赤津村の無貌
月雲花風
SCENE 01
午前二時十四分。
スマートフォンのバックライトが、無機質なワンルームの天井に病的な影を焼き付けていた。
バイブレーションが、安物の木製デスクを削るような音を立てて震える。
表示された番号は『非通知』。
通常なら無視するはずのその着信に、佐藤の手は吸い寄せられるように伸びた。
喉の奥が、ひどく乾いていた。
「……もしもし」
応答した耳の奥に、猛烈なノイズが流れ込んでくる。
砂嵐を何十倍にも増幅させたような、不快な摩擦音。
しかし、その耳障りな音の地層の底から、あの日、確かに土の下に眠らせたはずの声が這い出してきた。
『――さ……とう、くん?』
心臓が、肋骨の裏側を鋭く叩いた。
井上。三年前、土砂崩れに巻き込まれて命を落とした親友の声だ。
『……あか……つ……むら……で、まって、る……。すごく、懐かしいんだ……。きて、くれよ……』
声は、湿った土を噛み砕くような湿り気を帯びていた。
言葉の合間に混じるのは、金属が擦れ合うような、生理的な嫌悪感を催させる異音。
だが、佐藤の意識は、そのノイズの背後に広がる奇妙な郷愁へと急速に引きずり込まれていった。
脳の奥深くに打ち込まれていた錆びた楔を、無理やり引き抜かれたような感覚。
気がつけば、佐藤は車を走らせていた。
漆黒の山道を切り裂くヘッドライトの光だけが、この世のすべてだった。
数時間後。
夜霧が立ち込める峠を抜けると、そこに「赤津村」はあった。
地図には載っていない、忘れ去られた集落。
しかし、そこに広がる光景は、驚くほど「普通」だった。
錆びついた看板を掲げた個人商店。古びた街灯。そして、一軒だけぽつんと佇むコンビニエンスストア。
建物の配置や漂う空気感は、かつて二人で訪れたことのある、名前も思い出せない田舎町と酷似していた。
ただ、何かが決定的に欠落している。
村の入り口に鎮座する、古びた地蔵。
その顔が、滑らかに削り取られていることに佐藤は気づかなかった。
いや、視界には入っているはずなのに、脳がその情報の処理を拒絶していた。
車を降りると、湿った風が頬を撫でた。
線香の匂いと、熟しすぎた果実が腐敗したような、甘ったるくも不快な臭気。
霧の向こう側で、誰かが笑ったような気がした。
「……井上?」
佐藤は呟き、村の境界を一歩踏み越えた。
その瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
(あれ?)
思考の糸が、プツリと断裂する。
自分がなぜ、この場所に立っているのか。
なぜ、深夜の山道を数時間も運転してきたのか。
その理由が、霧に溶けるように消えていく。
ポケットの中で、スマートフォンが再び震えた。
だが、今の佐藤には、その振動が何の意味を持つのかさえ理解できなかった。
足元の石ころ、湿った土の感触、遠くで鳴くカラスの声。
それらは異常なほど鮮明なのに、自分という存在の「背骨」が、突然抜き取られたような空虚感。
「いらっしゃい」
背後から声をかけられ、佐藤はゆっくりと振り返った。
そこには、村の住人らしき男が立っていた。
男は深い傘を被り、顔の陰影が酷く濃い。
「待っていたよ。君の席は、もう用意してある」
男の言葉に、佐藤は抗いがたい安堵感を覚えた。
理由も目的も忘れたはずなのに、この村に迎え入れられることだけが、唯一の正解であるかのように思えた。
佐藤はふらふらと、男の背中に続いた。
霧はますます深くなり、背後の入り口はもう見えない。
彼が踏みしめる土の上には、誰のものか分からない――指先で激しく掻きむしったような、無数の溝が刻まれていた。
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赤津村の無貌 月雲花風 @Nono_A
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