シュレディンガーの卵
矢口愛留
シュレディンガーの卵
ここに一つの卵がある。
場所は王宮の議場。現在、軍議の最中だ。
厳かな議場の中央に据えられた、樫の大机。
その上には地図が広げられているでもなく、兵士を模した人形が置かれているわけでもなく、ただ一つ、巨大な卵が置かれていた。
屈強な騎士団長も、柔和な神官長も、知的な魔導師団長も、豪奢な服に身を包んだ国王も、宰相も大臣たちもみな、巨大な卵を見つめて難しい顔で唸っている。
この国の王子である僕も、例外ではない。
「さて。この卵、どうすべきじゃろうか」
国王が問う。
「即刻、破壊すべきだ!」
唾を飛ばしながら主張したのは、騎士団長だ。
「これは、魔王竜と聖王竜が戦い相打ちとなった、決戦跡地から発見された卵。魔王竜が周到に遺した、次なる魔王の
「いいえ、
柔らかな声色で言ったのは、神官長だった。
「この卵は、聖王竜様が遺された卵に違いありません。聖王様が遣わされた奇跡の卵を壊すなど、もってのほかです」
「……竜の鱗のように硬いこの殻、破壊するのは難しいのではないか? それに、そもそもこの卵は孵るのか?」
冷静な声で疑問を呈したのは、魔導師団長だった。
「どういう意味じゃ?」
「聖王竜と魔王竜の決戦跡地には膨大な魔力が渦巻いていたが、ここ王都に漂う魔力はごく微量だ。このような強力な魔法生物は、総じて、魔力の濃い場所でしか生まれないと私は認識している」
「なるほど。ならば、結論が出るまで王都に置いておけば――」
「陛下! 断じてそれはおやめください!」
魔導師団長の言葉に納得し、結論を先延ばしにしようとした国王を遮ったのは、神経質にヒゲを触っていた宰相だった。
「もしも何かのきっかけで魔力を浴びて、この卵が孵ってしまったら、王都に甚大な被害が出ます! 中身が魔王竜であっても聖王竜であっても、膨大な魔力量ですから、幼体とはいえ絶大な被害が出るでしょう!」
「ふむ……ならば、堅牢な建物に安置するのはどうじゃろう」
「竜の爪は、我が騎士団が誇る鋼鉄の鎧も、紙のように切り裂く凶器だ! どんな建物に閉じ込めようが、孵ってしまえば意味がないぞ!」
「では、卵の見つかった決戦跡地に戻すのはどうじゃ?」
「それこそ、あの地に漂う魔力を浴びて、卵は孵ることになるだろう。どちらが生まれるかも、いつ生まれるかも、私には予測できぬが」
「むむむ……」
国王は唸る。
もしも卵が孵ったとして、その中身が魔王竜だったら。
聖王竜が不在の今では奴を抑えることは困難だろう。魔王竜の遺していった魔物や魔族も、一時に比べれば数を減じたが、健在。人の世は混迷を極め、滅びの道を辿るだろう。
しかし、もしも卵の中身が聖王竜だったら。
これを破壊してしまった場合、人は自らの手でその聖なる加護を捨てることとなる。そうなれば、人は永遠に聖なる加護を失ってしまう。
時折生まれていた、聖王の加護を強く身に宿した勇者も、この先誕生しなくなるだろう。いまだ世に残っている魔族が力を蓄え、人に牙を剥いたその時、聖王竜も勇者も不在では厳しい戦いになるのは目に見えていた。
「難しい問題じゃな……」
結論を無闇に先延ばしにすることもできない。
今も宰相が神経質な視線を卵に送り、胃の辺りをさすっている。
騎士団長は筋肉をピクピクさせて苛ついているし、神官長は卵にひたすら祈りを捧げている。
魔導師団長は、よく回る頭と口でもっともらしいことを言って、巧みに責任を回避しているようにも思える。
国王は、ふう、と大きくため息をついた。
視線を彷徨わせてたどり着いた先は、僕の顔だ。
「……先ほどからずっと黙っておるが、息子よ、お主ならどうする?」
「そうですね……」
――開けてみるまで、生きてもいるし死んでもいる猫と同じだ。
量子力学的には正しくとも、事象としては正しくない。
「この卵は、魔王竜でもあり、聖王竜でもある、ということ。なら……」
これまでの意見をまとめると。
一、卵を破壊する。中身は聖王竜。人は今得ている聖なる恩恵を失い、世は荒れ、緩やかに滅亡する。
二、卵を孵す。中身は聖王竜。聖なる恩恵は強まり、人の世は永劫に救われる。
三、卵を破壊する。中身は魔王竜。聖なる恩恵はそのまま。人の世には平和がほぼ約束される。
四、卵を孵す。中身は魔王竜。聖なる恩恵に関係なく、人の世は魔王竜の手により即座に滅亡する。
卵を確実に破壊する方法があるかどうかは不明なため、魔力の薄い地で孵化を限りなく遅らせる『封印』として置き換えることもできる。
だが、結局それは問題の先送りにすぎない。いつまで先送りできるのかも不明だ。
魔族との雌雄を決する前に卵の封印が解け、それが魔王竜であったら、努力の甲斐なく人は滅亡。聖王竜であったら人は救われるが、結果的にそれまでの過程でより多くの犠牲を払うことになる。
「箱を開ければ、猫が生きているか死んでいるかはっきりする。卵を孵せば、中身が聖か魔かはっきりする。けれど、物事の本質は必ずしも白と黒の二面しかないとは限らない、僕はそう思うのです」
「息子よ、どういう意味じゃ?」
「今回の場合、前提条件は果たして正しいのか、ということです。箱の毒が即効性でないと最初に仮定してしまえば、全てが覆る」
箱を開けるタイミングによっては、猫は仮死状態で、解毒剤を打てば回復するかもしれない。
あるいは、元気に見えても毒が後から回るのかもしれない。
もちろん、無事に生きているかもしれないし、もう死んでいるかもしれない。
物事は、多面的なのだ。
「卵の中身は、最初から自我のある存在ではないかもしれない。条件次第で聖にも魔にもなり得る、ただの竜かもしれませんよ。――父上、皆様、この件、僕に任せてはいただけませんか?」
「任せろと言っても、息子よ。これは人の世の存亡に関わることなのだぞ?」
「だからこそ、間違えたくないのです、誰もね。ならば、僕一人だけが背負えばいい。これで世が滅んだら、僕一人を恨めばいいんです。ふふ、どうです、楽でしょう?」
「し、しかし――」
「大丈夫。不思議と、自信があるんです」
*
そうして僕が選んだのは、決戦の跡地で卵を見守り、片時も離れず、孵すことだった。
結局、僕は世界の存亡を賭けた戦いに勝った。
竜は、卵の時からずっと、聖でもあり魔でもあったのだ。
卵から生まれた竜と、卵が孵る前からずっとそばで見守っていた僕の間には、強い絆が生まれた。
聖王竜でもあり魔王竜でもある、
僕は王竜の背に乗ることを許され、世界で初めての竜騎士と呼ばれることになった。
王竜は、僕以外の人間に対しては傲岸不遜だが、危害を加えることはしない。僕がそれを嫌がるからだ。
同時に、王竜は、無闇に魔族を滅ぼすこともしない。僕は王竜の嫌がることを命令することはできないし、したくないのだ。
王竜と共に世界を駆け巡ったことで、人と魔の争いも落ち着いた。
それぞれの縄張りを区切って、世界は人領と魔領に分かれたのである。
領境では小競り合いが起きることもあるが、王竜がひと声咆吼すれば、人も魔も戦意を喪失した。
僕には、新しい称号がひとつ増えた。英雄、という称号だ。
けれど、僕には正直、似合わないと思う。
英雄なんて称号よりも、竜の友とか、竜の相棒とか、そういう呼称の方がよっぽどいい。
聖でもあり魔でもある王竜はこれから、聖でもあり魔でもある、ただの竜の子孫を増やしていくだろう。
そうして、人の領土にも、魔の領土にも、竜が心を通わせた竜騎士が生まれていくだろう。
卵は、孵った。
それが聖なのか魔なのかは、孵った瞬間に決まるのではなく、絆を結んだ者が決めればいいのである。
〈了〉
シュレディンガーの卵 矢口愛留 @ido_yaguchi
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