五分の一の君へ。

金森 りょう

序章

第1話 初恋の瞬間。

「私は、クラモチ アカリといいます。」

 2022年4月4日、高校の入学式当日。クラスで設けられた自己紹介の場で、ある一人の女子がそう名乗った。僕、北山陽太は、その名前に人一倍聞き覚えがあった。しかし僕は後ろを振り向くタイミングを見失ってしまい、ただ正面を向いて紹介文を聞くことしか出来なかった。

 同姓同名の別人だろうと推測していた僕は、後ろで香った馴染みのある柔軟剤に、甘酸っぱい初恋の記憶を呼び起こされた。僕はこのクラモチ アカリが、あのクラモチ アカリであると確信した。



───遡ること五年前、2017年夏。当時小学五年生だった僕は、地元のダンス教室に通っていた。練習するのはシアター系のダンスで、公共の場で年数回の発表会が設けられていた。しかし母親のご機嫌を取るために、六年間毎週稽古をしていたので、段々と嫌気が差していた。

 ただそんな嫌気を、辛うじて抑えつけていたものがあった。ダンス教室の一員に一人、ショートヘアーの女子がいた。彼女は恐らく僕と同級生で、小柄ながら他に類をみない秀でた顔立ちをしており、振りの一つ一つも流れるようにこなしていた。それだけでも僕は十分に目を奪われたが、休憩時間になって他の女子と会話している彼女は、しとやかな雰囲気をふんだんに醸し出していて、他の女子が周囲への配慮をなしに大声で笑うのに対し、彼女は舞妓のように笑顔をみせて、小刻みに揺れるのだった。彼女の早熟さは火を見るより明らかで、僕は彼女の名前すら知らなかったが、彼女への興味は日に日に増す一方だった。そんな彼女への関心が、僕の脱退を塞き止めていたのだ。


 平凡な日常が続くうちに季節は秋に移ろい、僕の興味は全て彼女に占有されていた。

 そんなある日の稽古で、僕はダンス教室の男友達に、この場にいる女子の誰が好きかと尋ねられた。好きな子はいないと断言すると、なら友達になりたい奴は誰かと尋ねてきたので、僕は例の女子を指名することにした。

 すると翌週、何の変哲もなく稽古を終えると、帰宅しようとする僕の側に、例の女子がやってきた。彼女は必然的に上目遣いをして、どういうわけか僕の両手を掴んでくる。身体の距離が近づくにつれて、柑橘系の柔軟剤が鼻をつく。

「陽太くんのこと、好きだよ。」

「……え?」

 彼女は僕に胸の内を明かした。そして彼女の一言により、男友達が僕の回答を彼女に告げ口したことも判明した。ただ、僕は彼女に興味があると言ったに過ぎない。彼女が接点のない僕をどうして好くのか、どうして僕の手をとるのかは謎で、僕は小学生ながら不可解な現状に困惑していた。

 しかしそれ以前に、精神が幼かった僕は、好きの意味を友情の最上級だと認識しており、愛情表現なんて解釈をしていなかった。その証拠に当時の僕は、可愛いお友達ができたと歓喜していた。

「どうして僕を好きになったの?」

「……教えてあげない。」

 僕は彼女に至極単純な疑問を質問したが、彼女は回答を拒んだ。僕は今何が起きているのか、全く判断が追い付かなかったが、ひとまず僕らは『親友』として、関係性が構築されることとなった。

 彼女は名を、クラモチ アカリと言った。漢字表記は覚えていなかったが、間違いなく彼女は僕を好いていた。例えば分からない振り付けがあると、彼女は僕に率先して指導してくれる。暇さえあれば僕に学校の話題を展開して、僕の顔を自然と綻ばせてくるのだ。僕は彼女の饒舌に興味津々で、そんな僕の反応に彼女も満面の笑みで応対してくれた。

 この日常は今までの何倍も楽しいもので、彼女が僕を好くワケに執着する意味は薄れていった。


 11月の中頃、僕らは遊園地の屋外でダンスを披露することになった。秋風が運ぶ寒気に耐えながら無事に披露を終えると、最後は皆で整列する。男女と年代で分かれており、生憎彼女は僕から遠く離れた位置にいた。それにも関わらず、彼女は女子の列を抜け出して、端で突っ立っていた僕の元へやってきた。

「列から離れてよかったの……?」

「ダメとは言われていないよ。」

「でも周りのみんな、僕らのことを見ているし……。」

「見ちゃダメなの?」

「先生は僕達の見映えを気にしているんじゃないかな……。」

「……陽太くん冷たいなぁ。」

 そして僕は、またもや彼女に手を掴まれた。しかし今回は前回とは違い、僕の指と指の間に彼女の指をはめる形で握ってきた。今では恋人繋ぎだと一発で分かるが、当時の僕は、その特異性に全く気付いていなかった。しかしその様子をみた同級生や上級生が、一斉に語彙力を喪ってヒューヒュー言い出す。彼らの反応は僕らの間柄が、普通の友達ではないことを暗示していた。

「……なんかみんな、変になっているよ。」

「そうだね。変だねみんな。」

 僕の発言にも冷静に返答する彼女は、彼らの特異な反応に物怖じすることなく、確実に僕の手を握りしめているのだ。

 僕は遂に気が付いた。彼女は僕の傍で、特別な所作・表現を繰り広げており、これは紛れもない愛情表現、つまり恋の本質だった。ここで僕は恋の概念を知り、初めて『友人』という枠を超えた『恋人』という感覚を感知した。

 僕は知らぬ間に初恋を始めていた。


 例の発表会の日を過ぎて、2018年になっても、僕らの関係は断続的に紡がれていた。この恋が原動力となって、僕は人一倍稽古に励むようになった。きっと、彼女の前で見栄を張りたくなったのだろう。

 そうして彼女との仲が深まるうちに、再びあの疑問が浮かんできたので、僕は再度本人に質問してみる。

「アカリちゃんは本当に僕のことが好きなの?」

「大好きのほうがよかったかな?」

「どうして僕のことが大好きなの……?」

「……初めて私を好きになった人だから。それだけだよ。」

 遂に彼女は真意を吐露した。僕は男友達が彼女に対して、僕の心情を歪曲して伝えていたことを確信した。ただ自分を好く相手だからといって、簡単に恋に落ちるものなのか、僕は甚だ疑問だったものの、当時はまだ恋愛観が定まっていなかったので、彼女の理屈も難なく受け入れた。

「……僕もアカリちゃんのことが好きだよ。だって僕を初めて好きになってくれた人だから。」

「……ありがとう。」

 最初は彼女のことを好きではなかったが、好きの意味合いを知った僕は、彼女にある程度惹かれるようになっていた。そんな彼女に好かれている事実は、何物にも代え難い幸福だった。

 しかし同時に、僕は自身の不甲斐なさも認知することになり、彼女の前で弱気な性を露呈してしまう。

「……無理に僕を好きにならなくてもいいんだよ。カッコいい男の子は、アカリちゃんの周りにもいるでしょ?」

「陽太くん……、自分を下げちゃダメだよ。私が好きと言ったら好きなんだから。下を向くんじゃなくって、私と一緒に前を向こうよ。」

「上じゃないの……?」

「上を向いたら転んじゃうでしょ?」

「……分かった。これからは前を向くよ。」

 彼女は齢十一の回答とは思えない、確信を突くような物言いをして、僕に卑下することを止めさせた。そして実際に、それ以降の僕は自己肯定に勤しむようになる。彼女が僕の人生の一部であることは、もはや大言壮語とも言い切れなくなっていた。彼女との日々は続いていく。


 3月になって、僕らはまた公の場でダンス披露の機会を得た。会場では中規模な祭りが開催されており、無数の屋台が軒を連ね、それなりに活気があった。披露が終わり一同整列すると、過去最高の拍手喝采が送られ、僕はある種の充足感に包まれた。案の定、彼女は僕の横に立って手繋ぎを試みてくる。今回の整列に特に縛りはなかったが、会場の規模が規模であり僕は若干の恥じらいを覚え、繋がれた手を自分のポケットにしまった。

「……手を繋ぐ必要あるの?」

「でも恋人なら手を繋いでもおかしくないよね。」

「そうなのかな……。」

 場を弁えることをせず、僕の隣に堂々と起立し手繋ぎをする彼女の振る舞いは、彼女への第一印象である『おしとやか』を全力で否定していた。ただし彼女が他の女子より、一段とませていることには変わりなく、僕の彼女への惚れが減衰することもなかった。

 その後、僕らは親に幾らかお金を貰い、二人でこの祭りを楽しむことにした。今ならこれは小規模なデートだと分かるが、僕は彼女の美貌と祭りの賑わいに圧倒されて、無意識の状態に陥っていた。そしてその調子で、彼女や屋台の方を余所見していると、目の前の段差に気付かなかった僕は、両足を引っ掻けて頭から倒れてしまった。衝撃音に反応して彼女は僕に駆け寄る。

「だ、大丈夫!?」

「……少しつまずいただけ。」

 彼女はうつ伏せになった僕の身体を、必死に起こそうとする。やがて僕は自力で起き上がるも、膝に青アザと切り傷が生じ、立ち上がると痛みが身体中を走った。その様子を見た彼女は間髪入れず、自分の肩に僕の腕をのせて僕の歩行を補助し、仮設の医務室まで支えてくれた。治療が終わると、彼女は安堵した後に説教を始めるような態度に切り替えた。

「前を向いてって言ったのに……。」

「ごめん……。頭がボーッとしちゃってた。」

「でも、大怪我じゃなくてよかったよ。」

「……アカリちゃん。助けてくれてありがとう。」

「私も助けられてよかった。」

 彼女は僕に献身をした。それもただ大人を呼ぶのではなく、自分の力で僕への献身を成し遂げたのだ。僕はこれが愛によって突き動かされた結果なら、彼女は僕の母親に肉薄する、相当な愛を持っているのだと感じた。

 この一件は、僕に彼女を意中の相手として、つまり彼女を異性として認識させる要因となった。僕の青春が幕を開けた瞬間だった。


 しかし、彼女との別れもまた唐突だった。5月の暮れ、彼女は寂しさを含有した笑顔をして、僕にダンススクールを辞めると言ってきた。すなわち、僕と彼女の唯一の連絡網が絶たれることを意味した。

 僕らは連絡可能な端末を持っていない。また僕の母親は未だに一世代前のガラケーであり、親同士のチャットも不可能だ。僕らが住んでいる街は同じだが、家同士は十キロも離れている。小学六年生にとっての十キロは、莫大な隔壁だった。

 彼女は僕よりも先に、この現実を察していたのだろう。絶望する僕を前にして、彼女は僕の両手を掴みこう言い放った。

「こんな別れ方は私だって嫌だけど、家の方針だからどうしようもできないの……。」

「……そうなんだ。勉強、頑張ってね。」

「楽しかったよ。本当に楽しかった……。」

「僕だって……、とっても楽しかったよ。」

「一年間、私と一緒に思い出を作ってくれてありがとう。じゃあね……。」

 僕は彼女の言葉に涙しかけた。それを懸命に堪えて帰宅すると、無意識のうちに母親に対して、ダンス教室を辞める旨を通達した。


 初恋はここで途絶えてしまった。僕は過去に体感したことのない喪失感に苛まれ、また皮肉にも、哀愁や悲壮という感覚も同時に覚えさせ、これが結果的に僕を一段階大人に近づけた。


 中学時代に特別な思い出はなかった。僕はもう一度、誰かを好くことを夢見たものの、十二の記憶が脳にこびりついてなかなか剥がれてくれず、心の時計は秒針諸共、停止したままだった。

 そして僕は夢を諦めた。それだけあの色恋は、僕にとって刺激が強かったのだ。

 ただ確実なことがあるとすれば、この三年間、自分を過小評価することは一切なかった。そしていつかまた、彼女と再会できる日を夢見た。彼女と再会できなくとも、また誰かに愛されて、愛したいと切に願った。

 そのお陰かは知らないが、僕は地元にほど近い、人様に後ろ指を指されない程度の高校に進学することができた。そしてあろうことか、僕を作り上げた張本人である彼女が、今この空間にいるのだ。───

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る