FALSE FACE: ZERO

ゆう/Yu

プロローグ 仮面の始まり

第1話 仮面の夜

 夜の街は、いつもより静かだった。


 眼下に広がる都市は、見慣れたはずの景色なのに、どこか現実感が薄い。ビル群は過剰なまでに煌びやかで、ネオンの光は人の欲望を煮詰めたように濃い色をしている。道路を走る車の列は、まるで意思を持たない生き物の群れのように規則正しく流れていた。


 俺は、そのすべてを見下ろす位置に立っている。


 建物の縁。風を遮るものは何もなく、夜気がコートの裾を揺らした。足元を見れば、わずかな踏み外しで命を失う高さだ。それでも、恐怖はなかった。心拍は安定し、視界は澄んでいる。むしろ、妙なほどに頭が冴えていた。


 ――準備は万全。


 そう言い聞かせる必要すらないほど、作戦は頭の中に染み込んでいる。侵入経路、時間配分、合図のタイミング。何度も確認し、何度も修正した。想定外の事態についても、考えうる限りは潰してきた。


 失敗する理由は、どこにもない。


「……聞こえてるか?」


 耳元で、小さなノイズの後に声が響いた。軽く、どこか楽しそうな調子だ。


『ばっちりだ。そっちはどうだ? 高いところは平気か?』


「問題ない」


『相変わらずクールだな。緊張とかしないのか?』


 思わず、口元がわずかに緩む。冗談を言っているのか、それとも本気で聞いているのか。その区別がつかないところが、彼らしい。


「今さらだろ」


『それもそうか』


 別の声が割って入る。落ち着いた、少し低めの声だった。


『侵入まで、残り三分。各自、最終チェックを』


「了解」


 短く応じながら、俺は視線を前方へ戻した。


 目標の建物は、まるで城のようにそびえ立っている。過剰な装飾。誇示するかのような巨大な入口。人を引き寄せ、金を吐き出させるためだけに作られた空間。ここが、今回の舞台だ。


 胸の奥で、わずかな違和感が蠢いた。


 理由はわからない。明確な根拠もない。ただ、説明のつかない引っかかりが、消えてくれなかった。


 ――何かを見落としている。


 そう思おうとすれば思える。だが、それはあまりにも漠然としていた。これほど入念に準備を重ねてきたのだ。今さら「何かがおかしい」という感覚だけで、作戦を中止するわけにはいかない。


 俺たちは、ここまで来てしまった。


『……ねえ』


 通信越しに、少し間を置いた声が聞こえる。


『気のせいだったらいいんだけど。中の反応、想定より静かすぎない?』


 俺は、建物を見つめたまま答える。


「静かなほうが都合がいい」


『そうだけどさ……』


 言葉は続かなかった。その沈黙が、逆に胸に引っかかる。


 成功する作戦ほど、つまらない。淡々と進み、何事もなく終わる。俺たちは、そういう仕事をしてきた。今回も、同じはずだった。


 なのに。


 風が、強く吹いた。


 夜の空気が冷たく、肌を刺す。その感触がやけに現実的で、俺は無意識に手袋を握りしめた。


 ――この作戦は、成功する。


 そう信じている。信じているはずだ。


 だが同時に、胸のどこかで、別の声が囁いている。


 ――これは、うまくいく物語じゃない。


 時計を見る。残り、三十秒。


 合図の時間だ。


 俺は一度だけ、深く息を吸った。


「……行くぞ」


 その一言を境に、後戻りはできない。


 夜の都市が、静かに息をひそめたような気がした。


 そして俺は、闇へと身を投げた。


 着地は静かだった。


 足裏に伝わる感触と同時に、体が自然と次の動作へ移る。衝撃を殺し、姿勢を低く保ったまま、周囲を確認する。視界の端で、監視用と思われる影が動いたが、こちらに気づいた様子はない。


 ――問題なし。


 俺は合図を送り、内部へ進んだ。


 建物の中は、外観以上に異様だった。天井は高く、無駄なほど広い空間が続いている。床は磨き上げられ、照明は人の気分を高揚させるよう計算されていた。ここに足を踏み入れた人間は、現実感を失い、財布の紐を緩めるのだろう。


 耳元で、声が重なる。


『右、クリア』


『左も大丈夫。予定どおり進める』


「了解」


 短いやり取りだけで、全員の位置関係が把握できる。言葉はいらない。動きと呼吸が、自然と噛み合っていた。


 通路を抜けた先で、最初の障害が現れた。


 人型だが、人ではない。歪んだ仮面のような顔。こちらを認識した瞬間、鈍い音を立てて動き出す。


「来るぞ」


 声に出すより早く、体が前に出た。


 引き金を引く。乾いた音が空間に響き、影が揺らぐ。仲間の援護が重なり、敵は抵抗する間もなく崩れ落ちた。戦闘は一瞬で終わる。


『さすがだな』


 軽口が飛ぶ。


「無駄口叩くな。進むぞ」


 言いながらも、内心では同じことを思っていた。


 ――完璧すぎる。


 これまでにも、同じような場面は何度もあった。だが今回は、引っかかりが残る。敵の動きが鈍い。反応が遅い。まるで、こちらの行動を把握していないかのようだ。


 いや、逆か。


 把握する必要がないのかもしれない。


 その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥が冷えた。


『次の区画、監視網が二重になってる』


 冷静な報告が入る。


『解除できなくはないけど……想定より多いわ』


「時間は?」


『許容範囲。ただ、気になる』


 俺は一瞬、足を止めた。


 ここで引き返す理由はない。進めば進むほど、こちらが有利になるはずだ。計画上も、想定外は想定内に収まっている。


「続行する」


『……了解』


 わずかな間。ためらいとも取れる沈黙。


 それでも、誰も異を唱えなかった。


 再び動き出す。影から影へ。光の届かない場所を選び、無駄な音を立てずに進む。身体は軽く、意識は澄んでいる。


 ――俺たちは、いつからこうなった?


 不意に、そんな疑問が浮かぶ。


 最初から、こんな役割を背負うつもりだったわけじゃない。ただ、流されるように選択を重ね、気づけば仮面を被っていた。


 それを後悔しているわけじゃない。


 少なくとも、今までは。


 奥へ進むほど、警戒は強まっていく。視線の数が増え、空気が張り詰める。だが、それでも致命的な障害は現れない。


 まるで、通されているようだった。


 その感覚を、俺は意識的に押し殺す。


 考えるな。今は、役割を果たすだけだ。


『目標地点、目前』


 その言葉に、全員の意識が引き締まる。


 ここまで来れば、もう引き返せない。成功か失敗か。そのどちらかしか残っていない。


 扉の向こうにあるものを思い浮かべながら、俺は深く息を吸った。


 ――これで終わる。


 そう信じることで、不安に蓋をした。


 仮面の内側で、俺は静かに笑った。


 目的の部屋は、静まり返っていた。


 重厚な扉を前にしても、警報は鳴らない。罠の気配もない。あまりに素直すぎる状況に、胸の奥で警鐘が鳴り続けている。


 ――ここまで来て、何もない?


 俺は手短に合図を送り、扉を開けた。


 中は、想像していたよりも簡素だった。中央に据えられた台座。その上に置かれた、異様な存在感を放つ“それ”。豪奢でもなければ、派手でもない。だが、視線を逸らせない。


「……確認する」


 近づくにつれ、違和感は確信に変わっていく。


 これは、間違いなく目標だ。だが同時に、あまりにも無防備だった。守られている形跡がない。奪われることを、最初から想定していないかのようだ。


 俺は一瞬、ためらった。


 だが、その一瞬を切り裂くように声が響く。


『時間だ。早くしろ』


 誰の声だったのか、後になってもはっきり思い出せない。ただ、その言葉が背中を押したのは確かだった。


 俺は手を伸ばし、“それ”を掴んだ。


 ――その瞬間。


 耳をつんざく警報音が、空間を引き裂いた。


『なっ……!?』


『警戒レベル、急上昇! 閉鎖が――』


 床が震え、通路の先でシャッターが降りる音が連続する。赤い警告灯が点灯し、空気が一気に変わった。


「クソッ……!」


 想定外。明確な想定外。


 だが、まだだ。逃走ルートは残っている。俺は即座に指示を飛ばした。


「分散しろ! 合流ポイントBだ!」


『了解――いや、待て! 敵の数が……!』


 通信が、途中で途切れた。


 嫌な予感が、背骨を駆け上がる。


 通路へ飛び出すと、さっきまで空だったはずの場所に、無数の影が現れていた。動きは速く、迷いがない。まるで、こちらの動線を完全に把握しているかのようだ。


 銃声。衝突音。誰かの叫び。


 仲間たちが、次々と足止めされていく。


「くそ……!」


 助けに行こうとした瞬間、別方向からさらに敵が現れた。囲まれる。判断を誤れば、全滅する。


 ――切り捨てろ。


 冷たい思考が、頭をよぎる。


 そんなはずはない。そんな選択をするために、俺はここにいるわけじゃない。


 だが、現実は選択肢を与えてくれなかった。


『先に行け!』


 誰かの声が、通信に割り込む。


『ここは俺たちが――』


「黙れ!」


 叫んだが、もう遅い。通信はノイズに埋もれ、位置情報が消える。


 俺は歯を食いしばり、走った。


 逃げるしかない。生き延びなければ、意味がない。


 だが、その道も長くは続かなかった。


 曲がり角を抜けた瞬間、銃口が並ぶ。


 完全な包囲。


 引き金に指をかける前に、悟った。


 ――最初から、こうなる予定だった。


 誰かが裏切ったのかもしれない。

 誰かが情報を漏らしたのかもしれない。

 だが、それ以上に――


 俺たちは、最初から“見られていた”。


 勝利条件は、満たしていた。

 失敗条件も、同時に満たしていただけだ。


 膝が、床につく。


 仮面の内側で、乾いた笑いが漏れた。


 終わった。


 この作戦は、最初から。


 意識が、引き剥がされる感覚だった。


 さっきまで満ちていた騒音も、光も、熱もない。ただ、重く湿った空気が肺に流れ込み、俺は激しく咳き込んだ。床は冷たく、背中に硬い感触がある。


 見慣れた場所だった。


 薄暗い室内。無機質な壁。天井の蛍光灯が、やけに白く眩しい。鼻を突く消毒液の匂いが、否応なく現実を思い出させる。


 ――戻ってきたのか。


 そう理解した瞬間、両腕に鈍い重みを感じた。


 金属音。


 視線を落とすと、手首に嵌められた手錠が光っている。わずかに動かすだけで、冷たさが骨に響いた。


 ああ、と息を吐く。


 終わったのだ。


 あの夜の世界は、もうどこにもない。

 あの仮面も、あの高揚も、すべて切り離された。


 部屋の扉が開き、複数の足音が近づく。制服姿の警官たちが、無言で俺を取り囲んだ。その視線には、好奇心も敵意もない。ただ、業務としての確認だけがあった。


 立て、と短く命じられる。


 逆らう理由はなかった。力を入れようとしても、体は思うように動かない。どこか他人のもののようだ。


 連行されながら、廊下の白い壁を見つめる。


 ――始まりだと思っていた。


 だが違う。

 ここは、終点だった。


 いや、正確には。


 俺が思い描いていた物語が、終わっただけだ。


 案内されたのは、狭い部屋だった。机と椅子が向かい合い、壁には何もない。時計の音だけが、やけに大きく響いている。


 椅子に座らされ、再び手錠の重みを感じる。


 逃げ場はない。


 しばらくして、向かいの扉が開いた。


 入ってきたのは、一人の女だった。年齢は三十代半ば。無駄のないスーツ姿で、鋭い目をしている。だが、威圧するような態度はなかった。ただ静かに、俺の正面に座る。


 彼女は一度だけ、書類に目を落とし、それから顔を上げた。


 視線が合う。


 逃げられないと、本能が理解する。


「……あなたが」


 低く、落ち着いた声だった。


「今回の事件で逮捕された――」


 一拍、間が置かれる。


「“あの集団”の中心人物ね?」


 その言葉は、断定だった。


 否定も、反論も、今は意味を持たない。ただ、事実として突きつけられる。


 俺は、ゆっくりと顔を上げた。


 仮面はもうない。

 逃げ場も、言い訳もない。


 ここから先は、俺が語る番じゃない。


 問われる番だ。


 蛍光灯の光が、やけに白く滲んで見えた。

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2025年12月26日 21:00

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