてた
電気、水道、ガスが止まった真っ暗な部屋。灯りがないせいか、エアコンを切っている普段よりもずっと寒い。窓や扉は締め切っているはずなのに冷たい空気がひしひしと充満している。
もう誰にも会わないからとスウェット2枚を重ね着した動きにくい上半身で準備を始めた。
机の上にのせるのは七輪。燃やすための練炭と、それだけでは心許ないので雑誌を使う。
七輪と練炭は以前ノリで買ったものの余りだ。家で七輪を使おうとしたバカなアタシたちは木炭との違いもわからず練炭を買っていた。
2年以上放置していたものだが、問題なく火は点くだろうか。
七輪のなかに目皿を置き、その上に破いた雑誌のページと練炭を敷く。
感覚が鈍くなった指先で苦労しながらマッチを摘まみ、箱のザラザラしたところで擦ろうとしたそのとき、青白い手が視界に飛び込んできた。
「早まらないで! 冷蔵庫にお肉がまだ残ってる!」
「や、お前誰だよ⁉」
は? なに。ここオートロックだよね? 変質者? この血色悪い女が?
ていうか、そんなことよりも──
「なんでお前が知ってるんだよ」
もくもくと七輪があげている煙を挟んで、アタシは奇妙な住人と会話することになった。
「あー、整理するとこの部屋で死んだ女性ってことね?」
「うん、そうそう! まなみ、この家で死んだの! ニュースになってなかった?」
「いや、どうだろ……」
いま、アタシの目の前には幽霊がいる。現実の幽霊は世間のイメージ通り(?)青白い光を纏って、30㎝ほど宙に浮いていた。床に座ったままのアタシを見下げるその姿はまさに首を吊っているかのようだ。
薄い豚肉を網の上に乗せると一気に食欲が刺激される。胃に入ったままでも大丈夫なのかな……。それでも、空きっ腹にお酒も得意ではないし……。と、言い訳じみた理由を見つけて、アタシは食事をすることにした。
安肉と安酒で行う1人焼肉。真っ暗な部屋でやるのもなかなか乙なものだ。いつもはこの部屋で食事をするときは1人だが、今日は話し相手もいる。
口内に残った肉の脂をストゼロ系チューハイ独特の強い後味で洗い流しながら、話題を続ける。
「アタシがこの家に引っ越すとき不動産屋からはなにも言われなかったかな」
「ああー、そうなんだ。ひとみ、けっこうヤバい死に方したと思うんだけどなー」
「そうなんだ……」
幽霊からの要領の得ない説明をまとめると、彼女はこの部屋で死んだらしい。死因は覚えていないらしい。
実のところアタシは知っている。駅近5分。家具付。家賃5万円はあまりにも破格でさすがに入居時に調べた。
この家はれっきとした事故物件。若い女が眠剤の大量服薬で死んでいる。自死だ。
その女こそが今、アタシの目の前で浮いている幽霊なのだろう。
「だいたい、そんな幽霊のアンタがどうして出てくるのよ。今までこんなことしたことないよね?」
「うん? これがはじめて」
あ、でもと自死した女とは思えないほど明るい口調で幽霊は続ける。
「でも、ゆいが時々トイレットペーパーの端を三角に折ったり、エアコンのリモコンが布団に隠れてたら机の上に移動させたりとかしてたかな」
「うわ、やった覚えがないと思っていたやつの原因はアンタだったか」
特にトイレットペーパーはマジで怖かった。アタシが絶対するわけないし。
「変態が入ったと思って、トイレとか浴室周りにカメラ仕掛けられていないか必死に探してたんだけど」
「ああ、なんかウロチョロしてるなと思ったよ。変なもの見つかった?」
「いや、なにも」と言うと、幽霊は安心したのか柔らかい笑みを浮かべた。「埃の固まりだけだった」。私のズボラが面白いのかますます、美しい幽霊の眉尻は楽しげに上がっていったのが印象的だった。
「あのドラム式洗濯機はすごく助かってるよ。ありがとう」
「ホント? よかったー、ちかが初めて奮発して買った家具だからうれしい!」
奮発して買ったと言うことは彼女にとっても高い買い物だったのだろうか。
目の前の幽霊の風貌は、これまでアタシが抱いていたイメージよりもずっと派手やかだ。形のよいTシャツに脚が細く見えるジャージ。アタシの着ている一枚二千円の安物たちとは見るからに違う。
それに匂いも。線香のいぶした花の匂いも。乾いた血の香りも、草の埋まった泥の匂いもしない。
幽霊から香るのはネオンの灯りをそのまま閉じ込めたような匂いだ。このまま着替えて新宿あたりに出かけていきそうな雰囲気。肉が焼ける匂いも霞むほどに、彼女の匂いは濃い。
「でも、よかったよ」
幽霊が優しく微笑む。いつの間にか座っていて、同じ高さに青白い顔が向かい合っていた。
「死ぬつもりじゃないってわかって、ちかは安心した」
本心、だろうな。曇りなき声だ。幽霊からの表情通りな言葉がアタシを包んでくれるけれど、しかしアタシの身体には馴染まない。
「あなたと同じ場所に行くつもりはまだないけど」
「みさは成仏できてないよ」
まだ早い気のする肉を口に放り込む。なんて返すべきか、迷ったからだ。普通なら慰めたり、寄り添うような気の利いた返事をするべきなのかもしれないが、どうも違う気がしている。まだ現世に強く未練があるから成仏していないのに、そんな気軽にわかったような口を利いていいのか。
安くいくせに分厚い肉の表面は熱い。ブヨブヨとした筋を奥歯で千切っている間、幽霊は何も言ってこない。じっと、アタシの顔を眺めている。そんなに面白い顔をしているだろうか。昔実家で飼っていた老犬を思い出す。よぼよぼと立ち上がって食事をするその犬をアタシは自分の食事そっちのけで見つめてはよくお母さんに宥められていた。
この幽霊にとって、アタシはその老犬なのかもしれない。今にも死ぬかもしれないが、食べている間は死なないはず。少なくとも、見ている間は。
顎に力が入らなくなり、最後はやっぱり嚙み切れず、チューハイで一気に喉元へ流し込んだ。顎と違い、喉はまだ十分に動かせる。
空になった口を開く。
幽霊はまだ成仏していない。アタシはこの幽霊と同じ場所に行くつもりはない。
「──そうだよ。アタシはまだ満足していないから」
自分でも驚くほど素直な声が出た。
幽霊がまた微笑む。今度は安心したように。思惑通りの反応だった。それゆえに胸の奥がチクりと痛む。
アタシは今もまだ、粘り気のある灰色の煙に連れて行ってもらおうと考えているから。白々しく吐いた嘘が胸の奥に針を落とす。
「大丈夫? 飲み過ぎた? 今日は調子悪い?」
黙っているアタシの顔を幽霊が心配そうにのぞき込んでくる。たしかに気分以上に意識そのものが沈み込んでいる実感はある。心なしか、幽霊の顔もくっきりだ。二重の目元に灰色がかった瞳に吸い込まれそうな美人。
「今日はって。いつも見ているような」
「見てるよ。さっきも言わなかったっけ?」
「言ってたかも」
そう言えば、と幽霊が続ける。
「最近、あれやらないよね。パソコン点けてマイクに向かって喋ったり歌ったりするやつ」
「それも見られてたか」
まあ、それもそうか。この家の地縛霊だもんな。アタシの行動が筒抜けにもなるか。
「ああいうのなんて言うんだっけ。ゲーム実況? 歌ってみた?」
「アタシがやってるのはVTuber」
幽霊にとっては馴染みのない単語だったのだろう。「ぶい、ちゅー、ばー」音を確かめるように唇を動かす。
2回ほど復唱を繰り返し、元より覚えがあったのであろう“チューバ―”という音を起点に昔の記憶に思い当たったようだ。
「ああ、ブイチューバー。好きだって教えてくれたお客さんがいたなって」
「わかるの?」
「あれでしょ? アニメの女の子になりきってお喋りするやつ」
「……だいたいそんな感じ」
どちらかと言えばアタシは歌がメインのVSingerと自称する類だけど。しかし、こんなこと興味のない人にとってはささいな違いだ。取り立てて訂正はしない。
「そんなことより」
アタシは話題を変える。終わりを諦めきれていないであろう幽霊について興味が湧いていた。
アタシが持ち得なかった、死してなお部屋に留まる強い意志や願いがどんなものか知りたくなっていた。
死の淵につま先をかけたことで出会えたのであろう幽霊だ。
練炭かアタシの意識の糸が尽きても、アタシがこの部屋に留まることはない。間違いなく、言い切れる。
だから、お互い幽霊同士のお喋りなんてありえない。
アタシたちを隔てるこのちゃぶ台こそが三途の川だとすると、川の幅はすごく狭い。そのおかげもあってか、対岸に立つ幽霊の声はしっかり聞こえている。
アタシはもうすぐこの川を渡る。向こう岸に着いたら少しまた幽霊と話す。そして、アタシは林の奥に向かって歩き出すだろう。この幽霊だけを残して。
だから、その前にできるだけ知っておきたかった。少しでもこちら側に未練は残しておきたくない。
「あなたはなにをしていたの? 学生?」
「そんなんじゃなかったかな……。あまりよく覚えていないの」
「そう」
「でもね、なにか目標か夢みたいなものがあったのは覚えてる」
それは叶ったのだろうか。
「なにか──」
アタシに残された時間はわずかだ。このまま充満する煙に身を委ねれば、全てが終わる。
しかし、事実目の前に肉体を持たぬ状態でアタシの生活に干渉してきた幽霊がいる。魂だとか、スピリチュアルに懐疑的だったアタシの価値観は揺らぎつつある。
未練があると彼岸を渡れないと知ってしまったいま、やり残しは少なくしておきたい。
「──アタシにできること、なにかないかな」
このとき、幽霊はどんな表情をしていただろうか。ハッキリと見えていたはずの顔は練炭が燃えて生み出す陽炎と灰色の煙に遮られてぼやけている。すりガラスの向こうを覗くように見えた幽霊の瞳は摂氏零度の空気に触れた朝露みたく輝いていた。指先で触れたら割れてしまいそうだ。
「だったら、」
幽霊が立ち上がる。無邪気な少女と同じ笑い方で瞼を閉じて瞳は隠れている。涙の影は微塵もない。
「この家を探そう。もしかしたらまだ手がかりが残ってるかもしれない。アタシじゃできないこともあるし」
宝探しをしよう、と同じぐらい無邪気な言い方だった。
「でも、家具以外はなにも残ってなかった……」
この家にやってきたとき、生活に必要な家具がすべて揃っていることに大変喜んだ。
しかし、いざ以前の住人が目の前にいると虚しくもある。もし、幽霊の生前を少しでも知っていれば、入居したときのアタシは喜べていなかったはずだ。生きた痕跡も死体も入っていない真っ白な花だけが敷き詰められた棺桶を覗いた気分になっただろう。
気分を落としているアタシとは反対に幽霊は楽観していた。
「たぶん、大丈夫じゃないかな」
「え、本当になにも残ってなかったよ」
もしかして、どこか見つかりにくい場所へ隠しているのだろうか。
だとしても、この時間から探すのは難しい。
「真っ暗だよ。電気つかないし。ガスと電気止められてるから」
光源は練炭の火と外から入り込む少しばかりの街灯ぐらいだ。
「大丈夫」
なにを根拠に。普通の人間の夜目はたかが知れている。
それでも、幽霊は言う。
「大丈夫。電気が点かなくても。心臓はまだ動いてるでしょ」
「まずは寝室から見よう」
幽霊が歩いて(?)寝室のドアの前まで行くと、そこで止まって数秒立ち尽くした。
「ごめん、ドアは開けてほしい」
「急に振り向くなよ。ビックリするだろ」
どうやら、ドアは自分で開けられないらしい。アタシがその役を買って出る。
「開けるよ」
横開きのドアはわずかな引っかかりもなくスライドする。冷たい空気が顔を撫でて、ぼんやりしていた頭がいくらか醒める。冷や水をかけられたみたいだ。
だからこそ、目の前に広がる光景が受け入れがたかった。まだ、朦朧としていたほうが事態を飲み込めた。
ドアを開ければ暗がりであっても、普段使っている寝室が広がっている──はずだった。
「なにこれ」
家具の配置は馴染みのままだ。入ってすぐにベッドがあって、部屋の奥にデスクとキャスター付きのデスクチェアがある「わー、懐かしい!」幽霊が嬉々として部屋に駆け込む。そりゃそうだ。アタシがこの家に住んでから一度も模様替えをしていない。
でも、違う。幽霊が懐かしむシーツの色。布団の模様。デスクの上に置かれているPC。重なった書籍。ペン。マグカップ。ポーチ。そのどれもがアタシのものじゃない。
「これ全部、アンタの」
「うん。こう見るとぜんぜんシュミ違うね」
「たしかに。アタシはここまで可愛く揃えられない」
真っ暗なはずの部屋は電気が灯ったように明るい。そのせいかファンシーさが際立つ。
どこか少女趣味。よく見ればマグカップやポーチはサンリオのキャラクターで統一されている。
デスクに近づく。
1冊の本とノートが広がっている。
「これは参考書?」
見覚えのある内容は大学受験レベルの日本史だ。
「受験生だったの?
「あー、そうだったかも。すごく勉強してた!」
「でも、アンタ仕事してるって」
それにアタシの見立てだとこの幽霊は──享年がいくつかわからないが──19や20そこらだ。綺麗で美人だが、高校生の瑞々しさはない。
「仕事してたしてた! キャバクラだった!」
「なるほど……」
第一印象は正解だったわけだ。もしかして、と1つ合点のいくものがあった。
「アンタの一人称がコロコロ変わるのも、その名残? 源氏名がいくつもあって」
「そう……、だと思う」
歯切れの悪い返事。「無意識でやってたのかも……」その事実にヒントがありそうだが、幽霊の反応的に踏み込んでもハッキリしないだろう。現状、彼女の記憶は曖昧だ。
「まあ、自分が今なんて名前なのか覚えるために自分のこと名前で呼ぶのはわかるよ」
「でも、最近、パソコンに向かっているときは“アタシ”だよね」
「もう覚えたからね」
それに悲しいことにまだまだ底辺なアタシとコラボしてくれる配信者なんていなかったから、アタシがなんて名前なのかなんて些細なことだった。コメントは基本的に視聴者対アタシだし。
一人称が“アタシ”になったのはつまるところ、覚える必要があまりないと気づいてしまったというのが正しい。
しかし、とアタシが惨めな心境変化に浸るよりも気になることも出てくる。
「そんなポンポン源氏名って変わるものなの? アタシはよくわからないけど」
18から働き出したとして、少なくとも──アタシの見立てが正しければ──20歳までの2年の間に5回ほど名前が変わっていることになる。半年に1回のペースだ。
「ううん、基本はずっと一緒だよ。それこそお店が変わらない限りは」
幽霊はきっとその世界へ真面目に取り組んでいたのだろう。自分のことになると引っ張り出している記憶も仕事のことになると淀みなく出てくる。
アタシにはわからない。キャバクラで働く人はそう頻繁に店を変えるものなのか。普通のアルバイトならそう不思議じゃない。でも、短期間でいくつも変える奴はロクでもない。そんなセオリーがある。
昼の世界と夜の世界では空気が違う。だから、アタシの持つセオリーは幽霊が空気を吸っていた世界に当て嵌まるのか。それとも、レアケースなのか。
アタシにはわからない。わからないが、やんごとなき理由で幽霊は変名せざるを得なかったレアケースに巻き込まれていたと考えていた。根拠はない。ただ、信じたくなった。
「なにか事情があったのかもしれないね」
「……どんな?」
やはり、幽霊にとっても変名の多さは異常なことだと認識したのか。幽霊が不安げに訊き返してくる。
アタシは事務所を退所した後、ガワと名前を変えて所謂転生をしてデビューしたVTuberたちを思い出す。
「事情があって名前が使えないみたいな、さ。アンタはアンタであることを表向きは隠さなくちゃいけないとか。そんな事情」
「同じお店で? すぐバレちゃうよ?」
もちろんだ。VTuberと違って見た目は変わらない。名前を変えたところで知る人からすればすぐに同一人物だとわかる。いや、別人だとも思わないだろう。
「お店を変えてたんでしょ。その度に名前も変えて……」
舌の根が冷たく固まる。寒さのせいじゃない。
「どうして? こんなにいっぱい?」
「どうしてって……」
VTuberが転生するとき、ガワと名前だけではなくチャンネルも変える。表向きはまったくの別人になるためだ。
でも、すぐにバレる。人気な配信者ほど、それは恐ろしく速く。デビュー前、SNSアカウント、チャンネル開設した瞬間に特定されることだってある。
声だけの彼ら彼女たちがこうなのだ。顔が割れている生身の人間が店を変えたところで探そうと思えばすぐに見つけられる。執念ある人間の手にかかれば時間はかかっても、確実に探し出されるだろう。
そして、この幽霊の何度も店を変えている。その必要があるほどに執念深い人間が彼女の近くにいたのではないか……。何度も何度も。悪意とは呼べないまでの生理的嫌悪反応を刺激する視線から逃れるために、彼女は職場を転々としていたのではないか……。
「ごめん、この話は一回忘れよう。探し物の方が大事だと思う」
まだ、状況から造り出した架空の人物だ。彼女が店を転々とした理由が決まったわけではない。
幽霊がやり残したことを探しているのだ。答えは見つかった気がする。
「大学に入学──合格? かな。アンタのやり残したことって」
幽霊は懐かしみこそすれ、どうにも腹落ちの悪い顔をしていた。
「それも……そうなんだけど……。これは1つの方法っていうか……」
「方法? 大学に受かることが?」
「うん……、よくわからないよね。ごめん、みさきもいまいちピンと来なくて」
「いや、まあなんとなくは察しがつくけど」
「え? どんな?」
「おおかた、勉強したいこと分野が大学にあったか。いい大学に入っていい会社に就職したかったかのどっちかじゃないかな」
ああ! と幽霊が声を上げる。この幽霊は反応がどうもいちいち大袈裟だ。特にアタシが何かを説明したりすると複雑な数式を解いてあげたように驚いてみせてくれる。
「どっちかが正解?」
アタシもまんまと得意な気分になってしまうが、褒めてほしくて会話しているわけでもない。当て嵌まっていないと進展がない。
「たぶん、いい会社に入る方。いい会社に入ったらお金が稼げるよね?」
「そうだね。少なくとも高卒よりは稼ぎやすくなる」
アタシが学生のころは大学を卒業していなかったり、適当な大学を卒業してもなんだか上手くやれている大人ばかりを引き合いに出して自分の現状を安心させていたものだけど。
「アタシもまともな社会人をやってきたわけじゃないけど、生きやすさは全然違うだろうね」
「生きやすさ、か……」
「これもピンとこない?」
「逆かな。生きにくいって、なんだかよくわかる気がする」
幽霊が寝室を見渡す。寝室をピンク色が目を刺すパステル調に仕上げるような人間は確かに生きづらかっただろうな。キャバクラで働きながら、受験勉強をしている時点で普通の浪人生とは括れない。しかも一人暮らし。良好な家族関係があったかも疑わしい。
もしかしたら──いや、やっぱり、か。この幽霊もどこかでこの世界に見切りをつけた。アタシも同じだ。だから、初めて言葉を交わすのに肩に力が入らないでいられるのかもしれない。
共通点を見つけて嬉しくなりかけたが、幽霊の次の一言で簡単に現実へ引き戻される。
「でも、違うんだよなー。仕事は嫌いじゃなかったし、周りはいい人ばかりだったし」
「そう……」
この幽霊は周りに恵まれていたのだろう。よく考えれば行きつくところだ。さっきは不審な人物の影が霞めていたが、そんなトラブルが目に見えている人間が同じ業界を転々と出来たということはそれなりに目をかけてくれた周囲がいたのだろうし、行く先々で受け入れられていたのだろう。
アタシとは違う。どこへ行っても、上手く馴染めない。皆と同じ空気が吸えないアタシはこの期に及んで考えてしまう。もし、幽霊みたいにやっていけていたら、もう少し踏ん張れたのか。
アタシは今更なにを考えているんだ。頭を振って汚泥に引きずり込まれそうな気分を引き戻す。幽霊だって自死を選んだ。所詮、アタシとなにも変わらない。諦めた人間じゃないか。
受け入れられていた? それがどうした。結局、幽霊は誰も頼れず死んだのだろう。
アタシだって同じだ。家を飛び出して、家族もかつての仲間も振り切って、この部屋に流れ着いた。
今やっている幽霊の思い出探しはアタシにとって今際の際に飛び込んできた終活作業だ。見つかるのが何日後かもわからない。真冬とは言え、暖まった部屋で過ごすのだ。アタシの身体は穴あきチーズの如く溶けて床のシミとなって汚すことになる。だったらせめて、身辺ぐらいは綺麗にしておきたい。
「あと、この部屋でありそうなのは」
「クローゼットかな」
幽霊がクローゼットの前に移動する。
クローゼットの扉は木目の茶色でパステル調の空間からはむしろ浮いている。
「本当は白かピンクに塗りたかったんだけどね」
「そんなことしてなくてちょっと安心したよ」
軽口もそこそこにしてクローゼットを開ける。
決して横幅は広くないが、奥行きが意外にあるおかげで見た目以上に容量は大きい。
クローゼットを開けるとまず飛び込んでくるのは煌びやかなドレスが2着ほど。赤と紫の派手目な色合いに加えて、シルクのようなキメの細かい印象の生地が高級感を醸し出している。
あとはダウンジャケットやコートなど冬物の衣服がカジュアルとフォーマルで使い分けられるようにかかっている。
「ドレスって自前なの?」
「レンタルしてくれるお店もあるけど、お給料から天引きされちゃうんだ」
「うわ、あこぎ。制服みたいなもんなのに。」
「とは言え、アタシはそこまで抵抗なかったかな。ほら、自分が着たいもの着た方が気分上がるし。楽しく話すのが仕事だから、自分も出来るだけテンション上げないと」
幽霊の語りが過去の錆びた思い出に重なって、目線を落とす。そこには見慣れた衣装ケースが2台置かれていた。畳んで収納できる衣服類はこの中に仕舞っているのだろう。かく言うアタシも活用させてもらっている。
「一応、開けるね」
衣装ケースは4段ずつ。下着類は脱衣所にある同型のケースに置いているとすれば、十分な容量だ。
片方はほとんど空だった。Tシャツや靴下が数点残されている程度だ。
もう片方は中に詰まっているようだったので順番に開けていくが、特段変わったところはない。トップスとボトムスが夏用と冬用で分けて保管されている。
ギチギチに詰まってもいないが、もう片方の衣装ケースに仕舞っていない理由は教えてくれない。
何も言わないので綺麗に整頓されているな、と最後の段──2つ目の一番下──に手をかけたとき、妙な引っかかりを感じた。
棚の中は仕切りで区切られており、靴下やタイツがごちゃごちゃしないように整頓されている。蓋がつっかえるほど盛り上がっているようにも見えない。
不思議に思い、頭を下げて棚底を水平に見ると──
「なんか靴下のとこ盛り上がってない?」
「あー……」
幽霊がなにか思い出したかのような声を吐く。止められるかと思ったが、靴下に手をかけても何も言ってこない。
5個ほど靴下を掘り出すと、底に現れるのは2冊のノートと通帳。それに10通は以上ある便せんの束だった。
「これは?」と訊いても幽霊はなにも答えない。ただじっとアタシの手元を見つめている。幽霊らしからぬ恨みのない痛哭一歩手前みたいな面持ちだ。
「見るね」
ノートを開く。A4サイズのノートはカラフルに彩られ、罫線に沿って、あるいは自ら縦の線を引いてなにかを書き記されている。
勉強のノートではない。
これは家計簿だ。
「しっかりしてるな」
見開き2ページで1ヶ月分だろうか。左側ページには食材や生活用品。左側上部にて公共料金や家賃、携帯電話料金などの固定費が纏めて引かれている。右側には嗜好品や衣服など、趣味的なものが固められている。
10月受け取った給与を11月に使う、という方式を取っていたらしく収入はページ左上の枠外に●月分いくら、とアルバイト──下手をすればサラリーマンからしても高額な金額が記されている。
「キャバクラってけっこー稼げるんだ」冗談めかして言うが、幽霊は笑わない。
正直、アタシもその選択が頭に過ったことがないと言えば嘘になる。しかし、どうも知らないオッサンに話を合わせて笑う自分が想像できず、ついぞ選ばないままだった。
気まずい汗をかきながら選ばなくてもよかった、とこの家計簿を見て改めて思う。
見開きの右側下部の枠外に貯金額が記されているが、収入の割に増えていないのだ。
見た目に気を使う職業だ。きっと、美容用品や美容室代。職場で着るドレスなどと色々とお金を使うのだろう。
興味が尽きぬままページを捲り続け、はたしてアタシの見当が違っていたことに気が付く。
いや、部分的には正しい。たしかにそれらしき記載はいっぱいある。しかし、それも一般的かそれよりも少し多い額と頻度だ。彼女の収入から見れば、目を見張るものはない。
2冊目に入り、ページを進めると男の名前で題された項目が現れる。これが月2、3度。多い時は5回以上ある。しかも、1回につき1万3万と馬鹿にできない金額だ。これではいくら稼いでも足りない。ページを戻してみると、一時より貯金額が増えていない。それどころか、減っている月すらある。
「アンタ、これ……」
なんて男に引っかかったんだ。
「……」
幽霊はやはり口を効かない。黙ったまま、アタシの手元を見つめている。その顔はなんなんだ。後悔か? 悲しみか? どうしてアタシはアンタの細めた目と噛みしめた上唇に怒りを見出せない。怒れよ、アンタの夢や目標がなんだったか知らないが間違いなく叶わなかったのはこいつのせいだろ。
だいたい、ストーカーにクズ男? まさか、ストーカーと付き合っていたわけじゃないだろうな。さすがにそこまで馬鹿じゃないか。馬鹿じゃないにしてもストーカーに職場を追われ、クズ男にまで金を毟られていたってことか。
「だとしたらアンタの人生、周りに恵まれなすぎだろ」
アタシが吐き捨てた言葉に弾かれたように幽霊が隣に跪き、棚の底から取り出した便せんを胸に押し付けてきた。
「なんだよっ」
束ねていた輪ゴムが千切れて膝の上に広がる。乾いた音が無音に響く。淡い暗闇のなか、灰色のスウェットを様々な色が覆い隠す。
「おいっ」
気が付くと、幽霊は消えていた。さっきまで律儀に浮いて移動していたくせに、その場から忽然と影も形もなく。
だが、部屋はまだ明るい。膝上の便せんも残っている。生きているアタシがまだ触れられている。
ひとつ、手に取る。表には『ちなみちゃんへ』と拙い字で書かれている。開けて手紙を取り出し、読む。
内容は取るに足らない。『またあそんでね』とそんなことが子どもらしい輪郭の覚束ないクレヨンで画かれた絵と一緒に書かれている。
他の便せんも似たようなものだ。『いっしょにねてうれしかった』『つくってくれたごはんがおいしかった』『ご飯の作り方を教えてくれてありがとう』『おりがみありがとう』『プレゼントしてくれた服、大事にします』
ひらがなばかりの手紙もあれば、漢字も混じった手紙もある。
幼稚園、小学生? しっかりとした文章もあるから中学生高校生もいるかもしれない。色々な年代から貰っていることが伺える。
違う場所やコミュニティから貰っているのかと思いきや、手紙の中に登場する人物たちはそれぞれ重なっている。恐らく、同じ場所に集う子どもたちだ。
背景に描かれている建物の屋根や壁の色が一緒だ。そして、特に幼い子どもからの絵には建物のあちこちに穴が開いている。
大人の筆跡で書かれた手紙を見つける。
『千波さんへ 勉強や仕事で大変なのにいつも来てくれてありがとう。みんなも喜んでいます』どうやら、この施設で働く人からのようだ。千波という人物へ感謝を綴っている。そして、『園にいたときから千波さんは素晴らしいお姉さんだけど、それゆえに少し心配です。どうか、身体を壊さないようにご自分のことも労わってください。あなたは園を立派に建て直す、と言ってくれてみんなも喜んでいますが、まずは自分の生活をしっかりとして、夜更かししすぎないようにしてくれるのが私の願いです』
鬱陶しくなって消した、母さんからのラインを思い出す。
同じようなことが書いてあった。アタシはそれを振り切った。必要だと思ったから。でも、どこか甘えていた。アタシには戻れる場所があると安心していたのも事実だ。
幽霊にはそんな場所なかったのだろう。高校を出てから一人暮らしをしていて、年代がバラバラの子どもたちから受け取る手紙。大人からの手紙に書いてあった「園にいたときから」という言葉から、幽霊が子どもの頃に過ごした場所がどんなところだったかは想像がつく。
一度巣立てば遊びに帰れても戻れない場所だったのだろう。
衣装ケースの隣には現実が立てかけてあった。
2本のギター。1本は学生の時、初めて買ったギター。安い初心者用。高校3年間の汗とシーブリーズと手に塗ったニベアクリームが染みついたギター。
もう1本は一番夢に近づいていた時のギター。楽器屋に無理言ってキープしてもらった挙句36回ローンで購入した。音楽室以上に空調の効きが悪いスタジオのせいでやはり汗と楽屋のヤニが染みついたギター。
喉が壊れて全てを終わりにした後も死んだようになりたくなくて手放さなかった残骸たち。こいつらがあるおかげで、まだ生きてアタシはネットに非現実的な姿を手に入れてまでも歌う決心がついた。
それも上手くいかなくて、貯金も底がついてライフラインが全て止まってどうしようもなくなっても手放せなかった。こいつらを売れば、もう少しだけ走れたかもしれないのに。
甘い夢の中にいたいんじゃなくて、息苦しくてもただ夢中でいたいだけだったんだと気がついて、全て終わらせる決心がついたのが今日だった。止まって浸っているだけの自分がどうしても想像できない。眠っているのと変わらないだったらいっそのこと、ずっと眠り続けてやろうとした。
邪魔をしてきたあいつは? あいつはどうして死んだのか。男に奪われ続けることに疲れてしまった? 確かめる必要がある。
アタシが彼岸を渡るためにではない。認めよう、アタシはあいつに情を感じている。
アタシになにができるかまだわからないが、どうせできることは限られている。この世界にあいつの命はもう無い。死んでしまっている。だから、出来ることと言えばあいつの気を晴らすぐらいだ。
寝室を出ようとする入口に垂れ下がった影が現れる。細い線はガムテープだった。煙が他の部屋へ逃げないよう目張りのために張っていたものだ。
「あいつ……剥がしてやがったな」
アタシに扉を開けさせたくせに……。最初からアタシの覚悟を無駄にしようとしていたんだな。悔しいことに怒りは湧いてこなかった。お礼を言うつもりもまだないけど。
広くもない家だ。青白く発光するあいつの背中はすぐに見つかる。
脱衣所の前に立っていた。
「そこになにかあるの?」
脱衣所を覗くと見慣れた光景のなかに女性の姿が飛び込んできた。
女性はTシャツにジャージのズボンというまさに部屋着という恰好をしていた。
女性は洗濯機に背を預けて目を瞑っている。
寝ぼけた視界が晴れていくように光景の解像度があがる。
洗面台の淵にも血が付いていた。アタシの入居時から欠けていた場所と一致する。
一見して女性の身体に血が流れているようには見えないが彼女の背後、洗濯機から伝って赤黒い血が流れ落ちている。血は洗濯機台に溜まるおかげか床をそれほど染めていない。
致死量の血を受け止めきれるのか?
疑問と同時、力なく投げ出された腕の近くに転がる瓶が目に入る。
瓶の蓋は開いており、数粒の錠剤が零れていた。
ここの家賃は相場から見てかなりの破格だ。理由は事故物件だから。死因も調べた。
睡眠薬の大量摂取によるオーバードーズ。記事には自殺だと書かれていた。
だけどこれは……あまりにもやり方がまどろっこしい。どうせ死ぬなら簡単で楽な方法を取るはず。意識が落ちてから苦しみが少ないと知って選んだが、アタシの練炭こそ準備が面倒くさい部類だ。
睡眠薬の大量摂取は確かに楽に死ねそうだ。眠ったまま命尽きるなんてアタシみたいなのが一番望むやり方でもある。でも、眠ったまま死ねるなら、どうしてこんなところで飲み下した? ベッドの上でもよかっただろ。そうすれば、こんな血濡れた状態ではなく眠ったまま綺麗な姿で見つけてもらえたかもしれないのに。
この女性がどうしてこんな死に方を選んだのか。アタシは警察でも探偵でもない。目の前に散らばった真実を点と点で結んだところで、あらぬ図が浮かびあがるだけだ。
ひどく、喉が渇いた。吸う空気と吐く息が焦げ臭い。
「アンタ、本当に自分で死のうとした?」
洗濯機に背を預ける女性と全く同じ格好をした幽霊へ顔を向ける。浮いた火の玉の閃光が幽霊の顔を照らして目鼻を消していたが、光はすぐに萎んですっかり見慣れた目元と視線が合った。
「そんなこと、生きてて一回も考えたことなかった」
下瞼が真っ赤になりながら潤む瞳を湛えている。幽霊の顔にも色ってあるんだ。血なんて通っていないのに。
「たぶん気が付いているだろうけど、私っていわゆる孤児ってやつでさ」
「手紙は見させてもらったよ。孤児院の出身なんでしょ。勝手に読むのはよくなかった?」
幽霊が首を横に振る。
「ちょっと怒って押し付けたしね。私のこと周りに恵まれないって言いやがって。いい人がいっぱいるんだぞ! って」
少しだけ幽霊は手紙をくれた人たちを紹介してくれた。本当に慕われていたし、家族のように過ごしてきたのだろう。良いところも玉に瑕なところもどれも嬉しそうに語ってくれた。正直、兄弟のいないアタシは少し羨ましかった。
「でも」
と、幽霊は横たわる自身の姿へ目を向ける。
「男運はなかったかな」
「ストーカーにヒモ。ここに来たのは?」
「ヒモ!」
「なんでそんな奴と付き合って、しかも別れてなかったのよ」
「わかんない! 正直、私も18で園を出て心細かったんだと思う。それで、ストーカーでしょ? なんか頼れる男の人にホイホイーって感じ」
「アンタねぇ……、結局頼りないヒモ男にタカられてたら世話ないよ」
相談してくれたらよかったのに、と喉元まで出かかり急いで飲み込む。アタシは馬鹿か。死んでから相談しても仕方がないだろ。それに──
「公共料金を払えないお姉さんには頼りなくて相談できないかな」
「幽霊って人の心も読めるの?」
「ううん、お姉さんの顔にそう書いてあった」
「カマかけたな。小娘のくせに」
「ははは、ごめんごめん。でも、嬉しい。本当にお姉さんともっと早く会えてたら変わってたかも」
もちろん、これまでもこれからもそんな奇跡は起きない。未来は変えられても、死者を生き返らせることはどれだけ優しい神様に出会えても叶えてくれない願い事だ。
「愛情とお金のやり取りから身体とお金だけになって、だんだんお金だけ貰いにうちに来るようになってからはきっぱり別れようとしてたんだよ。私も馬鹿じゃないからさ、わざと収入を小さく言ったり、もう使ったって言ったり。私に価値が無くなったと思わせるように」
「あの家計簿は? 細かく書いてたでしょ」
付き合っていた時期があったなら、ヒモ男が知っていてもおかしくない。
幽霊が脱衣所のなかに入り、ちょうど横たわった彼女の亡骸に重なるように浮かぶ。
「まだ内緒。先に私が死んだときのことを話すね」
いたずらっぽい笑みを浮かべて、手を後ろへ隠す仕種はプレゼントを用意する少女らしい。これから振り返る死とはかけ離れていて、楽しい話なのではないかと錯覚してしまう。
「あのときは私も休みだったのかな。夜、あの人が来たんだけど、どうせお金のことだろうと思って玄関で断ったら、いろいろ言っちゃって怒らせちゃって」
「いいんだよ。アンタこそ怒るべきなんだから。続けて」
「うん、ありがとう。──それで、どうせどっかにお金隠してるんだろって」
「家計簿は?」
「あまり信じてもらえなかった。家の中にお金があるだろって、家の中にまで入ってきて」
「お金を探したの? 探すにしたって脱衣所には……」
「それまでにも何回か探されたからね。その度に見つからなかったから、あとはこことトイレぐらいだった」
脱衣所とトイレの2択のうち、男はここを選んだ。ハズレなら、やり過ごせばいいはずだ。でも、正解ならば? 本当にお金があったとき、彼女はどうしたのか。
「ちょっと待って。まさか、本当に」
「私もお姉さんのこと言えないね。顔に出てたみたい。ここにあるんだろって、やる気出しちゃって」
青白い手が洗面台に付いた血を撫でる。爪の先が触れて音を奏でるが血は延びたり掠れたりもしない。もう乾いてしまっている。
「あとは簡単だよ。もっと怒ったあの人が私を突き飛ばして、私はここに頭をぶつけた。ボーッとしてたけど、あの薬を飲まされたことも覚えてる」
「そうやって、自殺ってことにしたんだ」
「頭いいよね。働くことに使えばいいのに。どう、狙い通りになってた?」
「悔しいことにね。呪ったりしようと思わなかったの?」
「え? ぜんぜん! 呪うにはあの人のところ行かなきゃいけないじゃん!」
「いや、知らないけど。幽霊って遠隔で呪えないんだ」
「なんか無理みたい。まあ、私もあの人が不幸になることよりも幸せになって欲しい人たちがいたからね」
「でも、お金も取られたんでしょ? ここにあるってことがバレて」
彼女が夢を叶えるのに必要なお金も持ち出されてしまっている。それだけでヒモ男を呪い殺すには十分な理由だと思うけど……。
「ふふふ、それはね」
人が良すぎる、と呆れるアタシに幽霊がまたいたずらな微笑みを向ける。
「洗濯機の裏、見てみて?」
「裏?」
促されるまま、アタシは彼女の横に膝をつく。目線を合わせて望む彼女の死に顔は薬のせいか穏やかだった。非道を受けてもまだ人を恨まずにいられる彼女が最後に見た夢がせめて穏やかなものであれと願う。
「このとき化粧してないからあんまり近くで顔見ないで」
「悪かったって」
洗濯機の裏を覗く。以前に見たときと変わらない。壁と床と、洗濯機に囲まれた薄暗く白い空間が見えるのみだ。
「手を伸ばしてみて」
青白い手が私の左手に重なる。冷たい手が私の手を壁の方まで引っ張っていく。
当然、指先が壁に触れる。あっさりと。洗濯機の横幅に比べてあまりにも短い距離。
指の腹で壁をなでる。
「どう?」
「なにこれ? 木? 木にペンキ塗ってる?」
「あたり!」
立ち上がり、洗濯機の背に立つ壁を改めてみる。今まで気にも留めていなかった。
壁は洗濯機の真ん中あたりから出っ張っている。ただの柱だと思っていたけど、触ってみるとやはり本物の壁と違う。木の肌触りだ。
「これなに? 偽物の壁ってこと?」
「手造りにしてはよくできてるでしょ」
「ほんとにね」
偽物の壁は天井に届いている。ほかの部屋よりは低い天井だが、自分の身長は優に超える。女手でこれを作るのはなかなか苦労しそうだ。
「どうして、こんなものを」
「家計簿の話だけど」幽霊は言う。「お姉さんのいう通り、家計簿のことはバレてるからわざと収入は小さく書いてた。絶対に取られたくないお金は口座に入れることもやめた。お店が給与手渡しで助かった」
「その絶対に取られたくないお金って」
まさか、この偽物の壁の中? どうやって取り出すのか。私が方法を考えていると、幽霊は洗濯機と壁をすり抜けて、手にパン屋か何かの紙袋を持って出てきた。
「はいこれ。誰にも見つからなくてよかった」
手渡された紙袋はずっしりと重たい。中を開くと、茶色封筒が入ったジップロックが3つほど。
「開けてみて」
水気を含んだジップロックのチャックを解き、3つとも同じ分厚さの封筒を取り出す。
「全部合わせて500万円ぐらいかな」
「ご、」
よく貯めたな。アタシの最高貯金額の10倍以上だ。
「それ、お姉さんにあげる」
「は?」
「私が持ってても仕方がないし」
「アンタが貯めたお金でしょ。自分で使いなよ」
施設の建て直しのために貯めてたんだろ。目標まで手がかかっているのに諦めたような態度の幽霊に腹の奥が煮え立ちだす。
変なこと言うなあ、と幽霊はクスクス笑う。
「幽霊に化粧も服も必要ないよ。それに住む家……は勝手に居着いてるのか。それじゃあ、これまでの家賃ってことで」
だから、これはお姉さんのもの。幽霊の両手が紙袋ごとアタシの胸を押す。触れたり、通り抜けたりなんて便利な身体なのか。こんなことができるなら、化粧だって肌に乗るだろうし、服も袖を通るだろう。
買い物ならアタシがやる。一緒に出掛けたっていい。電話のフリでもすれば、幽霊との会話なんて日常に溶け込む。
「お金があれば、お姉さんはまだ歌えるでしょ?」
「そんなもの、」
お金なんてなくたって歌えるだなんて、カッコつけられなかった。アタシが明日を諦めた理由──あるいは言い訳がお金だったからだ。
5年前まではお金がないことも平気だった。年を取るにつれて、お金がないこと、稼げないことが重りになっていた。
喉を壊したことを機にすっぱり捨ててみたけれど、やっぱり戻ってきた。バイトでダラダラしてる時期にハマったVTuberとVSingerに感化されて、お金を貯めてローンも組んでVになってみて。そりゃあ思い通りにならなくて、毎月の支払いに押し潰された現状が今だ。
情けなさすぎて涙が出てくる。
電気が止まればPCは起動しない。でも、なんとかなる。でも、いよいよ水道まで止まって、なんだか人としての最低限の義務みたいなものを満たしていないと自覚して、それでぷっつりと糸が切れた。今度こそ後に引かない覚悟で始めたから、前に進めなければ終わるしかないと、なんだか目の前の道が音も立てずに消え去った気がした。
これだけのお金があれば光熱費が払える。電気が点く。PCが起動できる。もう一度、始められる。正直、喉から手が出るほど欲しい。それでも──
「受け取れないよ。アンタが引っかかてた夢か目標ってお金を稼ぐことだったんだから」
「だから、それはもう意味が無くて」
「使い道も考えずにお金が欲しいなんて人はいない」
誰もが何かしらやりたいことや目的があってお金を稼ぐんだ。家を買うため、車を買うため。旅行するため、遊ぶため。オシャレするため、美味しいもの食べるため。やりたいことやって生きるため、歌って食っていくため。
「アンタは自分の育った場所に恩返しするため。当面の目標は施設の修理。そうでしょ?」
「……隙間風と雨漏りは可哀想だから……」
「素直でよろしい。──それならやっぱりアンタのために使うべきだ。これだけあれば、屋根と壁ぐらい修理できるでしょ」
「でも、」
「でももだってもあるか! アンタもう死んでるんだよ!」
ああ、たぶんこれは言っちゃいけないことだ。下唇を噛む表情が痛々しい。アタシはこいつをまた殺してしまうかもしれない。でも、止まらない。
「死んだらなにもできない! アンタが一番わかってるんだろ⁉」
「できるよ! 色々やってあげたじゃん!」
「せいぜいトイレットペーパーを三角に折るかガムテープ剥がすか、壁すり抜けて物取るかぐらいだろ! アンタだってわかってるから、アタシの自殺を邪魔したんだろうが!」
「し、死のうとしてた人が偉そうに! 諦めた人になにができるって言うのさ!」
「できる! あんまなめんな!」
金もない。人気もない。制作と活動と、バイトをいい塩梅でこなしていく器用さもない。
それに比べてこいつには金があった。たぶん人気もあった。勉強とバイトを要領よくこなせるだけの器用さがあった。
私と一緒なのは男運ぐらい。
それでも、私にあってこいつにはない決定的なことがある。
「電気、水道、ガス。全部止まった。だけど、心臓だけはまだ動いてる。アンタが言ったんだ」
こいつができないことはこれ以上、お金を稼げないこと。使うこと。そして、立って歩けないこと。
「アタシならもう大丈夫。悔しいけど、年下が頑張ってるところを見せられて考えが変わった。頑張っても未練は残るんだって知っちゃったから」
だって、こいつの夢や目標はまだ達成していない。道中走り抜けても、辿り着けなければ未練だ。
ここから逃げ出して向こう岸へ渡っても、アタシはまた振り向いて太ももまで濡らして戻ってしまう。どうせそうなることはわかってる。だって、生ぬるい生活に耐え切れなくてまた戻ってきてここにいるのだから。
冷たく手足が凍えても、燻り続けていれば火は点く。血は全身を巡る。アタシはまた歌いだす。
だから、安心してほしい。もう馬鹿はしない。アタシにとって無駄なことだと気づいてしまったから。止まらないし、止められない。ブレーキはこの1時間足らずでぶっ壊れた。
おかげで手に入れた無敵感に万能感。方法はあとで考える。まずは煙臭くなった部屋の換気。次の給料日までの衣食をどう繋ぐか。色々不安はあるけど。
「これからそっちへ行く奴ら全員、アタシの歌うたえるようにしてやるから待っとけ」
「待たせ過ぎはいやだよ」
「なるべく頑張るよ」
大きな瞳から砕けた氷が零れだす。両の手を半透明の頬へ。目で泣いて、口は笑っている。こいつはずっと表情豊かだった。せめて最後ぐらいはアタシも笑い合って目を合わせる。
冷たい薄紅色は砂粒になって指の間から天に向かって零れていく。
やがて、こいつが残した形あるもの全てはアタシの許を去っていくだろう。現金500万円は届けるべき場所へ。家具家電もいつか壊れて買い替えるときがくる。
彼女の涙も掌で握れば消えてなくなるだろう。
消えてなくなる。いつかはきっと。アタシもきっと。だから決めたのだ。死ななくてよかった。なにもできなくなる前に消えなくてよかったと証明するのだと。
リビングに戻れば、月明かりを反射する煙が部屋を淡く包んでいた。
窓を開ければ、凍えた風が私を刺して、手足の先と顔の輪郭をより鮮明に彫りあげる。部屋に残っていた煙は甘い匂いと一緒に窓を飛び出して、やがて薄く掠れて紫色の空と混ざっていった。
「アンタの心臓はもう動いていない。なにもできないアンタに代って、まずは手始めに千波の夢を叶えてやる」
だけど、心臓だけが動いてた 白夏緑自 @kinpatu-osi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます