お言わず様の山

斑世

お言わず様の山

 若い男が二人、深夜の田舎道を軽バンでノロノロと進んでいく。

 理由は簡単だ。

 暇なので、その場のノリで噂の山に行ってみることになったのだ。


 『お言わず様の山』と呼ばれている。

 その山のなかでしゃべってはいけない。

 その山で起こったことは、別の場所で言ってはいけない。

 言ってはいけない山。

 そのような伝承は、日本だけでなく世界各地に存在している。


 山の入り口にある、雑草が伸び放題の駐車場に車を止めた。

 夜の山に向かって歩き出す二人。


「いいかタダシ。これから行く山はな、怪異のウワサがある」

「山のなかでは“山の言葉”を使うんだぞ」

 車を運転する男は、相方に向けてやけに真面目な声で言った。

「海では漁師の言葉、山では猟師の言葉」

「山とか海とか、そういう場所は“異界”だからな」


 タダシ、と呼ばれた男は怪訝な顔で聞き直す。

「急に民俗学者みたいなこと言い出すなよ、リョウ」


 車を運転していた男=リョウは、あえて真面目な表情を崩さずに続けた。

「噂をすれば影、というだろ。山のなかで熊のことを“熊”と呼んではいけない」

「熊のことは、ヤマノヒトとかって言うんだよ」

「言葉にすると、本当に現れるから。……と、信じられているんだ」


「熊って言うと、熊が出るんだよな? 言っちまってるじゃないか」


「まだ山じゃないからいいんだよ」

「それにな。これから行くのは、現地でもあんまり行く人がいない、お言わず様の山だ」

 リョウは、いたずらっぽく付け加えた。

「その山に入った者は二度と帰ってこないか……または無事に帰ってきても、まるで山に魅入られたように何度も足を運んで……で、結局二度と帰ってこないか、だ」


「結局帰ってこれないんじゃねーか!」



 そんな調子で進んでいくと、いよいよ舗装路がなくなっていく。


 タダシが口を開いた。

「なぁ、ネットで見たんだけどさ」

「山の中で、おーいおーいって声が聞こえたらすぐに逃げろ、って話。知ってる?」


 リョウが答える。

「知ってる知ってる。その声は子熊が親熊を呼ぶ声で、近くに親熊がいるから逃げろ、ってオチだろ」

「これから山に入るんだからさ、マジでやめてくれよ」

「オレさ、心霊系は平気だけど、そういう野生動物とかは本当に怖いんだから」


 タダシが茶化す。

「へぇ~、俺は生き物とかは平気だなぁ~。心霊系も別にどうでもいい」

「だけど正体不明のやつとか。最近の都市伝説とか、不気味なのはコワい!」


 ついに砂利道が途切れ、完全に「山の領域」に入る。


 しばらく歩いていると、藪の奥から声がした。


<オーイ、オーイ>


 中年男性の……有り体に言うと、おじさんの声が聞こえている。


 やけに湿った響きで、藪を切り裂くように伝わってくる。


 当然、二人ともギョッとした。


「逃げるぞ」

 青ざめたリョウが即座に言った。

「急いで動くなよ。近くにいたら、驚かせることになる。ゆっくり動くんだ」


<オーイ、オーイ>


 また聞こえた。

 さっきより近い。


 早歩きで来た道を戻る。


 タダシは、つい、口を滑らせた。

「……これさ、子熊、だよな。でも、もし本当に別の怪異だったら、マジで怖いよな」


 その瞬間、リョウの顔色が変わった。


「おい、言ったな」


「え?」


「ここは“お言わず様”の山だぞ」



「オーイ!オーイ!」


 藪から響いてくる声色が、明らかに変わった。


 二人の背後の地面が、もったりとうごめく。

 何か、溶けたタールのような……形がある黒い何かが立ち上がる。

 顔があるのかないのか、腕の本数も多いような、それとも脚なのか、それすらも分からない曖昧な輪郭。


 ソレが何かは分からないが、明確に断言できる。

 この世の理から外れた異形だ。


「ほら見ろ! もういい、全力で逃げるぞタダシ!」

「ごめんリョウ!」


 どんなに走っても、空気がまとわりつくようで、なぜかうまく走れない。

 ゆっくりと動いているはずの異形の怪異から、まったく逃げきれない。



 意を決したリョウが、まるで悟ったかのように、あるいはあきらめたかのように話し始める。


「なぁタダシ、熊のジョークを知ってるか?」


「今する話かよ!」


「今しかないんだよ!」

「こんなジョークだ。森で、二人の男が熊に出会う」

「一人の男が靴紐をしっかり締めた」

「もう一人の男が言う。モタモタしてると、逃げ切れないぞ!と」

「靴紐を結び直した男は言う。熊から逃げ切らなくてもいい。お前より速く走れればいい」

「そんなジョークだ」


 タダシは息を切らしながら、驚愕しつつ答える。

「友達が熊に襲われているうちに逃げ切る、っていうブラックジョークだよな」

「たしかに今の状況に似てるけどさ!」

「置いてかないでくれよ!」


 リョウは走りながら、タダシの問いかけには答えることなく叫んだ。

「そうだ、熊熊熊、熊だよ」

「熊が出たぞ!」

「とびきり大きい、雄の熊だ!」

「腹をすかせている! なんでも襲う、すごく凶暴なバカデカい雄の熊!!!!」


 その瞬間、空気が、変わった。

 森がざわめき、枝が折れる音がする。



<バフッ バフッ>


 ここは、お言わず様の山。

 言ったことが現実になる。


<ブフォーーーーッ>


 出てきた。

 説明不要の、バカデカい熊が。


 リョウは振り返り、怪異を指さした。

「“二人の男と熊”のジョークに、だ!」


 怪異は意味が分からないまま、熊の気配に反応した。

 そして走った。

 男二人も走った。

 三者は一列になって、必死で山を駆け下りた。


 異形の怪異に目があるのかは分からないが、明らかに恐れおののいて、我先にと逃げ出そうとしている。


 熊の目には、矮小な人間二人と比べて、怪異のほうが大きく太っていて食べ応えがありそうに見えている。


 人間の全力疾走をはるかに上回る、時速40kmのスピードで迫りくる飢えた殺意の巨塊。


 肉屋で肉を吊るす鉤のような熊の爪が。

 あぁ、もうすぐ、怪異のやたらと多い脚の一本に届く……。



「あとちょっとで山を抜ける! 早く車に入らないと! カギ、用意しといてくれ!」

「俺たちの車、だいじょぶかな!? あの熊なら、壊せちゃったりするんじゃない?」

「ああ~こんなことなら、もっとゴツくて硬くておっきい車で来れば良かった」

 泣きそうになりながら、いや、ほとんど泣きながらタダシが叫ぶ。


 それを聞いて、リョウは答えた。

「あぁ、ナイスアイディアだタダシ! 次は軽バンじゃなくて、トラックで来よう」

「でもって、とびっきりの美女と札束の話を、大声でしてやろうぜ!」

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お言わず様の山 斑世 @patch_world

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