深夜の地図
perchin
深夜の地図
深夜二時。
冷蔵庫の低い唸り声だけが、静寂を支配している。
私は、消えたテレビの黒い画面に映る、くたびれた男と対峙していた。
これが、私だ。
かつて、世界を変えられると信じていた男の成れの果てだ。
手元の缶ビールは、もう温くなっている。
若い頃、私は確かに「地図」を持っていた。
誰も知らない場所へ行き、誰も見たことのない景色を見るための地図だ。
根拠のない自信と、焦燥感だけのエネルギーで、私は走っていた。
何かを成し遂げられると、疑いもしなかった。
それが、いつからだろう。
地図は、住宅ローンの返済計画表に。
冒険のためのブーツは、燃費の良いファミリーカーにななっていた。
安定した収入。狭いけれど手に入れたマイホーム。休日のショッピングモール。
不満はない。あるわけがない。
これは、多くの人が望む「幸せ」の形そのものなのだから。
私は、賢明な選択をしたのだ。そう、自分に言い聞かせてきた。
けれど。
ふと、夜の底に沈むと、胸の奥に冷たい風が吹く。
私は、何かを置いてきてしまったのではないか。
本当に大切な何かを、あの日に置き去りにしてしまったのではないか。
ここにあるのは、妥協の堆積物ではないのか。
衝動が、喉元までせり上がる。
このまま、ふらりと外へ出てしまおうか。
車に乗って、ガソリンが尽きるまで走り続けたら、あの日の続きが見られるだろうか。
ここではない何処かへ。 私を知る人が誰もいない場所へ。
私は、テーブルに手をついて立ち上がろうとした。
「……パパ?」
背後で、小さな声がした。
振り返ると、長男が眠い目をこすりながら立っていた。
寝癖のついた髪。パジャマのボタンが一つ、掛け違っている。
「どうした、トイレか?」
「ううん……お水」
長男はトテトテと歩み寄り、私の足にぎゅっと抱きついた。
温かい。
驚くほど、温かかった。
その体温が、ジーンズを通して、冷え切った私の皮膚に、心臓に、直接伝わってくる。
彼は顔を上げ、へにゃりと笑った。
何の疑いもない、全幅の信頼を寄せた瞳。
その瞳に映っている私は、夢に破れた敗残者ではない。
彼にとっての、世界でたった一人の父親だった。
ああ、そうか。
私は、失ったのではない。
形を変えたのだ。
あの頃の尖った夢は、この柔らかな重みに変わったのだ。
私が守りたかったのは、冒険の日々ではなく、この小さな寝息だったのかもしれない。
私はしゃがみ込み、その小さな体を力一杯抱きしめた。
石鹸と、ミルクの混じったような匂い。
鼓動が、トクトクと私の胸を打つ。
「……パパ?」
「……なんでもないよ。お水、飲もうな」
声が震えた。
涙が溢れて、止まらなかった。
どこへも行く必要なんてなかった。
私の地図の目的地は、最初から、ここだったのだ。
深夜の地図 perchin @perchin
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