降水確率10パーセントの雨宿り

鳥すあま。

降水確率10パーセントの雨宿り

 突然、雲が弾けて空から雨が降った。それも、記録的な豪雨だってさ。

 何年かぶりに実家に帰って、隣の家の腐れ縁の幼馴染とちょっと出かけようとしたら、こう。天気予報では、降水確率はたったの10パーセントだったのに。

 それで、咄嗟に近くのアーケードの中に逃げ込んだのが、ついさっきの出来事。

「あ〜、もう、めっちゃ濡れちゃったね!」

 自分と相手の格好を見比べながら言った。服は濡れて肌に張り付いていて、少し宍色が見える。見上げる髪の先からは、ポタリと水滴がいくつも滑り落ちて、地面を流れていく。

 なんとなく、見つめているのは許されないような気がして、アーケードの外に視線を逃がす。人はほとんどいない、夏の昼間。この空間には、今2人だけなんじゃないかと思ってしまうほどの、雨音。

「だな。お前、せっかくの帰省なのに残念だな」

 私の視界の端で、ぎゅっと服の裾を絞りながら、そいつ──大翔は言った。

「まあね。明後日には帰るってのにさ」

 きっと、この会話に意味なんてない。お互い、外を見ながら、どうせ明日には忘れる話をしている。

「そういや、ガキん頃も同じようなことあったよな」

「え? そんなこと……あったっけ?」

 遠い記憶の片隅に、そんな思い出があるような、ないような。それくらいの、些細なこと。

「ああ。あん時は、近所の駄菓子屋で雨宿りしてさ。店番してるババアも居なかったから、そのまま店の中入って」

 そうはっきりと言われると、実像か虚像かわからない、鮮やかな記憶が浮かんでくる。

「ふーん。もう駄菓子屋なんてないのにね」

「……お前、東京出て垢抜けたよな。前まで野暮ったい芋女だったくせに」

 どうして、なんだろう。からかうわけでもなく、私をじっと見る視線。それなのに、気持ち悪くはない。

 それに、明らか酷いことを言われてるのに、怒る気にもならない。

「放っておいてよ。大学入ってから一度も告られてないんだから。東京にはもっとキラキラして可愛い女の子いっぱいいるし。私なんてまだまだっていうか」

 それに比べると、地元の大学に進学した大翔はモテてるんだろうか。高校の時は、他校にまでファンがいたようなイケメンのこいつのことだし、聞くまでもないか。

 どうせ可愛い彼女でもいるんだろうし。雨のせいか卑屈なことばっか考えてしまう。

「へぇ、見る目ねえなぁ」

 大翔は、ボソッと呟いた。けれど、意味がわからない。かと言って聞き返す気にはなれず、そのままスルー。

「ま、安心しろよ。俺も彼女いねーし」

「嘘でしょ? 絶対いると思ってた」

 私は目を見開いた。だって、この誰がどう見ても爽やかなイケメンの大翔に、彼女がいない? そんなはずがない。だったら、この世界が間違ってる。

「告白はされてる。けど、全部フッてるな、今んとこ」

「え、どうして? かわいそうじゃん、女の子たち。女泣かせとか言われるよ?」

 数年前に、好きだった先輩にフラれたことを思い出す。なんで今、そんな苦い記憶なんか、と思うけれど、あの時は本当に辛かった。頭の中全部が絶望に染まって……って、その話はいいか。結局、大翔のおかげで立ち直れたし。

「好きでもねえのに付き合う方が、相手がかわいそうだろ」

 あぁ、そうだった。こいつ、口は悪いのに、とんでもなく性格まで良いんだった。

「確かに」と同意だけを投げ返した。全てにおいて大翔に負けてるような気がして、悔しい気持ちは喉の奥に握りつぶして。

「……あー、なかなか止みそうにねえな」

 そう言って大翔は、背負っていた小さなリュックから、一枚の白いタオルを取り出した。

「すご、用意周到じゃん」

 素直に褒めてみる。持っていたなら、もっと早く出して欲しかったという気持ちもあるけど。

「まあな。髪、拭いてやるよ。風邪ひかれたら困るし。試験前なんだろ?」

「……ん、ありがと」

 気遣いもできるのか。私は少し俯いて、溜め息を水溜りに落として、それでから、大翔に背を向けた。

 タオルが頭に乗って、そのまま大翔の大きな手が、わしゃわしゃと水分を奪っていく。頭皮が刺激されて、少し心地が良い。すぐ真後ろに彼がいる気配が、どこかあたたかい。それでいて、彼の指先の冷たいのが、少し伝わってくる。

 しばらくされるがままになっていると、手が止まった。

 終わったのかな。そう思ったけれど、大翔の手とタオルは離れない。

「……大翔?」

 私が呼びかけると、彼の手がびくりと揺れて、ようやく、去っていった。何か、考え事でもしてたのかな。

 それを誤魔化すように、大翔は私にタオルを投げた。慌ててキャッチする。じんわり濡れた、白いタオル。

「んじゃ、代わりに俺のも拭いて」

「え、タオル、濡れてるけど良いの?」

 そう聞くけど、大翔は勝手にしゃがんで、私を待っている。

 ちょうど手を置きやすい高さ。そんなのまで考えてくれてるわけ? 勝手に、自分に嫌気が差す。

「わかった、すぐ拭くから」

 タオルを広げて、両手とともに頭に乗せる。湿ったあの雨の匂いが、大翔の髪からもする。体温が指先に伝わってくるのを感じながら、無造作に手を動かす。

 大型犬みたいだな、と思った。もし尻尾が生えてたら、今はぶんぶんと振っているんだろう。

 雨音しか聞こえない世界で、私は今、大翔の頭を拭いている。それだけなはずなのに、なぜか、大翔の息遣いが気になってしまう。ただの呼吸なのに、その小さな、すぅ、はぁという音さえもが、私の耳には大きく届く。

 ドクンと、心臓が跳ねた。何か、いけないことをしているような気が勝手にしてくる。昔は、確かに何も意識せずにできたはずの行為が、どうして今になると、指先が微かに震え出すのか。

 大人になったから? いや、そんなはずがない。私が、大翔を意識しているから? そんなはず、は……。

「……ん、終わり」

 自分でもびっくりするほど、ぶっきらぼうに、私はタオルを返却した。渡された時より、水分を吸収して、はるかに重くなった白い塊を。

 きっと、雨水だけじゃなく、私のぐちゃぐちゃとした訳のわからない感情も全部、奪ってくれたから。

「なあ、芽衣」

 今日初めて、名前を呼ばれた。当たり前だったはずの、彼の声による私の名前が、私の胸に突き刺さった。何かが、そこから溢れてくる。けれど、何なのかはまだわからない。

「大翔、なに?」

 少し、戸惑った。声が、上擦った。

 でも不思議と、気持ち悪いとは思わなかった。

「この後、うち来る?」

 大翔も緊張しているような、気がした。

 それが気のせいでなければ良いのにと願うのは、どんな感情なんだろう。







 あの後、雨は数分でパタリと止んで、残されたのはたくさんの水溜りだけ。人も全然いない道を2人並んで歩いて、私たちは、大翔の家にやってきた。

 私の記憶の中と寸分違わないように見える。いや、少しだけ、小さくなったような気もするけれど。

 お邪魔しますと靴を脱ぎ捨て、家に入った。聞けば、両親ともに外出中なんだとか。つまり、丁寧に振る舞う必要がないと言うこと。気が楽で良いなと思う。

「うーわ、あんたの家全然変わってないじゃん」

 匂いも、見た目も。全部、そのままで。これこそ私の地元だって感じがする。

 昔はよく、この家で一緒に宿題や課題をやったっけ。今となっては懐かしいなぁ。

「は? そこの棚なかっただろって。お前って、マジで全然周り見てないよな」

 呆れたように大翔は言って、1つの棚を指した。

 いや、棚の1つや2つくらい些細なことで……。ほんと、大翔って細かい。

「良いじゃんそれくらい」

 私はそう吐き捨てて、リビングへ直行。

「なんか適当に座っといて。つか何飲む? 紅茶? コーヒー? あ〜、でもお前確か、コーヒーは砂糖3つ要るんだっけ?」

 ダイニングテーブルの周りの椅子を1つ引いて、腰を下ろそうとして、服が濡れていることを今更思い出した。

 椅子を戻して、そのまま立ち続ける。けれど、なぜだか大翔の方は見れなくて。

「もうブラック飲めるようになったから。変な心配しないでよね」

 私がそう言うと、大翔は一瞬だけ息を呑んで、それからふっと笑った。

「あっそ。じゃあもうお子ちゃまってからかえねぇのか」

「最初からからかわなくて良いの。ねえ、何か手伝えることある? お湯沸かすくらいならするけど」

 昔は絶対に手伝おうとしなかったけれど、一人暮らしの今なら。

 大翔だって、数年前までお湯すら沸かせなかったくせにな。

「……服、着替える? 俺ので良いなら貸すけど」

「あー、確かに、濡れてて気持ち悪いかも。じゃあ、今日帰って洗って、明日の夜くらいに返しに来るので良い?」

 チラリとキッチンの方を見てみると、大翔は濡れて重いシャツを脱いでいる最中で、見慣れていたはずなのに、気恥ずかしくて視線をどこかへ彷徨わせる。チクタクと秒針が時を刻む音だけが、リビングの静寂を浮いている。

「よっと……ああ、それで良い」

 脱衣中の、少しくぐもった声。あぁ、何もかもが嫌だ。

「ありがとう。じゃあ、脱衣所借りるね」

「服取ってくるからちょっと待ってろ。間違っても脱ぎ始めんなよ」

 シャツと、いつの間にかリュックから出されていた、あの濡れたタオル。2つを抱えて、大翔はどこかへ消えていった。

「それはこっちのセリフ!」

 後ろ姿にそう叫ぶと、静かになった。

 一体何が変わったんだろうと、辺りを見渡してみる。時計は一緒、このダイニングテーブルも、椅子も。

 ああ案外、変化って気付けないものなんだな。私にはさっぱりわからない。

「ん、これで良いか?」

 大翔の、服。ぽんっと投げられた上下と、乾いたタオルを受け取って、こくんと頷く。

 私は脱衣所の扉を開けて、中に入った。

「……大きい」

 そんなの分かってる。さっき、存分に身長差を突きつけられた後だから。

 でも、昔は同じくらいだったのに、なんて相当前のことを思い出してしまう。

 鼻にふわりと届くのは、爽やかなシトラス系の柔軟剤の香り。前から、こうだったっけ。

 肌に張り付いて離れない服をなんとか強引に脱ぐ。ふう、と溜め息。肌に空気が触れて、解放されたような気分。タオルで体の水分を落としていく。

「はぁ、雨ってやだな」

 明らかにオーバーサイズの大翔の服。袖を通して、頭を出す。清涼感に包まれながらも、鏡に映る自分には、ひどく不釣り合いで。手が出なくて、腰ほどまである袖。赤ん坊が布に包まれているかのように、すっぽりと埋まっている。そのくせ、鎖骨は丸見えで首元は緩い。

 ズボンを合わせてみると、足の長さが足りない。しゃがみ込んで、裾を何重か折る。それでから、足を入れる。

 鏡の前で、特に何の理由もないけれど、くるりと回転。オシャレじゃないなんて考えるよりも前に、サイズが大きい。

 脱いだ服を抱えて、脱衣所を出た。すぐに、コーヒーの苦い香りが部屋に充満していることに気付いた。

「着たよ。もうコーヒー淹れてくれてるんだ」

 大翔は、カップを見つめながらお湯を注ぎ続けるだけで、こちらを一瞥もしない。

「おかえり。まあ、インスタントだしな」

「へぇ、粉にお湯注ぐのはできるようになったんだ」

 からかうような声を飛ばすけれど、大翔はこっちを向いてくれない。

「そんくらい前からできるわ。ほら、座っとけよ」

 まあ、いっか。私はさっきの椅子にやっと腰を下ろした。

 しばらく待っていると、大翔はコーヒーカップを2つ手にして、こちらにやって来た。私が左隣の椅子を引くと、そこに座って、カップを置いた。湯気が2つ、天井へ消えていく。

「なんか……似合ってねえよな」

 ようやく私に一瞥だけくれて、大翔はコーヒーの湯気を見つめる。

「そもそも、身長が違いすぎるもん」

「はは。ほら、袖まくってやるよ。カップ持てねえだろ?」

 大翔がそう言うものだから、私は腕をそっと差し出す。大翔の温かい手が、私の手首を掴んで、そこから袖ごと上がっていく。近いな、と今更思う。隣の椅子に座らせたのは私なのに、何思ってんだか。

「ありがと」

 今日何度目かのお礼を言って、カップに口を付けた。湯気が顔に当たると同時に、コーヒーが口に入る。苦くて、少し酸味のある尖った味。大人になってようやく、飲めるようになった味。

「……ねえ、身長は?」

「177」

 頭の中で、簡単な引き算をする。177から158を引くと、19。ほとんど、20センチメートルの差。

「ふーん」

「マジで、サイズ合ってねえ。ダボダボだな」

 決して、私を見ることなく、大翔は言った。分かってはいるけれど、二度も同じようなことを言うほどだろうか。

 そういえば、私たちは今日、何を話したっけ。なんでだろう、雨に降られるまでは、スラスラと言葉が淀みなく口から出ていたのに、それから先、沈黙が増えたのは。

 確か、高校の時の話、それよりも前の話、今の趣味の話、勉強の話。あぁ全部、薄っぺらいな。

「コーヒー、美味しい」

 ごくりと口の中の液体とともに全てを飲み込んだ。代わりにやって来たのは、遅すぎる実感。

 どうして、心臓がいつもより速く拍動しているんだろう。どうして、左側が気になるんだろう。

 なんとなく頭の中に答えはあるのに、それを認めることができない。まだ違う、そんなはずがないと、否定ばかりしてしまう。

「なぁ、お前、緊張してる?」

「え、違……。久しぶりに来たなぁって、思ってるだけ」

 口では誤魔化しているけれど、私の顔には、本音が出てしまっているのかもしれない。

 だって、左隣の大翔が、少し口角を上げて、私を左から覗き込んでいるから。

「けど、この家で2人きりになんのは初めてだろ」

 緊張なんてそんなの、雨宿りの時からなのに。なんで今更、そう聞いてくるの。

 頭の中で天使と悪魔が喧嘩していた。

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降水確率10パーセントの雨宿り 鳥すあま。 @Birdsuama

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