神は沈黙し、人は裁いた ――灰色の信仰

@Kazuking55

1.違和感 ――それは、まだ名前を持たなかった

灰色の朝だった。

夜明けの光は街を照らすというより、薄く塗りつぶしているように見えた。


指揮官はいつもの時間に目を覚まし、カーテンを少しだけ開けた。雲が低い。低すぎる、と思った。

だがそれ以上考えることもなく、彼は背広に袖を通し、キッチンで湯を沸かした。


妻はすでに起きていた。

食卓に並んだパンとスープは、ここ数年ほとんど変わらない朝の風景だった。


「今日も早いの?」


「災害対策会議がある。形式的なものだろうけどな」


彼女は頷き、窓の外を一度だけ見た。


「変な空ね」


指揮官も視線を向けた。

雲は鉛色で、重なり合いながら妙な凹凸を作っている。まるで、巨大な何かが空の裏側から押し当てているようだった。


「そのうち雨だろう」


そう言って、彼はコーヒーを口に運んだ。

違和感はあった。だが、違和感というものはいつも、言葉にできないうちは無視できてしまう。


息子はいつもと変わらずタブレットで歴史や仮説記事を読み漁っている。


「昔もさ、すごい力を持った人たちがいてさ」


息子は画面を見せた。古代文明と、焼け落ちた都市の想像図。

焼け落ちた都市、高熱で歪んだ石。


「神話って、負けた側の報告書かもしれないんだって」


出勤途中、街はいつも通り動いていた。

通学する子ども、工事現場の音、信号待ちの人波。

誰もが空を見上げはしたが、立ち止まる者はいなかった。


防災庁舎に着くと、情報室ではすでにモニターが点灯していた。

地震計、気象レーダー、火山観測網――数字は正常値の範囲内を示している。


「港湾部で小規模な揺れがありました」


部下の報告は落ち着いていた。

震度は低い。被害もほぼなし。どこにでもある出来事だ。


だが指揮官は、別のモニターに目を留めた。

海面の観測データが、わずかに乱れている。


「潮汐の誤差か?」


「調整中です。ただ……」


部下は言葉を切り、画面を切り替えた。

そこには一般市民から送られてきた映像が映し出される。


――港の水面に、黒い影が揺れている。

魚影にしては大きすぎ、雲の反射にしては動きが不自然だった。


「合成やフェイクでは?」


「解析班は否定的です」


指揮官は黙って画面を見続けた。

説明がつかないものは、いつだって「誤差」と呼ばれる。

だが誤差が重なり始めたとき、それはもはや無視できなくなる。


昼過ぎ、警報が鳴った。

港町を震源とする地震。今度は揺れが明確だった。


通信が一時的に混線し、現地の映像が途切れ途切れに入る。

瓦礫、煙、人々の叫び声。

だが致命的な被害には至っていない――少なくとも、この時点では。


その直後だった。

気象班から緊急連絡が入った。


「上空の雲……形状が、通常の対流モデルに合いません」


指揮官は大型スクリーンを見上げた。

雲は集まり、歪み、輪郭を持ち始めている。


誰かが、冗談めかして呟いた。


「……巨人みたいだな」


笑いは起きなかった。

誰もが、同じものを見ていたからだ。


夕方、世界中のニュースが同時に騒ぎ始めた。

異常気象、地震、火山活動の同時多発。

SNSには無数の目撃談が溢れ出す。


「空に、鳥のような炎を見た」

「海に、影がいる」

「何かが、こちらを見ている気がした」


だが、それらの証言は、決して一致しなかった。

同じ時刻、同じ空を見上げていたはずの人々が、

まったく異なるものを語っている。


ある者は「翼」を見たと言い、

ある者は「巨大な人影」を見たと言い、

またある者は、ただ理由のない恐怖だけを覚えたと書き込んだ。


色も、形も、大きさも、共通点がない。

ただ一つ共通していたのは、

それを見た瞬間、自分が見られていると感じた、という感覚だけだった。


指揮官は椅子に深く腰を下ろし、手を組んだ。

偶然ではない。

そう結論づけるには、まだ早い。だが――。


胸の奥で、朝から消えなかった違和感が、はっきりとした形を取り始める。


「……何かの予兆なのか」


誰に向けた言葉でもなかった。

ただ、人の理解が追いつかない何かが、世界に触れ始めた。

それだけは、確信できた。

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