恋と呼ぶには贅沢な
くろかわしんや
私の三日月
「お嬢様!」
嫌という程聞きなれた声が後ろから聞こえてくる。
あと少し、あと一歩だったのに。
「見つかっちゃった」
そう言って振り向くと、焦った顔をした三日月がこちらに手を伸ばしているのが見えた。
真夜中の人ひとりいない町の外れ。いつも綺麗に整えている三日月の燕尾服の皺が、星に照らされて見える。「服装の乱れは心の乱れ」そう言って、いつも口うるさく私の制服の着方にまで指摘してくる男が、今は足先に土が付くことさえ厭わないで、縋り付くように私を抱きしめる。
ドッドッドッと三日月の心臓が跳ねている。走ってきたからというだけではなさそうだ。
「……お嬢様、ここから離れましょう」
現に三日月は私の背後を見て、すぐにでもこの場所から離したいようだ。身体を離してこちらの顔を覗き込む三日月に「どうして?」と私が言う。
「……ここがどこだか分かっているのですか」
「分かっているから来たのよ」
強い風が吹き潮風が香り、背後に広がる海が足元の岩壁に波打つ。
私は今日この場所で、この命を終わらせに来た。
三日月に呼び止められなければ、足を踏み出して崖から海へ落ちるつもりだった。
誰にも伝えず屋敷からひっそりと姿を消したはずだったのに、どうしてかこの三日月という男は私の居場所を見つけたらしい。
「どうしてこの場所がわかったの?」
「……私がお嬢様のことで分からないことがあるとお思いですか?」
「……いいえ」
私の専属の執事。私の好きなもの苦手なもの、学校での過ごし方、習い事の成績なんでも知ってる三日月。当然、私の隠し事だってなんだって昔から知ってた。
もしかしたら、と少し期待する気持ちに気付かないふりをしていた。あなたならきっと。そう思ってこの場所に来た。間に合わなかったなら、私の勝ち。間に合ったなら。
「私の負けね。大人しく帰るわ」
そう言って笑いかければ、泣きそうな顔をしてこちらを見下ろす三日月がいた。
「なんて顔をしてるのよ」
三日月の顔に手を伸ばして頬に触れる。「そんなに怖かったの?もうしないわ」そう言うと手を取られる。
「お嬢様。私はお嬢様を迎えに来たのではございません」
「……え?」
きっと三日月はお父様やお母様に言われてここに来たのだと思っていた。
結婚式を明日に控えた私を探すために。
昔から決められた結婚だった。私が高校を卒業したら式をあげる約束で。今日がその高校の卒業式だった。だから、明日は婚約者との華やかな結婚式の予定だった。
お父様が選んでくれた人だから、家柄も良くて人当たりも良くて、私のことを愛してくれている人。私がこれから愛していく人。
今までのデートで退屈になることはなくて、たまにのプレゼントだってセンスの良いものばかりだった。
けれど、布団に入ってもう眠るだけ、という時に、嫌だと思ってしまった。
嫌いじゃない。好ましいとも思う。ただ、あなたを忘れられなかった。
三日月。あなたを。
幼少期いつも一緒にいた。中学生になって三日月は執事になったけど、それでも一緒にいた。高校生になっても当たり前に一緒にいた。なのに、「結婚したらその男は置いていくだろう」そう言われたの。「僕の家にも優秀な執事やメイドたちがいるから、執事で男の彼はいらないだろう」そう言ったあの人に、私はなんて返したのかしら。気が付いたら自室にいて何を言ってその場から離れたのか思い出せなかった。
その日からずっと、ずっと、心のどこかで引っかかっていたのね。三日月。私の初恋の人。あなたと離れるくらいなら、私死んでもいいわ。本気でそう思った。
だから。
「透花、あなたを攫いに来た」
私にとって都合のいい夢を見てるのだと思った。本当の私はベッドで眠っていて、着の身着のままで死のうとなんてしてなくて、穏やかに明日を迎えるのだと。
「……今、なんて」
「あなたを攫いに来た。その命捨てるくらいなら、どうか俺の手を取って」
はく、と口から息が漏れる。何かを言わなくちゃいけないのに、言葉にならない。
なんで、どうして、仕事は、家族はどうするの。そう言おうとして、三日月に口を塞がれた。
「あなたがいない人生なんて、俺はいらない。分かるでしょう?」
とてもよく分かる。だって、今まさに私はそれを実行しようとしていた。
三日月も同じ気持ちだった?だから、ここに来たの?
「お願い。俺と生きると言って」
「……私が、嫌と言うと思ったの?」
瞳に薄く涙の膜が張る。瞼に力を入れていないとすぐにでも雫が落ちてしまいそう。
三日月の左手を取って握りしめる。「もうお給料はあげられないわ」と言うと「もう何も知らないお嬢様でいさせてあげられない」と返ってくる。
「家を出たときから覚悟していたわ」
「俺もそうです。あなただけがいればそれでいい」
私の三日月。今までずっと一緒にいた。
「これからもずっと一緒にいてくれる?」
「あなたが嫌だと言ってもずっと」
「……馬鹿ね」
そんなこと言うはずないのに。
私と三日月はもう二度と離さないかのように手を握りしめて足を踏み出した。
恋と呼ぶには贅沢な くろかわしんや @kurokawa08
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