果てなきハテナの交竜奇譚 〜テーリの谺〜

塩谷・K・鮎乃

第〇一章 素っ裸の出会い

第1話 水底(みなそこ)の目覚め

 心臓の鼓動を一際大きく感じ、朦朧とした意識がわずかに覚める。少年のあどけなさを残すその青年は、静かに薄目を開いた。仄暗く揺らいで見える水底には、一面に泥とみどりに光る小石が広がっている。皮膚にまとわりついた穢れを一枚一枚剥がすように、緩やかで冷たい流れが肌を刺激する。青年はうつ伏せになっていた身体をゆるりと半転させると、水面みなもに視線を移した。曙が瞳を焼くかのように、視界が一瞬真っ白になる。青年はそんなに深くもないなと、朧げな意識で自分の漂う深さを確かめていた。

 静かな渓流の澱みの中。川底近くに青年は身を委ねていた。体側に沿ってなびく両腕を、大きく弧を描くように広げてみる。ゆっくり、なるべくゆっくりと。合わせて両足も大きく広げる。こちらもゆっくり、できる限りゆっくりと。その気持ちの良さに、目覚めつつあった意識がまた遠のいていく。どれくらいの時間潜っていたのか定かではないが、逃れ難い睡魔にも似た安寧に、青年は心を奪われる。耳に籠る泡を纏った水音。揺れる銀の腹を見せる川魚は、幻想的だった。このまま息が続かずとも、この川の流れの一部となることに何の不満があるのだろうか。青年はそう考えると目の前に迫る「死」を容易く受け入れられる気がした。何事もなかったように、青年は命の灯火が消えるのを静かに待とうと目を瞑る。意識はますます遠のいていった。


 テー…。テー…。死な…ないで…。


 自分の名前を呼ぶ声に俄かに覚醒する。青年の名前はテーリといった。語尾までは聞き取れなかったが、確かに自分の名前を呼ぶ声がこだました。途端に息苦しさと「死」の恐怖がテーリを襲う。心地良かった水音は、いまや命を呑み込もうと口を開く奈落へと向かう轟音に変わった。

 はっきりとした意識の中で、死にたくないと強く願ったテーリは、力を込めて大きく水をかいた。水面の白い光が急激に眼前に迫る。思った通りさして深い川底ではなく、ほんの三かきで水面から頭を出すことができた。自分が本来住む世界、空気の満ちた水上に顔を出したテーリは、肺一杯に命の素を流し込む。空気と共におりが身体中に満ちていくヒリヒリとした感覚。たちまちテーリの「死」への欲求は消え失せた。短く刈り上げた襟足。少し長めに揃えた前髪。ほのかな金を差した黒髪は艶やかで、水を振り払おうと首を振る様からは、生命力に満ちた瑞々しさがほとばしっている。黒い大きな瞳を輝かせ、大きく口を開けたテーリは、大きめな前歯を剥き出しにして笑った、腹の底から大声で。

 ふとテーリは我に返った。

「ここは…どこだ?僕は…何をしているんだ?」

周りの様子を確かめようと両手で顔の水を拭った。ぼやけていた視界が晴れると、テーリは自分を覗く真っ赤な双眸そうぼうと目が合った。なんの感情も湧かず、テーリはただその二つの真紅の輝きを見つめるだけであった。その赤い瞳の持ち主は、川べりから首を伸ばし、テーリを睨みつける四つ脚の魔獣であった。せっかく「生」にしがみついたのに、また「死」に引き戻されるのか。目前に迫った「死」の恐怖は、たちまちテーリの感情を揺さぶった。

 テーリが水中に頭を引っ込めると同時に、魔獣の牙が空を切った。すんでのところでテーリは命拾いをした。テーリは無我夢中で対岸に向かって泳ぎ出した。後ろからは、水に何かが飛び込む鈍く響く音がした。同じような振動が数回、テーリを襲った。魔獣が川に飛び込んだのだ。魔獣は群れで狩りをする。これはとんでもないことになった、なんでこんなことになったんだ。テーリは急に痛み出した頭を抱えることもできず、ひたすらに水をかくのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2026年1月2日 08:00
2026年1月3日 08:00
2026年1月5日 08:00

果てなきハテナの交竜奇譚 〜テーリの谺〜 塩谷・K・鮎乃 @Ayunoshioyaking

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画