次世代対応医療に関する説明及び同意書

祐里

1. 婦人科

 約一年前、デジタルデトックスするのもいいかもしれないと、ふと思い付いた。付き合っていた男と別れたあと深夜になっても眠くならない日が続いて、試しにちょっとやってみようかな、くらいの軽い気持ちで。

 一人暮らしの部屋にはもともとテレビはなくて、その分スマホを見ていたからか、こんなに効果があるんだと驚いた。通知を親と会社からの連絡以外全て切り、待ち受け画面に文字を流すニュースアプリを削除。腕時計を付けて、スマホはなるべく見ない。すると本当によく眠れるようになった。

 それで何となく調子が出てきて、前から困っていた生理不順も治してしまおうと思い立ち、近所の看板が目についた婦人科へ行った。

「ええと、日浦ひうらさん、ですね。予約はありますか?」

「いえ、予約は……すみません」

「そうですか。基本的に当院はネット予約のみなので、予約なしだとお待ちいただくことになりますが」

「はい、大丈夫です」

 他の婦人科を探すのが面倒だった私は、問診票を書き、長い待ち時間の末に男性医師の内診を受けた。

「排卵がうまくいっていない、卵子が成熟できていない、などの可能性はありますね」

 つまり、私の卵子がおかしいということだろうか。訊いておかなければ。

「あの……、生理不順も性欲がないのも、それが原因……?」

「性欲についてはホルモンの乱れやストレスの影響もあるかもしれません。詳しくは基礎体温を計ってみないと」

「あ、はい」

「血液検査やエコーも必要になるかもしれませんが、まだ何ともいえません。一ヶ月間基礎体温を記録したものを持って、また来てください」

「……わかりました」

 素直にそう答えた。でもネット予約はしたくない。せっかくデジタルデトックスがうまくいっているんだから。

 医師が専門用語を早口で言いながら見せてきた書類へのサインを形式的に済ませ、私は陰鬱な気持ちで帰宅した。

 その後、私が婦人科に行くことはなかった。そうして久しぶりに生理が来た日から数えて二週間後、一人暮らしの部屋に小さな卵が現れた。


「もうすぐ一年経つのかぁ」

 最初はうずらの卵くらいの大きさだった。テーブルクロスを敷いても触ると冷たいガラスの天板の上にいつの間にか現れていた。何だか怖い、と思いながらもつやつやのきれいな卵を生ゴミとして捨ててしまうのもしのびなくて、クローゼットの畳んだひざ掛けの上で保管していた。それが少しずつ大きくなっていって、今ではスーツケースくらいになっている。

 真っ白ですべすべな殻が愛おしい。手のひらで撫でると、人の体温くらいの温もりが伝わってくる。わずかに振動を感じることもある。

「はぁ……あったかい……」

 寒い日はよけいにこの温かさがありがたい。なるべく揺らさないよう慎重に持ち上げる。ずしりとした重みは卵の成長の証。そっとローテーブルの近くに置き、隣りに座ると途方もない安心感を覚える。

 人の温度が好きな私は、元カレによくくっついていた。でもそうすると、彼はセックスしたがった。私はしたくないと言っても行為に持ち込まれるのが嫌で嫌でたまらなくて、そういうことが積み重なり、別れてしまった。

 この子は元カレのような本能むき出しの汚い欲望なんか無縁だ。白い殻の中で、弱いけれど、とくん、とくんと刻まれる鼓動も感じられるようになった。嬉しい。とても嬉しい。

 私はこの子さえいれば毎日充実して暮らすことができる。


 しばらく生理が来ていないけれど、生理由来の体調不良がないから楽でいい。

 そういえば元カレに疑われたことがあったっけ。『クリスマスイブは二人きりで過ごそう』と言われて、浮かれていた時だった。大寒波到来のせいでエアコンの暖房を入れても寒かったからくっついていたかったのに、彼はやはりその時もセックスしたがった。『生理中だから無理』と答えたら、『嘘だろ』って。そしてすぐに帰ってしまった。『興ざめってこういうこと言うんだな』という台詞を玄関に捨てて。

 どうして男が結婚もしていないのにすぐにセックスしたがるのかわからない。私の性欲がなさすぎなのかもしれないけれど、世の中の色々な話を聞くと、男の方が女よりやりたがることが多いように思う。そうして、セックスしたらしたで、もう用済みとばかりに冷たくなる。少なくともあの男はそうだった。セックスするためだけに私と付き合っていたのかもしれない。

 元カレに対して思うところはあるけれど、本当の本当は、役立たずで申し訳ない、こんな私でごめん、という気持ちもある。私は孤独に生きるべきなのだろう。


 はぁ、とため息をつく。元カレと別れてから迎えた二十六歳の誕生日、田舎の母から電話で『美久みく、恋人はいないの? もう売れ残りのクリスマスケーキじゃない』と言われた時のことを思い出して。反論したかったけれどさすがに『性欲がないから無理』とは言えず、『その言い方古いよ』と苦笑いしただけで済ませた。

 性欲がないって言っちゃえばよかったなと、今となっては思う。役立たずの失敗作に産んだのは母なのだから。

「イライラするなぁ……クリスマスって色んなこと思い出しちゃう」

 外出すればきれいなイルミネーションを見ることができる。クリスマス限定のかわいらしい高級スイーツなんかも売られていて、きっとデパ地下に行くだけでも気分は上がる。人々がそわそわしている街角もけっこう好きだし、会社での話のネタにもなるから、本当は仕事帰りにどこかに寄ったりしてクリスマス気分を味わっておくべきなのだ。わかっているけれど、実際にはコンビニでさっと買い物する程度。この子に早く会いたくて、よけいなところには寄り付きもしない。

「愚痴言ってごめん。いつも癒やしてくれてありがとね」

 卵は私の言葉に応えるようにぶるりと震えて、少しだけ鼓動を速めた。

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