黒曜の星界律《アストラルコード》—禁忌技能者、サンクトラクスにて—
八戸三春
第1話 サンクトラクスの街並み
サンクトラクスの朝は、金属の匂いから始まる。
石畳の継ぎ目に溜まった昨夜の雨が、鉄の光を反射してきらきらと散っていた。通りの向こうから、低く唸るような音が近づいてくる。音の正体は、曲線も愛想もない、鉄の塊――クルスフェレスだ。
「……来る」
俺は歩道の端へ、反射的に身体を寄せた。
クルスフェレスは、腹の底まで響く振動と一緒に、白い光をぶら下げて滑るように走り去る。近い。近すぎる。車輪が水たまりを裂き、その飛沫が俺の靴先にかかった。
この街では、引かれるほうが悪い。法律より先に、そういう空気がある。
サンクトラクスは、三千年分の「便利」と「監視」が積み上がった街だ。
俺がこの世界に転生してから、ちょうど三千年。気が遠くなるほど長い時間のはずなのに、街の角を曲がるたび、昨日今日の出来事みたいに新しいものが増えている。石造りの旧市街に、ガラスの塔が刺さり、広告板が魔光で揺らめき、空にはグロブスフェルスが腹を見せて通過していく。
飛行機、じゃない。ここではそう呼ばない。
グロブスフェルス。空を渡る大きなフェルス。
用語ひとつで、世界は変わる。
変わったのは言葉だけじゃない。住んでいる種族も、価値観も、そして――取り締まりの目も。
「おい、そこの兄ちゃん。どいてどいて」
振り返ると、背の低いドワーフの配送員が、肩から巨大な箱を下ろしかけていた。箱の隙間から、香辛料と焼きたてのパンの匂いが漏れてくる。
市場だ。
サンクトラクスの混住区(コンジュウク)は、朝から賑やかで、うるさくて、少し危険で、そして――腹が減る。
エルフが果物を並べ、獣人が肉を解体し、甲殻の種族が乾いた指で硬貨を弾き、角の生えた子どもが親のスカートにしがみつく。言葉が混ざり、匂いが混ざり、価値観が混ざる。混ざり切らないものは、だいたい揉め事になる。
俺は揉め事を避けるほうだ。
目立つのは嫌いだし、面倒も嫌いだ。
何より――見つかりたくない。
紙袋を抱え、パン屋の前で立ち止まる。俺が買うものはいつも同じだ。バゲット一本。野菜少し。贅沢をするなら、塩漬けの肉を薄く一切れ。今日は……やめておく。
「はいよ。パンと、根菜。あとこれ、昨日の残りだけど安いよ」
店主は鱗の浮いた腕で器用に包み、紙袋を差し出した。俺は硬貨を二枚、指先で滑らせるように置く。財布が軽いのは、いつものことだ。
その時、横から「ぱちっ」と乾いた音がした。
子どもがいた。人間の子だ。五、六歳くらい。手のひらで、小さな火花をくるくる回して遊んでいる。まるで玩具みたいに、炎が跳ね、消え、また生まれる。
「危ない……」
声をかけるより早く、別の声が叩きつけられた。
「危ないじゃない! 危険ですよ!」
市場の通りが、一瞬だけ静まる。
声の主は、制服の襟をきっちり閉めた女性だった。黒髪を後ろで束ね、鋭い目で子どもを睨んでいる。肩章には《討伐管理局 第七支部》の紋章。局長――ミレイアだ。
「火遊びは規定違反。ここは路上です。混住区の通行量、分かってますよね? あなたの火が誰かの服に燃え移ったら、誰が責任を取るんですか」
子どもは唇を尖らせ、火花を消した。
「だって、あそび……」
「遊びは家でしなさい。……あと保護者は?」
呼ばれて、角のある母親が慌てて駆け寄り、頭を下げる。ミレイアはため息をつき、視線だけで周囲を掃除するみたいに見回した。そして、その視線が――俺に刺さった。
「あなたも」
「え、俺?」
「危険を見かけたら止めてください。見て見ぬふりは、事故の共犯です」
俺は言い返したい衝動を飲み込んだ。
討伐管理局に目をつけられるのは、絶対に避けたい。
「……すみません。次から」
「次から、では遅い。いいですか?」
言い方が、叱るというより監視だ。優しさがゼロとは言わない。でも、あの人の「善意」はいつだって規則の形をしている。
「はい、分かりました」
言ってしまってから後悔した。ミレイアの眉がほんの少し動いた。
「人の自由は守られています。……あなたが法を守っている限り」
それ、脅しだよな。
俺は曖昧に笑って、視線を逸らした。空の方で、グロブスフェルスの影が市場を横切る。大きな影。大きな監視。サンクトラクスは、空も地上も、目が行き届きすぎている。
市場を抜け、旧市街の石壁沿いに歩く。道幅が狭くなると、クルスフェレスの通行音も少し遠のく。代わりに聞こえてくるのは、配管の唸り、魔導照明の微かな鳴き声、そして――古い石が持つ沈黙。
俺はその沈黙が嫌いじゃない。
三千年前から変わらないものは、もうこの街にはほとんど残っていないから。
角を曲がると、目的の建物が見えた。外壁の塗装が剥げ、窓枠が歪んだ、いかにも安物のアパート。名前だけは立派で、《聖域(サンクト)荘》なんて看板がぶら下がっている。
玄関を開けた瞬間、待ってましたとばかりに声が飛んできた。
「坊やぁ」
顔を上げると、廊下の奥から、ヤギの顔がぬっと現れた。正確にはヤギの顔をした、太ったおばちゃん。大家のマダム・カプレアだ。
「家賃!」
言い方が、挨拶より先にそれ。
「今日払う。払うってば」
「今日が何日だと思ってるんだい。支払い期日は規定だよ、規定。――ほら、今」
手が伸びてくる。蹄みたいな指。妙に器用に、請求書をひらひらさせる。
俺はため息をついて、革袋から硬貨を取り出した。昨日の討伐報酬。血と汗と、少しの“運”で稼いだ金だ。
「……ほら」
「よろしい!」
マダム・カプレアは硬貨をひったくると、急に機嫌が良くなる。
「坊や、今度こそ部屋の配管直しておくれよ。夜になると水が唸るんだ」
「それ、俺の仕事じゃないし」
「住人の善意は社会を回すんだよぉ。覚えときな」
この街の“善意”は、だいたい無料奉仕の言い換えだ。
階段を上がり、三階の端の部屋へ。鍵を回すと、湿った空気が顔に張り付いた。ボロい。狭い。窓の外には隣の壁。サンクトラクスの眩しさとは無縁の、影みたいな部屋だ。
紙袋を机に置く。バゲットと野菜。今日の命。
ベッドに腰を落とすと、胸の奥で“それ”が静かに脈打った。
――チートスキル。
この街で、それは禁忌だ。
登録外の特異技能、因果干渉、戦闘補助の逸脱行為。
見つかればオード裁判。スキルのための裁判。
判決はだいたい、追放。
サンクトラクスの外は、広い。広すぎて、孤独だ。
追放=生きる権利の剥奪。そういう意味で、この街の法律はよく出来ている。人を内側に縛るのに、最適な形をしている。
「……稼がないと」
俺は机の下から、薄い金属板――討伐管理局の発行する端末を引っ張り出した。表向きは「安全のため」の疑似ダンジョン。実際は、ログが残る。つまり監視が残る。
それでも潜る。
潜らないと家賃が払えない。
潜らないと、バゲットすら買えない。
端末に指を置くと、淡い光が走った。
《疑似界層 接続準備中》
《討伐シミュレーション:推奨等級 E》
《ログ記録:有効》
喉が少しだけ渇いた。
ログが残るなら、俺は“禁忌”を使えない。
使えないはずなのに――いざという時、俺の身体は嘘をつく。
窓の外で、クルスフェレスの光が壁を走り、消えた。遠くでグロブスフェルスが鳴く。街は動き続ける。俺を置いていくみたいに。
「《ロザリオ》」
口に出してみたら、嘘みたいに聞こえた。
端末の光が強くなり、視界が白く塗りつぶされる。
《接続開始》
――戦いの匂いが、ほんの少しだけ近づいた気がした。
次の更新予定
黒曜の星界律《アストラルコード》—禁忌技能者、サンクトラクスにて— 八戸三春 @YatoMiharu
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