天ぷら翁
@sukitaro
男娼
深い深い海の底。
そこには、自らの存在を偽り続けて生きるタコがいた。
彼は、周囲の魚たちのフォルムの美しさや、迷いのない泳ぎに強い劣等感を抱いていた。
絡み合う八本の足、自在に色を変える肌。
すべてを醜いと思い込み、彼は常に体を縮こませ、魚の群れに紛れるようにして生きていた。
タコは擬態の天才だった。誰にも本心を打ち明けず、姿を偽り続けた。
その歪な変装を見抜いたのは、一匹のエビだけだった。
「多胡くん。
僕は君のやっていることを止めたりはしない。
でも、僕は知っているからね。
君が誰よりも思慮深く、繊細な心を持っていることを」
タコは驚いて漏斗から海水を吐き出した。
「……こんな、化け物のような姿なのにか?」
「そうだね。君はまるでおとぎ話に出てくる力強い悪魔だ。
それでいて、誰もが振り返る流線形のナイスバディ。
でも、多胡くんは多胡くん。
姿なんて、ただの器だよ。
僕にとってはかけがえのない友なんだ」
エビのその言葉は、冷たい深海で孤独に凍えていたタコの心に、小さな、けれど消えない灯をともした。
江尾くんは、他の魚介類たちとも仲が良かった。
それでも構わなかった。
それ以上何も求めなかった。
しかし、時は変化を招いた。
エビは網に捕らえられ、地上へと引き揚げられた。
辿り着いたのは、街の片隅に佇む、古びた屋台。
店主の名はカラリ翁といった。
その瞳は、食材の命の輝きを見透かす不思議な色をしていた。
「……ほう、これはまた、稀に見る清らかな魂を宿しておるな」
翁の指先がエビを捉え、白濁とした衣のなかに沈める。沸き立つ油の中で、エビの 肉体は鮮やかなグルテンの鎧を纏った。
その「天ぷら」は、路地裏で飢えていた一人の浮浪者に与えられた。
彼がそれを口にした瞬間、奇跡、あるいは呪いが起きた。
エビの純粋すぎた思念が、生活に困窮していた浮浪者に辛うじて残る意識を飲み込んだ。
男は立ち上がり、己の手を見つめた。
「これは……僕の体なのか?
どうして海の冷たさが溢れてくるんだ?
俺は一体誰なんだ?」
彼は、人としての形を保ちながらも、心は揚げられたエビそのものである天ぷら浮浪者として、夜の街を彷徨い始めた。
カラリ翁は再び天ぷら浮浪者と相対した。
「まだ……温度が足らんかったか」
翁は、戸惑う天ぷら浮浪者を、再び巨大な油鍋へと放り込んだ。
灼熱の油が肉体と魂を苛み、衣は黒ずむ。
もはや食べ物としての魅力も、エビや人としての尊厳も失われた姿へと変貌した。
それが天ぷら天ぷら浮浪者の誕生だった。
あまりに不気味で、誰も彼に近づこうとも、ましては口にしようとも思わない。
「僕は、誰にも愛されない。食べられることさえ叶わない。
俺の人生はこんな結末のためだったのか……?」
彼は、冷たいアスファルトの上で、かつての友がいた深い海の静寂を想い、今は無き安寧を渇望し、咽び泣いた。
深海では、残されたタコが、大勢の魚たちに囲まれながらも、狂わんばかりの喪失感に苛まれていた。
あの日以来、海はただの水にすぎなくなった。
この世界に、何の意味があるというのか。
「どんな姿でもいい。もう一度君に会いたい」
満月の夜、彼はその身を波打ち際へと投げ出した。
死の恐怖は感じない。
彼は砂利にまみれ、八本の足を引きずる。
当てのない地磁気を頼りに、モノクロの街を這い進んだ。
彼が、最も醜く、そして最も気高く輝いた瞬間だった。
タコが屋台に辿り着いたとき、彼はもう事切れる寸前だった。
彼の長方形な目が、屋台の脇に打ち捨てられた天ぷら天ぷら浮浪者の魂の偏光を感じ取った。
彼は、天ぷら鍋の前で佇むカラリ翁を見た。
彼は、あの老いた人間がそうしたのだと理解した。
翁は、タコを静かに見つめる。
「ほう……友愛の香を感じる。
その魂の味、からりと揚げて仕立てよう」
タコは最期の力を振り絞り、自ら油鍋の淵に立った。
もう、姿を偽る必要はない。
このグルテンは着飾って食べられるためではない。
友が堕ちたなら、共に堕ちよう。
タコとして、一途な友として、彼に捧げるための衣を纏うのだ。
このボロ衣姿こそがタコの晴れ着だった。
翁の頬を、涙が伝った。
それは油の中に落ち、小さく弾けた。
静寂の中、タコは熱い油へと身を投じた。
こうして、天ぷらタコが完成した。
屋台の影でうずくまっていた天ぷら天ぷら浮浪者の鼻孔を、懐かしい香りがくすぐる。
震える手で、彼は差し出されたその天ぷらを手に取った。
「……ああ、懐かしい匂いがする。
僕はもう、揚げ物の香りに抗う力がないんだ。
どうか人の欲を許してくれ」
彼はそれを、一口ずつ、噛みしめるように食べた。
パリッとした衣が砕け、中から溢れ出すのは、深海の記憶と、友のタンパク質。
「……本当においしいよ」
黒ずんだ彼の頬を、透明な涙が洗い流していく。
その涙は、くすんだ衣を湿らせていった。
その時、天ぷら天ぷら浮浪者の体の中で完全に溶け合った。
エビと、タコ。
姿形など、もはやどうでもよかった。
彼らは天ぷらという媒介を通じて、一体となった。
「君がいたから、僕は僕になれたんだ」
「……多胡くん。本当は僕も同じだったんだよ」
客のいなくなった静かな路地裏。
翁は天ぷら鍋の灯を消した。
天ぷら翁 @sukitaro
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