レベル1の理外者 〜加護なき少年の手動成長記録〜

@gdragon24

第1章 理の剥離編

第1話 積層する沈黙

■ 1. 事実という名の断頭台


 その世界において、強さとは「器」の大きさに他ならなかった。

 赤子の頃、神殿の石板で鑑定され、その胸に刻まれる【レベル】という名の刻印。それは努力や意志といった不確定な要素を一切排除し、その者の生涯における生存価値を確定させる絶対的な事実であった。


 一般的に、平民のレベル上限は1から2。

 熟練の猟師や、血反吐を吐くような訓練を積んだ衛兵が、数十年かけてようやくレベル2に届くかどうか。レベル3は一国の英雄への入り口であり、レベル4は天災に抗う最高位の騎士。

 そして、人類の頂点に君臨するのは、世界にわずか五人しか存在しない【レベル5】の英雄たちだ。彼らは一国に匹敵する武力を持ち、山を穿ち、海を割る。レベルが1上がるごとに身体能力は指数関数的に増大し、その格差は「努力」という言葉では決して埋められない物理的な断絶として機能していた。


 少年アルト・ウォーカーの胸に刻まれた数字は、あの日から一度も動くことなく【1】を示し続けている。


「――九百九十八、九百九十九、……千!」


 辺境の村ラグナの裏山。夕闇が迫る中、アルトは全身から湯気を立ち昇らせながら、重い木剣を垂直に振り下ろした。

 腕は鉛のように重く、視界は火花が散ったように明滅している。手のひらには三年間で幾度も潰れ、硬く変質した皮膚の硬結(タコ)が層を成し、もはや感覚を失っていた。


『デイリーミッション:基礎体力の向上(達成率100%)』

『報酬:能力値強化ポイント+1を獲得しました』


 脳裏に浮かぶ無機質なウィンドウ。アルトはこの通知を「自分にだけ見える奇妙な幻覚」だと思いながらも、他に縋(すが)るものがないゆえに、一千日以上の歳月をこの不可解なポイント獲得に捧げてきた。


(……今日もだ。今日も何も起きない)


 アルトは泥の上に座り込み、荒い呼吸を繰り返した。

 蓄積されたポイントは、既に一千を超えている。だが、それをどう使うべきか、その説明はどこにもない。周囲からは「レベルアップのファンファーレも聞こえないのに、無意味な素振りを繰り返す狂人」と蔑まれ、かつての友人たちも、レベル2へと上がっていくに従ってアルトの前から去っていった。


 どれほど筋肉を鍛えても、レベル1という「器」の限界を超えて力を発揮することはできない。

 この世界の真理によれば、アルトの努力は「底の抜けた桶(おけ)に水を注ぐ行為」に等しかった。



■ 2. 最底辺の死闘


「……はぁ、はぁ……っ!」


 翌日、アルトは村の郊外にある薄暗い森にいた。

 目的は、この世界で最も脆弱とされる魔物『角ウサギ』の討伐だ。

 体長五十センチほどの小動物だが、レベル1の人間にとっては、その鋭い角と時速五十キロを超える突進は十分に致命傷になり得る。レベル補正という「世界の加護」を満足に受けられないアルトにとって、それは死を運ぶ獣に他ならなかった。


 ウサギが地を蹴った。

 視界がぶれる。アルトは泥にまみれながら、無様に地面を転がった。


「くそっ……!」


 脇腹を掠めた角が、衣服を裂き、皮膚に赤い線を描く。

 アルトには、他の少年たちが持つような「剣技スキル」も「身体強化魔法」もない。ただ、毎日数千回繰り返してきた素振りの記憶だけが、彼の腕を動かしていた。


 跳躍し、再び突っ込んでくるウサギ。

 アルトは逃げるのをやめた。自らの死と引き換えにする覚悟で、最短距離で短剣を突き出す。


 ――グシャリ。


 嫌な手応えが腕に伝わる。短剣はウサギの眼窩(がんか)を貫き、同時にウサギの角がアルトの肩を深く抉った。

 魔物は光の塵となって霧散し、アルトはその場に膝をついた。


『角ウサギを討伐。経験値1を獲得しました』

『累積経験値:1,245 / 10,000』


 脳裏に響く絶望的な数字。

 レベルを1から2へ上げるには、一万もの経験値を要する。三年間、命を削って魔物を狩り続けても、ようやく一割を越えたに過ぎない。

 

「……また、たったの1か」


 アルトは傷口を押さえ、自嘲気味に笑った。

 一万匹のウサギを狩る。その間に自分は何回死にかけるのか。

 努力が報われるなどという幻想は、この世界の「事実」の前では無力だった。



■ 3. 隔絶された「天才」


「……また、そんな無意味なことをしてるの?」


 鈴を転がすような、だがどこか冷ややかな声が森に響いた。

 振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。銀色の髪をポニーテールに結び、腰には洗練された細身のレイピアを帯びている。


 名はリーニャ。アルトの幼馴染であり、この村で最も期待されている「レベル2」の若手剣士だ。


「リーニャか。……巡回の帰りか?」

「ええ。あんたを探しに来いってボルド団長に言われたのよ。……それ、また角ウサギ? 見てて」


 リーニャが茂みから飛び出してきた別のウサギへ、無造作にレイピアを突き出した。

 アルトが数分の死闘を演じた相手を、彼女は一瞬――視認すら困難な速度で、その喉元を正確に貫いた。


「これが【レベル2】の身体能力よ。努力なんて関係ない。レベルが上がれば、世界が勝手に私を強くしてくれる。あんたが三年間、その木剣を何万回振ろうと、私のデコピン一発でその努力は粉砕される。……それが、この世界の『事実』なのよ」


 リーニャの瞳には、侮蔑ではなく、本物の同情が宿っていた。それがアルトには何よりも痛かった。

 彼女は天才ではない。ただ、レベルという加護を受けた「正常な人間」なのだ。対してアルトは、加護から見放され、無価値な停滞を繰り返す「異常者」でしかなかった。


「……わかっている。だが、これしか僕にはないんだ」

「……勝手にしなさい。でも、今日で最後にして。明日、王都から『鑑定士』が来る。あんたが本当にレベルを上げられない欠陥品だと証明されたら、自警団の見習いもクビになるわよ」


 リーニャは背を向け、去っていった。

 後に残されたのは、血の滲む短剣と、一千日分の虚無感だけだった。



■ 4. 沈黙の夜、点滅する違和感


 村に戻った後、アルトは誰とも口を利かずに家の裏手へと向かった。

 肩の傷は深く、腕を上げるだけで激痛が走る。それでも、彼は重い木剣を握った。


 一、二、三――。


 夜の静寂の中に、木剣が空を切る音だけが響く。

 

(何のために、僕は振っているんだ?)

(レベルは上がらない。鑑定士が来れば、僕は無能だと公認されるだけだ)

(リーニャの言う通り、これは単なる執着で、時間の無駄じゃないのか?)


 自問自答が頭の中を駆け巡る。

 だが、手を止めれば、自分という存在が完全に霧散してしまうような気がして、彼は狂ったように木剣を振り続けた。


 ――九百九十九、……千。


 最後の一振りが終わり、アルトは地面に崩れ落ちた。

 全身の筋肉が痙攣し、意識が遠のく。


『デイリーミッション達成:能力値強化ポイント+1を獲得しました』


 相変わらずの無機質な通知。

 

「……ああ、クソ……」


 アルトは泥を噛み締め、声を殺して泣いた。

 三年間。一千日。数百万回の素振り。

 その全てを注ぎ込んでも、明日の自分は今日と同じ「レベル1」だ。

 世界は何一つ変わらず、自分だけが摩耗していく。


 アルトは薄れゆく意識の中で、目の前に浮かぶウィンドウを見つめた。

 その隅で、**「一箇所だけ、弱々しく点滅するドット」**があることに、彼はまだ気づいていなかった。


 明日、全てが終わる。

 そう信じて疑わぬまま、少年は絶望の眠りに落ちていった。

 彼だけが持つ「理の外側の力」が、目覚めの時を待っているとも知らずに。

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