耳と骨

@Equuleus_

耳と骨

 7月の終わりに祖父は死んだ。

 彼との記憶は、ほぼない。

 

 10月。葬儀や四十九日は当の昔に終わった。涙はなかった。

 その日は体がだるく、考査前だというのにペンを握る気にならなかった。

 ふと思い立ち、制服のまま倒れこんだ布団から起き上がった。引き出しの奥にしまったクッキーの空き缶を取り出す。缶を開けると色とりどりの封筒が静かに重なっている。そのほとんどは10年以上前、近所で手紙を渡しあうことがブームになった名残だ。だいすき。いつもありがと。昔は無邪気に言っていた、いつの間にか誰も言わなくなった言葉を掘り返し横にはける。

 あった。

 向きも順番も無秩序に並ぶ山から抜き出したなんの飾り気もない茶封筒。たった一通の祖父からの手紙。新興感染症が猛威を振るい、久しぶりの再会をした後に祖父から送られたもの。


 祖父が死んだときもその手紙を読もうかと一度は思った。だが、読まなかった。祖父は、口数が少なかった。そして、彼に似て私も口数が少ない。私は祖父のことをあまり知らない。知らない人を偲び、感情を高ぶらせ涙を流す資格が私にあるのか。第一、己の境遇にうぬぼれている愚か者に私はなりたくなかった。


 手紙を手に取り再び布団に体を沈ませた。斜陽が部屋を朱に染める。道路で遊ぶ近所の子供の声が聞こえる。下の階で母が夕食をつくる音が聞こえる。今日の夕飯は魚だろうか。ああ、部屋が暗いな。明かりをつけようか。

 人の体とは便利なことで、何も考えずに行える作業というのが数多く存在する。歩く、座る、持ち上げる。封筒を開け、便箋を開くのも然り。

 

 機械的な活字が並ぶ手紙。そういえば、祖父の書いた字を見たことがなかったかもしれない。祖母の達筆すぎる字と、父のミミズ字を思い出す。祖父も同じだったのだろうか。


 ああ、そういえば。あの日。おばあちゃんが教えてくれた。

 いや、これは願望がつくりだした幻か?

 おじいちゃんね、あんたが来るのとっても楽しみにしてたんだよ。はりきってね、普段はいかないのにスーパーに行ってアイスとジュースを買ってきたんだよ。

 祖父はテレビでゴルフを見ている。


 あれ、ありがとう、って言ったっけ?たかが5文字、されど5文字。


 手の中にあるテキストが、すべてを物語ってくれた。

 祖父は、私を愛していた。

 

 私は彼へ愛を返せていたのだろうか?

 私は彼に、何もしなかった。

 謝罪と愛の言葉は彼に今でも届くのだろうか?


 あたたかい風が私の頬をそっとなでることも、黒蝶が姿を見せることもない。

 日は沈み、秋分の日をこえた夜が今日も訪れる。

 涙が溢れることは、やはりなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

耳と骨 @Equuleus_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

参加中のコンテスト・自主企画