徒花を手折る

月花

徒花を手折る


 この先、自分はまともな人生を送れないのだと理解した次の瞬間、だったら復讐するしかないんだろうな、とぼんやり思った。




 そこは洗練されていて美しい場所だった。物が少なくて、広々としていて、清潔。けれどどこか調子外れに明るくて、無機質な空間。何かに似ているような――歩きながらずっと考えていたけれど、たぶん病院だ。


 昔、祖父の見舞いに連れて行かれたとき、こういうロビーをまっすぐに横切った記憶がある。自分はここにいるべきでないと無言の拒絶を受けているような気分になりながら。


 スニーカーのソールが甲高い音を立てる。

 男は左手に伸びる廊下を指さした。


「通路を抜けると祈りの間があります。夜の十時までは開いているので、いつでも利用できます。お祈りの流れや作法については?」

「さっき、係の方に一通り習いました」


 男は振り返って、笑みを浮かべた。


「日々、守護霊に感謝をすることが大切だと導師様もおっしゃっています。松島さんもぜひ帰りに立ち寄ってみてください」


 はあ、ありがとうございます、と俺は張り付けた笑みのままで答えた。


 それからも男に連れられて建物の中を回っていく。学校くらいの広さはある敷地内で、何人かにすれちがった。平日の昼間だというのに。頼りなさそうに俯いている若い女、ソファに座ってぼんやり宙を見ているスーツ姿の男、ずっとにこにこしている初老の女。彼らは一体どこで何をしている人間なのだろう。


 ふと男が立ち止まり、ガラスの壁に向かって会釈をした。つられるように俺も足を止めて、同じ方向を見やる。


 四方をガラスの壁に囲まれた小さな中庭があって、真上から昼の光が差しこんでいた。もう冬が近いからか、日光はずいぶんと柔らかい。レンガ造りの花壇には紫色の花が敷き詰められるように咲いている。


 そのすぐ前でじょうろを持っている青年が、こちらを見つめ返しているのが分かった。


 遠目からでも分かるほど、細い身体をした青年だった。シャツの生地が余っていて、服に着られてしまっている。腕まくりをしているが、手首も拳も、ほとんど骨みたいだ。木の枝のような華奢さ。けれど彼の視線はとても穏やかだった。


 男が「すみません、行きましょうか」と声をかけてきたので、俺は口を開いた。


「あの子は?」


 男はもう一度会釈をしてから歩き出す。


「導師様のお子様ですよ」


 そうか、あれが──俺は声に出さないまま返事をして、右ポケットに手を入れた。






 母さんが死んだ。転落死だった。


 俺には物心ついたころから父親はいなかった。母さんは「理由があって遠いところへ行ってしまったの」と話していたけれど、病院で管まみれにされていた祖父は「よそに女を作りやがった、あのろくでなし」と罵っていたので、大方の事情は察していた。


 その祖父も亡くなってしまい、俺は母さん一人に育てられた。俺の前ではいつも明るく笑っていて、たまにトイレで泣いているような人だった。


 母さんは老人ホームでフルタイムのパートとして働いていた。


 職場の人とは仲良くしていたらしく、俺が高校に入学したころ、シングルマザーの集まりがあると誘われて出かけて行った。同じ境遇の人が集まって、愚痴を言いあったり、悩みを相談しあったりする会らしい。久しぶりに綺麗なカフェでお茶ができて楽しかったと話していたのを覚えている。


 母さんに友だちができるのは、素直に嬉しいことだった。ずっと俺のことばかり考えていたから、少しくらい忘れて、自分の好きなことをしてほしかったから。


 最初は月に一回の集まりだったけれど、二回になって、三回になって、俺はそのたびに笑って、いってらっしゃいと送り出した。


 それが間違いだったと気が付いたのは、俺が高校二年生になったころだ。


 母さんが通っているのは綺麗なカフェではなく、怪しげな宗教団体だった。


 だが気が付いたときにはもう手遅れだった。母さんはすでに闇金で借金を作っていた。


 チャイムが鳴らされる。何回も何回も鳴らされる。息を止めて、気配を殺す。ガンガンとドアが叩かれる。


「松島さーん。いるのは分かっていますよ」


 チャイムが鳴らされる。不快な音が重なる。


「いい加減にしてくださいよお」


 扉が乱暴に蹴りつけられて、耳をつんざくような金属音が響き渡った。郵便受けから何枚もの督促状が落ちてくる。返せるあてのない借金だ、取り立てが始まるまでそう時間はかからなかった。


 けれどどうすることもできなくて、布団の上で縮こまる母さんの肩に手を添えながら、俺はただ、嵐が過ぎ去るのを待っていた。






 あの子どもを殺そうと思った。


 俺は母親を奪われたのだから、俺は子どもを奪う。そうすれば少しくらい気も晴れるんじゃないかと思った。


 宗教法人・四葉の会。


 人口二万人の小さな市を拠点に活動している新興宗教団体。代表である代永町子は、幼い息子が生死の境をさまよっているなか、とある夢を見た。守護霊だと名乗る存在が、息子を救いたいのならば、他人を救えと命じたのだ。


 町子はその言葉に従い、同じ苦しみを抱えた人々を献身的に支えた。すると息子は死の危機を脱し、生き延びることができた。以来、町子は守護霊を信仰し、教えを説く導師として信者を増やし続けている。


 受付名簿に名前を書いてから、奥へと進んでいく。壁時計を見やると、ちょうど前と同じくらいの時間だ。急ぎ足で中庭へと向かう。けれどガラスの向こうには誰もいなくて、花壇の花が揺れているだけだった。


 結局建物を一周しても見つからなくて、ため息をついた。あの子どもは高校生くらいに見えたから、学校にでも行っているのかもしれない。よく考えれば分かるようなことなのに――俺は胸ポケットから煙草の箱を取り出そうとして、けれどその指先はからぶった。


 だったらオープンスペースで休憩してから引き揚げようと扉を押し開ける。だだっぴろい空間にいくつもの丸テーブルと椅子が並んでいた。食堂としての営業は終わっているが、壁際にはコーヒーマシンや個包装の菓子が置かれていて、いたせりつくせりだ。


 窓際の席に人が集まっていた。中心にいるのは誰だろう、と覗きこむように身体を傾ける。それから目を見開いた。あの青年だった。


 正面にいる中年の女が身を乗り出した。


「リタさん、妹がね、ずいぶんと良くなってきたの。急に暴れだすことも減って、施設にも通えるようになって。導師様のおかげだわ」

「わあ、それはとても嬉しいことですね」


 青年は手を合わせて、にこりと笑った。見た目にたがわない、柔らかな声をしていた。リタというのは彼の名前だろうか。


「でも時々ご飯も食べてくれない日があって。私、これ以上どうすればいいのか分からなくて、夜も眠れなくて……」

「うーん、心配ですね。友美さんはきちんと食べていますか?」

「私は、まあ、それなりに」

「まずはあなたが元気でなければ、妹さんも心配してしまうかもしれません。僕も、母さんも悲しいです。友美さんが頑張っていることはみんな知っていますよ。ここにいる、みんな。ねえ、そうでしょう?」


 ありがとうございます、ありがとうございます、と女はすすり泣きながら繰り返した。


 俺は自分の顔が引きつっていくのを感じていた。いい年をした大人が成人もしていない子どもに縋りつき、涙を流して、それを周囲は当然のような顔で見守っている。そんな異質な光景が広がっていた。


 一人が悩みを打ち明け、リタが慰め、また一人が打ち明け――俺はぬるくなり始めたコーヒーをすすりながら、壁際で眺めていた。時計の針が半周する。やがて全員が去っていて、いつの間にか部屋は俺たち二人きりになっていた。


「お兄さん」


 彼は椅子に座ったまま俺に視線を合わせた。


「好きな席に座っていいんだよ。ここはいつでも自由席だから」


 見りゃ分かるよ、と呟いてから、少し離れたところにある椅子を引いた。彼は小首を傾げて微笑む。


「お兄さん、名前を訊いてもいい?」

「松島」

「松島、何さん?」

「千紘」

「千紘さんは何に悩んでいる人なの?」

「……特に、何も」


 子ども相手にお悩み相談を頼んだ覚えはない。俺はおまえを殺しにきたんだ、と心の中だけで返す。ずっと黙りこんでいる俺を見て、リタは眉を下げた。


「だったら、どうしてここに来たの?」


 最近の人だよね、と彼は付け加えた。出入りしている人間の顔をみんな覚えているのだろうか。だとすればご苦労なことだ。


「母親が昔、ここに通っていたから。ふと、そんなことを思い出して」


 彼は静かに瞬きをした。わずかに目を伏せて「そっか」とだけ答えた。


「ここに来る人はみんな、何かに悩んでいる人なんだ。自分じゃどうにもできないようなことに悩んで、苦しいって思っている人ばかり。幸せな人には必要のない場所だからね」

「そりゃそうだ」

「だから千紘さんも必要なだけいるといいよ。僕にできることがあればいいんだけれど」


 雲が流れて、テーブルの影が消える。


 だったら今すぐにでも死んでくれないか。騙されて、食いものにされた母さんが死んだみたいに、何の罪もないおまえも。


 丸テーブルに手をついて立ち上がろうとする。重い腰を浮かせたところで、電子音が鳴り響いた。思わず全身が硬直してしまう。


「ああ、もう戻らないと」


 うるさくてごめんね、とリタは言った。


「薬の時間なんだ。でも部屋に置いてきてしまったから」


 彼はポケットからスマホを取り出す──それは真っ黄色をしたキッズスマホだった。また話そうね、とリタは笑って手を振った。







 ドアの向こうで工具の音がした。ドリルが回るような鋭い音だ。それがアパートのドアに穴を空けているのだと分かったとき、母さんは悲鳴を上げた。


「にっ、逃げ、逃げなきゃ」

「逃げるって、どこから」


 その頃、取り立てはより苛烈になっていた。職場にまでしつこく電話がかかってきて、母さんは仕事を辞めざるを得なかった。やがて家の中に閉じこもるようになって、一日中肌をかきむしって、髪を抜いていた


 何もかもが一歩遅くて、手遅れだ。


 母さんが畳を這うようにして進み、ベランダの鍵を引っ掴む。引き戸はガラガラと音を立てながら開いていった。薄いカーテンが風になびいて、淡い光の筋が差しこんでくる。「何をしているの」と投げやりに尋ねれば、「逃げなきゃ。殺される」と繰り返された。


 何をしたって今さらだ。ベランダに隠れたところですぐに見つかって、引きずり出されるに決まっている。


 俺は視線を逸らして、足の爪を見ていた。何本もの縦筋が入った、汚い爪を。


 なんで母さんは借金なんて作ってしまったんだろう。ちょっと考えればおかしいって分かるだろうに、なんで。


 もう何度目かも分からない呪いを吐いた。そのとき何かが落ちるような音がした気がして、俺はゆっくりと顔をあげた。糸で操られるかのようにベランダを見やる。視線を右から左へ。母さんがどこにも見当たらない。


「母さん?」


 呼びかけたつもりだった。けれど喉が締め付けられるように縮まっていて、か細い声しか出てこなかった。


「母さん」


 もう一度呼ぶ。返事はない。


 喉から変な声が漏れた。手先から熱が逃げていって小さく震えだす。立ち上がらなきゃ、と思った。立ち上がって確かめに行かなければ。早く。それなのに足が重たくて、縛り付けられたみたいに動かない。


 やがて扉に開けられた小さな穴から金具が差しこまれて、鍵が回された。扉が乱暴に開け放たれて、三人の男が土足のまま押し入ってくる。俺は座りこんだまま、部屋が荒らされる様をぼんやりと見ていた。


 畳に足跡がうっすらと残る。一人が早足でベランダに出て下を覗きこみ、それから舌打ちをした。


「千紘くんかな?」


 一人が俺の前の前に立ちふさがった。ベランダが男の背中に隠されて見えなくなり、代わりに深い影が落ちてくる。唇は動くのに声が出ない。心臓だけバクバクと脈打っている。


「返事もできねえのか、ガキ」


 別の男から怒鳴られて、反射で頷いていた。


「こんにちは、千紘くん」

「こん、にちは」

「挨拶ができてえらいね。何歳?」

「十七歳」


 黒目が上から下にゆっくりと動く。俺を値踏みするみたいな、冷たい視線だった。


「実は君のお母さん、うちの会社からいっぱいお金を借りていたんだ」


 男は八本の指を立てて俺に見せる。


「全部で八百万。でもお金ってさ、借りたら返さなくちゃいけないんだ。それが社会のルールっていうやつだからね」


 男はよいしょ、と言いながらしゃがみこんだ。俺と視線を合わせて、にこりと人のよさそうな笑みを浮かべる。


「意味、分かるよね?」


 カーテンが風を受けて膨らんだ。それは子どもを諭すような、優しい声色だった。






 受付名簿に名前を書いていると、後ろから「松島さん」と声をかけられた。聞いたことがある声だと思って、ボールペンを持ったまま振り返ると、やはり知っている顔だった。


「どうも、こんにちは」


 皺のないTシャツにジャケットを羽織ったその男は、堺といった。


 四葉の会の副代表で、実質的な運営を担っているらしい。何度か声をかけられて世間話をしたことがあるけれど、ここ最近は顔を合わせていなかったので、話すのは久しぶりだ。


「よく来てくださっているようで。ここはいかがです?」

「皆さんにはよくしていただいています」

「そりゃあ良かった。この前、リタくんと話しているところを見かけましてね。何か相談ごとでもされていたんですか?」

「いや……ただの雑談ですよ」


 俺は右の口角を釣り上げた。あんな人間と一緒にされてたまるか。あんな、子どもに縋って泣いているような人間なんかと。


 堺は「煙草吸います?」と言いながら喫煙室を指さした。この男と長話をするつもりはなかったのでかぶりを振ると、彼は小さく肩をすくめた。


「リタくんは導師様に似て、敏い子ですからね。時々、心の中でも見透かされているような気がしてぞっとしますよ」

「そうですかね。俺には、普通の高校生に見えますけど」

「いやいや、リタくんは今年で二十歳になりましたよ」

「へえ。それにしては幼く見えますね」

「身体が小さいからでしょう」


 俺が手先をそわそわと動かしているのを見て、「やっぱり吸いに行きましょうよ。ね、少しくらいいいでしょう」と肩を叩いてきた。まあ一本くらいなら、と曖昧に頷き返す。


「なんというか彼は、こちらが欲しいと思っている答えを、ぴたりと言い当ててくるんですよね。不思議と、昔から。松島さんも何かあれば彼に相談してみるといいですよ」

「機会があれば、そのうち」

「ここにはよくいらっしゃるんでしょう? 三日に一日は顔を出してくれていますよね」


 堺が喫煙室の扉を押し開けた。喫煙室は全面ガラス張りになっていて、中には誰もいない。堺が灰皿近くの壁にもたれかかったので、俺は少し離れたところで、煙草の箱とライターを取り出した。


「ところで松島さん、今でも会に参加されているんですか?」

「まあ、一応……」


 ライターをカチカチと鳴らす。小さな火花がはじけるみたいに散る。だが火がつかない。何度もそうしているうちに堺が近づいてきて、俺の手にライターを押し付けてきた。

「どうもすみません」と言いながら受け取り、煙草の先に火を灯した。


「むしろ会からうちに来てくれたんでした?」


 四葉の会では内部、外部を問わずいくつもの集まりが催されている。母さんが誘われたという、シングルマザーの集まりの正体がこれだ。


 主催が四葉の会であることを知らないまま参加し、気の合う仲間と楽しく話し、気づけば肩までどっぷりと浸かっている──そうやって信者になってしまうパターンが一番多いのだとネット記事には書かれていた。


「松島さんはどの会でしたかね?」

「適応障害の復職支援会です。今度、グループ交流会にも出る予定ですよ」


 堺は眉を下げ、「それは大変でしたね」と言った。ボロがでても困るので「前職でいろいろありまして」とだけ答えて、話を濁す。


「カウンセラーも紹介してもらえて、助かっています」

「お役に立てているようで何よりです。みなさんをサポートするためにも、もっと規模を大きくしていきたいんですが、なかなかねえ。経済的に苦しい方にも参加していただきたいという思いがあって、費用は取らないようにと導師様もおっしゃっていますし」

「はあ、そうですね。ありがたい限りです」

「お恥ずかしながら、みなさんの善意で成り立っているというのが実情でして──」


 堺は長く息を吐き出した。灰色の煙が天井の換気扇に吸い込まれていく。


「……松島さん、もし、もし良ければの話なんですがね」


 灰皿の端で、トンと指を動かす。灰の塊が崩れて落ちていく。


「余裕のあるときにでも、うちにご支援いただければなあ、と思いまして」


 煙草を口に運ぶ手が止まる。思わず顔を横に向けると、そこにはへらっと軽薄に笑う堺がいた。無言のまま視線だけが交わる。二秒たって、彼は顔の前で大きく手を振った。


「いやいや、本当に余裕のあるときで結構なんですよ。それこそ皆さん、五百円や千円ですしね。その日のランチ代を払うくらいのお気持ちで、気軽にご協力していただきたいだけなんです。そうすれば今よりもっと多く、困っている方の力になれますからね」


 もちろん気が向かなければ結構ですよ、どうせ匿名なので、と彼は付け加えるように言って笑った。


 まだ長い煙草がひしゃげる。

 ああ、と呟く声が口から零れていた。


 ああ、そうか。そうやって、おまえたちは母さんを騙したのか。いつだって誰かのためにばかり頑張ってしまう母さんを。


 フルタイムパートの介護職として必死に働いていた母さんが、なぜ借金までして宗教に貢いでいたのか、ずっと不思議でならなかった。占いにもパワースポットにも興味がなかったはずの母さんが、なぜ新興宗教にあれほど溺れてしまったのか。


 からくりが分かればなんと言うことはない。人の善意ほど付け入りやすいものはないだろう。最初の段差はいつだって低くて、踏み越えるのは簡単だ。


 息を吐いた。かすかに震える喉で、息を吐いた。煙草をくわえる。肺を膨らませるように大きく息を吸いこんで、重い煙を臓器に送り込む。そうでもしなければ、どんな顔で笑っていればいいか分からなった。


 表皮がぴりつくのを感じながら、横目で堺を見やると、彼は薄っぺらい愛想笑いを浮かべたままで「皆さんのご厚意があるからこそです」なんて言っているから、今すぐどうにかしてやりたいなあ、と考えていた。足が床についていないような感じがした。


 右手をポケットに入れて、指先で中身をなぞる。握っては離す。手なぐさみのように何度か繰り返していると、ガラスをノックする音が聞こえた。後ろを振り向くと、ガラスの壁の向こうにはリタが立っていた。


「リタくん」


 リタが口を動かしているのが見えるが、声はよく聞こえない。堺は左右をきょろきょろと見ると、まだ半分ほど残っていた煙草を灰皿に押し付けて、火をもみ消した。テーブルに置いてあった消臭剤をジャケットに吹きかけてから、急ぎ足で喫煙室の外に出る。


「こんにちは、堺さん。禁煙するんじゃなかったの?」

「それは明日からということで。そんなことよりどうしてここに。煙草臭くないかな。身体に障らなきゃいいんだけど」

「実は松島さんと約束があって」


 彼は「今日の十三時でね」と小さな声で呟いた。堺は腕時計に視線を落として、「五分後じゃないですか」と返した。


「それは失礼。私は出直しますね」

「構わないのに」

「ちょっと一服していただけですよ」


 松島さん、また今度飯でも行きましょうね、と言い残して堺は去っていった。


 リタはひらひらと手を振って、遠ざかっていく背中を見ていた。俺も同じように目で追っていたけれど、だいぶ離れたところで口を開く。


「約束なんてしていたか……?」


 まったく思い当たる節がなかったので、声を潜めて尋ねた。リタは「えっ」と声をあげて、俺を見上げた。


「ひどいな。この前、お昼を一緒に食べようって話したのに」

「え?」


 今度は俺が声を上げる番だった。リタと話したのは一回だけなのだから、とよくよく思い返してみる。だがやはり覚えがない。あのときは半分上の空だったから、知らず知らずのうちに頷いてしまったのかもしれない。


 リタはたいして気にした様子でもなく、「まあいいや」と廊下の奥を指さした。


「お昼、まだなら一緒に食べようよ」


 ね、と笑いかけられる。その微笑みに流されるかのように俺は頷いていた。






 オープンスペースでは十四時まで食堂が開いている。チャーハンと餃子のセットが乗ったトレイをテーブルに置き、椅子を引く。すでに席についていたリタは、丁寧に両手を合わせて、「いただきます」と言った。


 オムライスのミニサイズを頼んだらしい彼は、スプーンで端を切り取った。湯気がのぼるそれに何度か息を吹きかけてから頬張る。子どもは美味そうに食べるもんだ、と思い、けれど彼は子どもという年齢でもないのか、と思い返した。


「気をつけなくちゃ駄目だよ」


 唐突に、彼はそんなことを言った。オムライスが半分ほどなくなった頃だった。俺が箸を止めて顔を上げると、彼はスプーンの裏でケチャップを塗り広げていた。


「堺さんに捕まると長いからね。個室に連れ込まれたら終わりだよ」

「まあ、確かに。次から気をつけるよ」

「堺さん、今度こそ禁煙するって言っていたのになあ。毎回三日ともたないんだ。ヘビースモーカーってやつなんだよ」


 言葉の割に呑気な顔をしている彼は、スープカップを掴もうとして、あつっと声をあげた。視界の端で、勢いよく手を引っ込めるのが見えた。右手の指先をさすっている。


 思わず顔をあげると、彼と目が合った。彼は背を伸ばして、まっすぐにこちらを見ていた。堺の言うところの、心の中を見透かすような目で。


「理由がないなら、ここには来ない方がいい」


 雑音にまみれた部屋で、彼の声だけが自然とよく聞こえるような気がして、息を止めてしまっていた。本当に何もかもを見透かされているのではないか、とすら思った。だが彼はにこりと笑っただけで、またオムライスを一口分すくって口へと運ぶ。


「ここは人を幸福にも不幸にもするからさ」

「でも、おまえはいつもここにいるよな」


 くっついた餃子を箸で剥がしながら、「二十歳なんだろ、大学には行っていないのか」と短く尋ねた。リタは「大学、大学かあ」とひとり言みたいに繰り返した。


「大学って、高校出ないと行けないでしょ?」

「たぶん」

「僕、小学二年生までしか学校通っていないんだよね」


 俺は掴みかけた餃子を皿に落とした。薄く口を開いたまま、何度か瞬きばかりを繰り返した。まじまじと見ていると、「義務教育も終わってないんだよ、僕。びっくりした?」と目を細めて笑う。


「本当に?」

「本当に」

「……不登校だったのか?」


 リタはかぶりを振った。昔は今よりずっと身体が弱くて、どちらにせよ通うのは難しかったんだけどね、と呟く。


「ここから一歩でも外に出ると、僕は不幸に見舞われて死ぬらしいよ」


 残ったチキンライスを皿のふちに寄せて、最後の一粒までスプーンに乗せた。


「母さんの守護霊がそう言ったんだ」


 俺はしばらく言葉を失っていた。現代社会とは思えない、あまりにも歪んだ理由だった。


「だから学校に行かなかったのか」

「学校どころか、公園もスーパーも病院も行ったことないよ。最後に外に出たのはいつだったかなあ。十年前──今二十歳なんだから、もっと前か」


 勉強は家庭教師に見てもらったし、医者は週二回も来てくれるよ、そんなに来なくたっていいのに、とあっけらかんと言った。


「ここに閉じ込められているっていうことか」

「見方によってはそうなのかもね」

「外に出たいとは?」

「どうだろう」


 彼は大きく首を傾げた。


「外に出たって、ねえ」


 最後の一口まで食べきって手を合わせたあとで、ようやく「カップラーメンは食べてみたいかもね」と言った。思ってもいない答えが返ってきて、俺は素っ頓狂な声で訊き返してしまった。


「カップラーメン?」

「ほら、だって、身体に悪そうじゃない?」


 リタは珍しく声をあげて笑っていた。






 カップラーメンの蓋を半分までめくって、小鍋で沸かした湯を注ぐ。畳の上に広げられた雑誌や服を足で避けながら、自分のテリトリーに腰を下ろした。


 割り箸の入った袋はすでに封が切られている。朝にも使ったそれを取り出して、コップの上に置いた。蓋には三分待てと書いてあるけれど、一分ほどで割り箸をスープの中に突っ込んだ。


 六畳の畳の間に、八組の敷布団。足の踏み場もないカビ臭い部屋。方々から集められた、金も学歴もない、けれど訳ならある同居人たち。それが俺の世界のすべてだった。


 扉の金具が軋む音がして、二人戻ってきた。外で焼きそばの湯切りをしてきたらしく、あっという間にソースの濃いにおいが広がった。


「なあ、聞いたか」


 男の一人がわずかに身を乗り出した。


「隣の部屋の奴、逃げだしたらしいぞ」

「へえ、勇敢だな」


 もう一人が下手な口笛を吹いた。ここは建設現場で働く男たちの寮だ。常に仕事があっせんされて、おまけに現場までの送迎付き。とはいえほとんど強制労働のようなもので、借金を返せなかった人間の行きつく先だ。


 あの後俺は高校を中退させられ、この寮に放りこまれ、朝から夜まで仕事をさせられていた。


 俺はまだ固い麺をすすりながら耳だけを傾けていた。男は「それで?」と先を促す。


「そりゃあひどいもんだったよ。見せしめってやつだな」


 鼻が左に曲がっていたよ、前歯もなくなっていてさ、と彼は眉をひそめた。それだけで済んだのなら儲けものだろう。一年前、逃げ出したという別の男は翌日から姿を見せていない。噂では山に埋められたとか、臓器を抜かれたとか、噂だけが独り歩きしていたが、たぶん当たらずも遠からずだ。


 男の一人が「松島、おまえはやめておけよ」と言った。俺はスープを飲みながら視線だけを向ける。


「おまえはまだ若いんだ、あと五年もしたら金も返し終わる。あとは好きなように生きられる。だからそれまでの辛抱だ」


 それは俺に向けられた最大限の親切心だった。俺は麺の最後の一本をすすり、けらけらと笑って、自分の右頬を指さした。


「逃げても逃げなくても、毎日殴られていますけどね」


 頬骨のあたりは腫れあがって熱を持っていた。血管が脈打つたびに、鈍い痛みが骨まで響いた。そのすぐそばには青あざが三つ。


 ここが地獄じゃないなら何だって言うんだ。教えてくれよ、なんて誰に言っても仕方がないのに。


 十年かけてやっと寮を出られた日、不意に頭上を見上げると、抜けるような青空だった。


 手持ちの金はほどんどなかったから、二時間かけて徒歩で生家まで帰った。四階建てのボロアパートは跡形もなく解体されていて、平屋のコンビニに変わっていた。電子音を鳴らしながら開く自動ドアを見たとき、初めて、本当に全部なくしてしまったのだと実感した。


 学歴も、青春も、最後の家族も失ってしまった俺は、この先まともな人生は送れないのだと理解した。理解した次の瞬間、だったら復讐するしかないんだろうな、とぼんやり思った。そう、確かに思ったのだ。







 壁に手を滑らせる。固い何かが指先に触れたのが分かったので、スイッチを押しこむ。広間の半分にだけ明かりが灯って、白い丸テーブルと椅子がぼんやりと浮かび上がった。


 壁時計の秒針が無機質な音を立て続けている。今さっき日付を越えたばかりで、オープンスペースは無人だった。左手で抱えていたそれらをテーブルの真ん中に置いて、椅子を持ち上げるようにして引く。


 手は無意識のうちに胸ポケットを探ろうとするけれど、スウェットに着替えているから、そこに煙草の箱は入っていなかった。宿泊室に置いてきてしまったようだ。仕方がないからネット記事を眺めながら時間を潰す。


 少し待っていると、足音が近づいてきた。わずかに開いたままにしている扉を見やると、真っ暗な影の中から、誰かが覗きこむようにこちらを見ていた。


「早くしろ、人に見つかる」


 ああそっか、と返事があった。音を立てずに身体を滑りこませてきたリタは、軽い足取りで近づいてくる。


「わあ、本当に持ってきてくれたんだ」


 テーブルの上にあるのは、どこにでも売っているようなカップラーメンだった。片方は豚骨しょうゆ味で、もう片方が味噌味。彼は両手でカップラーメンを持ち上げて電灯にかざすと、しばらくパッケージを眺めていた。


「ね、ね、早く食べたいな」

「すぐには無理だ」

「お湯を入れて三分待つんでしょ。さすがにそれくらい知っているよ」


 彼は蓋の端をつまんだ。なんだか嫌な予感がしたので「待て待て待て」と慌てて手を伸ばす。けれど間に合わない。リタは景気よく一気に剥がしてしまった。


「点線までだって書いてあるだろ」

「あれ、本当だ。どうしよう、やっちゃった。これってもう食べられないのかな?」

「蓋を戻して、重しでも置いておけばいい」

「ええと、じゃあこれで」


 彼はスマホを取り出して、淵にそっと乗せた。俺は何から言うべきか迷って、「世の中には適材適所という言葉がある」とだけ伝えた。最近分かってきたことだが、リタは聡い割にとんでもなくズレているところがあった。


 魔法瓶の湯を注げば完成まであと三分。相変わらず文字の大きいキッズスマホで、カウントダウンされていく数字を眺める。リタは頬杖をつき、パッケージの注意書きを熟読していた。


 深夜、お互い特にわけもなく黙っていたから、部屋の中はとても静かだ。気づいたときには、俺はぽつりと呟いていた。


「外に出たいなら、出ればいいだろ」


 どうしてそんなことを言ったのか、自分でもよく分からなかった。だからリタが目を見開いたのと同じか、それ以上に俺の方が驚いていた。ややあって、リタはひとり言のように返した。


「意味ないよ」


 一瞬だけ俺を見て、それからゆっくりと視線を戻す。


「何をするために外へ行くの?」

「外でならカップラーメンも、カップ焼きそばも好きなだけ食えるだろ」

「それは……ちょっとだけ魅力的かもね」


 リタは足をぶらりと動かした。まるで本気にしていない言い方だったから、俺は眉を動かしてしまう。


 蓋の隙間から湯気が上がる。

 千紘さんはさ、と彼が言った。


「もし僕が、外に連れ出しほしいって言ったらどうするの?」


 え、と声が漏れた。そうか、そういう意味に取られてしまうのか──リタの方を見やると、彼は目を細めて「冗談だよ」と言った。


「あなたの答えを聞いてみたいと思っただけ」


 細い指先がテーブルの淵をなぞっていく。


「自由であることが幸福だなんて思っちゃいないよ。飼い猫が野生じゃ生きていけないのと同じだ。ありがた迷惑だし、傲慢だよ」

「でもお前は猫じゃないだろ」

「似たようなものだよ。僕はろくに学校にも行っていないんだよ? そのくせ身体も弱いときた。とても一人では生きていけない」

「やりようによっちゃ、いくらでも」

「それに僕はこの生活に満足しているんだ。やりがいも感じている。みんな僕を頼ってくれるし、感謝してくれるし、好いてくれる。ちゃんと社会的役割を果たしているし、それなりに恵まれていると思うけどな」


 アラーム音が響き渡った。無機質な音が規則的に繰り返される。ストップを押したリタは幼い子どものように笑った。


「すごく美味しそう」


 話はそれで終わりだ。彼はやはり丁寧に両手を合わせた。







 見つからないうちに戻るよ、とリタは後片付けが終わってすぐ自室に帰っていった。俺は少しぼうっとしてから部屋を出る。だが廊下の向こうだけ明かりがついているのが見えて足を止めた。


 廊下は人感センサーで明かりがつく。誰かが近づいてきている、見回りの警備員だろうか——その場で立ち止まっていると、人影がずいぶんと小柄であることに気が付いた。


「……もしかして松島さん?」


 それは懐中電灯を持った中年の女だった。


 俺はその女を一方的に知っていた。

 ネット記事で、ホームページで、この建物の中で、食い入るように何度も見た顔だった。


「代永、町子?」

「はい、こんばんは」


 彼女は両手を前で揃えて頭を下げた。少しふっくらとした頬、目元の小じわ、細い眉、どこにでもいそうな五十代くらいの女で——どういうわけか吸いこまれそうな目をしている女でもあった。


 やっぱり松島さんよね、今日は宿泊だって聞いていたの、と彼女は続けた。


「俺……俺のこと、知っているんですか」

「二、三回来てくださった方のことなら大体知っていますよ。受付名簿だって毎日目を通しているんですから」


 口の端から力が抜ける。ああ、なるほど、と俺は渇いた声で返した。片手をポケットに突っ込んで、中をまさぐる。ひやりと冷たいそれを指先でなぞる。


 礼儀のなっていない態度に気を悪くするでもなく、町子は「もし私の勘違いだったら悪いのだけど」と前置きをして、言った。


「あなたのお母様って、松島香さんだったりしないかしら」


 微笑みを浮かべながら、ほんのわずかに首を傾ける。そのしぐさはリタそっくりで——たぶんリタが町子に似ているのだろう。


「なんで」


 思考するよりも早く、反射で返していた。


「なんで、知って」


 彼女はああ、と声をあげて手を合わせた。


「名簿でお名前を見たとき、もしかしてと思ったの! 香さん、いつもあなたの話をしていたから、千紘という名前にすごく覚えがあって。香さんが最後にここへ来たのは十年も前になるかしら──こんなに立派になって」


 彼女が一歩近づいてくる。右手が伸びてきて、俺の肩に触れた。厚みがあって、丸っこくて、温かい手のひらだった。


「香さんはね、ずっとあなたのことを気にかけていたのよ。お腹を空かせていないか、寂しい思いをさせていないか、学校では上手くやれているか、塾に行かせた方がいいのか、大学に行きたいと言ったらどうしよう、将来はどんな仕事をしたいのか──本当に、あなたのことばかり!」


 こんなに大きくなった姿が見られて嬉しい、と町子は笑った。


「香さんは元気にされている?」

「……はい」

「お母様はとても素敵な人よ。どうかあなたも、お母様のように優しい方でいらしてね」


 右ポケットに入っている折り畳みナイフがずしりと重い。返事はできなかった。胃の中をぐちゃぐちゃに混ぜ返されたような、酷い吐き気がしていた。






 薄暗い個室に、嗚咽する声が響き渡る。


 冷たい便器を両手で掴みながら、何度も何度も、胃の中の物を吐き出す。喉の奥がヒリヒリと痛んで、ツンとした臭いが鼻について、両目には涙がにじんでいた。


 最低な気分だ。殺してやるという気持ちと、いっそ殺してくれという気持ちがドロドロに溶けて混じりあう。もう何も考えられないでいられれば楽なのになあ、と嘆いていた。






 ショーウィンドウに並んだ、いくつものホールケーキ。赤と緑で飾り付けされた店内。スピーカーから流れるクリスマスソング。真っ赤なお鼻のトナカイさんは──。


「ね、ね、お母さんはどれがいい?」


 俺は振り返った。真後ろに立っている母さんは「うーん、そうだな」と髪を耳にかけた。


「千尋の好きなものが、お母さんの好きなものだよ」


 俺は少し考えて、フルーツケーキを指さした。本当はそれが一番好きだと知っていた。母さんは昔から、黄色のキウィが大好きだ。「千紘は優しい子だねえ」と、頭をわしゃわしゃと撫でられる。気恥ずかしくなって身をよじると、母さんが口を開けて笑っていた。


「こんなに優しい子のお母さんになれて、嬉しいな」


 ちゃぶ台に乗せられたチョコケーキ。ライターでロウソク一本ずつに火を灯していく。


「ふうーってして、火を消して。一回でできるかなあ?」


 携帯カメラのレンズが向けられる。暗い部屋で、ロウソクの火がゆらゆらと隙間風に揺れていた。俺は大きく息を吸い込んだ。あの日のことを、今でもときどき夢に見る。







 アラームも鳴っていないのに目が開いてしまって、寝返りを打った。見覚えのない景色に違和感を覚えたけれど、そうだ、施設の宿泊室に泊まったのだと思い出す。


 眠気がほとんどなかったから仕方なく起き上がって、カーテンの端を掴んで引っ張った。空の端だけはオレンジ色だが、まだ濃紺を残していた。


「煙草……」


 ベッドサイドに置いてある箱に手を伸ばした。同時に、宿泊室は禁煙であることも思い出して、長く息を吐きだした。喫煙室は一階にしかない。スウェットのまま廊下に出ると、夜中のうちに一気に冷え込んだのか、腕をさすりたくなるほど肌寒かった。


 艶々と光る廊下がずっと向こうまで続いていた。スニーカーが音を立てる。踊り場で身体を転回させる。冷たい手すりを掴んで下まで降りていく。


 裏口の扉は開いていた。


 立ち止まると、前髪がかすかに揺れた。十センチの隙間から冷たい風が吹きこんでいた。


 誘われるように近づく。扉の取手をひねりながら、体重をかけて押しこむと、蝶番のきしむ音を立てながら重い扉が開かれていった。


 薄雲がかかっている朝だったが、裏庭は淡く照らされていた。背の低い草は朝露に濡れていて、ときどき粒のように光り輝く。一歩踏み出した足音は、湿った土に吸いこまれてしまった。


 視線をずっと遠くへやる。

 リタが壁を見上げるようにして立っていた。


 寝巻にカーディガンを羽織っているだけの彼は、こちらに背を向けたまま、壁の上を歩いていく黒猫をじっと見つめている。伸びた襟足が風になびいて首筋が晒された。掴んだだけで折れてしまいそうなほど細い首だった。


「日の出でも待っているのか」


 遠くから声をかけると、彼がおもむろに振り返った。にこりと微笑んで片手を振る。俺がここにいることに気付いていたのか、いなかったのか、よく分からない反応だ。ずり落ちた袖をまくろうとする彼に歩み寄った。


「千紘さんって早起きなんだね」

「俺より早く起きている奴に言われてもな」

「今日はたまたまだよ。眠りが浅くて、横になっているのにも疲れてしまったんだ」


 喋るたびに白い息が出た。日中はまだ温かいとはいえ、夜明け前の空気は凍てついている。特にここ数日は底冷えが続いていた。


「ほら見て、明けの明星」


 リタは空を指さした。ひときわ輝く星が、彩度の低い空に浮かんでいた。俺は適当な返事をして、横目でリタを見やる。本当に細い首だ。ポケットの中のそれがなくたって、簡単に息の根を止めてしまえそうなほど。


 なあ、と言いかけて、やめる。代わりに両手をゆるく握りこむ。


 俺の視線に気が付いたのか、リタがゆっくりとこちらを見上げてきた。視線が交わる。あの母親と似た、他人の善意も悪意もすべて飲みこんでしまうような黒い目だ。


 俺が口を開く前に、彼が目尻を下げた。


「何か、僕に言ってほしいことがあるの?」


 喉の調子が悪いのか、掠れて細い声だった。浅く息を吸う音が聞こえる。


「それとも僕にしてほしいこと? 僕にしたいこと? それで苦しくなくなるのかな」


 いいよ、あなたなら。なんでも。


「なんだって」


 リタは軽く両手を広げて、こちらを向き直った。俺が固まっていると、小さく首を傾げられる。一体どこまで見透かされているのだろう。もしかして最初から、最後まで?


 今さら取り繕うことはできなかった。


 口を閉ざしたまま考える。

 考えて、考えて、考えた。


 例えば今、俺がリタを殺したとする。首をへし折って、腹を刺して。そうしたら代永町子はどんな顔をするだろう。病弱な息子を檻に閉じこめたがるような女だ、狼狽するだろうか、それとも怒り狂うだろうか。俺が母さんを失ったときと同じだけ傷ついて、絶望してくれるだろうか。


 でももし、リタと同じ顔で許されてしまったら。受け入れられて、慰められたら──今度こそ、その惨めさに耐えられないかもしれない。


 俺はただ、憎んで、憎まれたいだけなのに。とても簡単なことのはずなのに。


「なんで、おまえはそうなんだ」

「……僕の名前はリタというんだ」


 血の気を感じない白い肌。紫がかった唇。ひゅうひゅうと空気が通るようなか細い音。リタは息苦しそうに片目を細めていた。


 何か様子がおかしい、そういえばずっと声が掠れているような──ようやく気が付くが、リタは黙らなかった。


「カタカナでね、でももし漢字をあてるとしたら、こうじゃないかな」


 彼はそばに落ちていた木の枝を拾って、土を削り、震える手でその二文字を書いた。


 利他。

 

 彼の手から木の枝が零れ落ちた。真っ白な指先で胸元の布地を引っ張る。リタは冷たい空気を短く吸いこんだ。けれど血の気は引くばかりだった。


 立つこともままならず、力なくうずくまって膝をついたリタは、それでも俺を見上げて青い顔で笑っていた。


「あなたの役に立てる僕でいさせてよ……」


 彼は咳をした。空気も通らないような細い喉で咳をして、何度も咳いて、土の上に崩れ落ちた。


 あ、と気が付いたときには手を伸ばしていた。どうしてそうしようと思ったのだろう。けれど瞬きした次の瞬間にはもう、自分の右手はポケットから出ていた。


 彼の名前を呼んだ。


 背中に触れる。服越しでも背骨の感触が分かるほど、肉の少ない身体だった。リタは背中を丸めて必死に息を吸いこもうとしている。だがあまりにも浅い。痰も絡み始めたのか、咳はひどくなる一方だ。


 どうしていいのか分からなくて、俺は背中をさすりながら声を張り上げていた。誰か、と呼びかける声が朝の静寂を破る。


 リタは唇をぱくぱくと動かした。唾液がにじんでいる口も、縮まった喉も、骨ばった背中も、皮膚をひっかく指先も、そのすべてが息をしたいと必死に叫んでいるように見えた。


 そこには諦観なんて一つもなかった。

 ただ生にしがみつこうとする人間がいた。







 消毒液のにおいが鼻につく。吸い飲みを咥えたリタは、ゆっくりと水を飲んだ。二目盛り分の水分を取った彼は、小さく息を吐いた。


「そんなに見られたら気恥ずかしいな」


 冗談めかした口調だったけれど、いつものように笑っているわけではなかった。むしろ俺から視線を外すように、手元ばかりを見つめている。その爪は血色を取り戻していて、薄く色づいていた。


「喘息か?」


 尋ねればリタは無言のまま頷いた。先を促すと、ややあって口を開いた。


「もともと小児喘息だったんだ。年に一回くらいは酷い発作を起こしていてね、大人になっても全然よくならなかったよ」

「今日のも発作なのか」

「急に気温が下がったから、喉の調子が悪くて。季節の変わり目は発作が出やすいんだ」


 くぐもったアラーム音が鳴った。彼は身を乗り出し、サイドテーブルに手を伸ばした。ころんとしたプラスティック製のそれは、吸引薬と言うらしい。あのときもカーディガンのポケットに入れていたようだが、俺は知らなかったし、リタは声を出せなかった。


 発作が出やすいと分かっていたのに、どうして夜明け前なんかに──非難する目を向けると、リタはシーツをゆるく握りしめた。


「外ってどんなだろうな、と思ったんだ」


 告白するように呟いた。


「千紘さんがあんなことを言うから」

「……人のせいかよ」

「おかしいよね、僕が愚かだからこんなことになっているのに」


 でも千紘さんのせいだよ、と彼は言った。


 彼は軽くむせて口元を覆う。そのまま俯いて、しばらく咳をしていた。また発作が出始めたのかと思ったが、そのくぐもった声も、震える呼吸も、咳によるものではないと気が付いたのは、シーツに深い皺が寄っていたからだ。


 リタは背をまるめて顔をうずめた。


「どう責任取ってくれるの」


 俺は両手を膝に置いたまま、静かに指先を組んだ。ポケットに手を入れることは簡単だ。それでも今はただ、彼が肩を震わせているのを黙って見ていたい気分だった。いい気持ちというより、安心して、満たされる。


 重い瞼を閉じると、今になって眠気に襲われた。俺はだんだんと遠くなっていく声を聞きながら、夢うつつになっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

徒花を手折る 月花 @yuzuki_flower

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ