エデンの殻

常陸 花折

第1話 空を飛ぶ夢

 エディルゼアの空は、どこまでも高く、澄んでいた。

 白い雲がゆっくりと流れ、風はいつも、何かを誘うように地上を撫でていく。


 少年アドヴィアと少女イヴィアンは、その空を見上げるたび、同じことを思っていた。

――あそこへ行けたら。


 二人が住む町の外れには、使われなくなった倉庫があった。壁はひび割れ、屋根にはところどころ穴が空いているが、雨の日でも作業ができる程度には形を保っている。そこが、二人の「秘密の工房」だった。


 床には木屑が散らばり、釘や歯車、布切れ、割れた羽根のような板切れが無造作に転がっている。アドヴィアは小柄な体を前屈みにしながら、木の骨組みを組み直していた。指先には古傷がいくつもあり、新しい切り傷も増えている。


「今度は、翼を少し長くする。風を掴めるはずだ」


 彼はそう言って、何度目かも分からない設計図を床に広げた。線は何度も書き直され、消し跡で紙は薄くなっている。


 イヴィアンはその隣で、布を縫い合わせていた。針は真っ直ぐ進まず、歪んだ縫い目が残る。それでも彼女は手を止めない。布が裂ければ、また縫い直す。それだけだ。


「前より軽いよ。たぶん……ほんの少しだけど」


 二人は完成しかけの飛行機――いや、飛行機になり損ねた何か――を抱え、丘へ向かう。町の子どもたちが遊ぶ草地を抜け、風の強い場所まで歩く。


 走る。

 跳ぶ。

 そして、落ちる。


 機体は風に煽られてよろめき、すぐに地面へ叩きつけられる。木は折れ、布は破れ、翼は無惨に歪んだ。


 それを見て、大人たちは笑った。


「またやってるぞ」

「鳥でもあるまいし」

「空は神の領域だ」


 笑い声は、風よりも重く、二人の背中に降り積もる。


 それでも、アドヴィアは壊れた翼を拾い上げた。

 イヴィアンは破れた布を胸に抱えた。


「大丈夫……次は、もっと上手くやれる。

 今の飛行で新しい案も思い付いたんだ……!」


 その言葉に、根拠はない。だが、諦めもなかった。


 翌日も、その次の日も、二人は倉庫に通った。

 失敗して、直して、また失敗して。

 毎日毎日、空に挑み続けていた。


 空が、遠いままであることを知りながら。

 それでも、見上げることをやめずにいた。


 街の人々は、少年と少女を「変わり者」だと言った。

 空を飛ぶ機械など、誰も本気でできるとは思っていなかったからだ。


 けれど、その言葉には棘はなかった。

 工房の前を通るたび、誰かが足を止めて中を覗き、壊れた翼や歪な機体を見ては、どこか懐かしそうに笑った。


「子どもの夢ってやつだな」

「若い頃は、誰だって空を見上げたもんさ」


 そう言って、誰も二人を止めなかった。

 失敗しても、転んでも、笑われるだけで済んだ。

 エディルゼアでは、子どもの夢は叩き潰すものではなく、見守るものだと、皆が自然に知っていたからである。


 そしてある日。


 丘の上で、アドヴィアとイヴィアンは新しい機体を構えていた。

 骨組みはこれまでよりも軽く、翼は風を受ける角度を計算してわずかに反っている。布は何度も縫い直され、糸の色がまばらだった。


 風が吹いた。


 アドヴィアが走り出し、イヴィアンが後ろから支える。

 いつもと同じ――はずだった。


 だが、その瞬間、機体がふわりと浮いた。


 ほんの一瞬。

 ほんの数歩分。


 それでも確かに、地面から離れていた。


 草が下に遠ざかり、風が直接頬を打つ。

 次の瞬間には着地して、機体はまた歪んだが、二人は動かなかった。


 息を詰め、互いの顔を見て――そして、同時に笑った。


「今、僕たち飛んだよな!?」

「ええ!飛んだわ!私たち空を飛べた!」


 それを見ていた大人たちは、声を失った。

 誰かが拍手をし、やがて歓声が広がる。


「飛んだ……?」

「今、確かに……!」


 称賛の声が二人に降り注ぐ。

 変わり者だと思っていたはずの少年少女は、その瞬間、紛れもなく「成し遂げた者」だった。


 アドヴィアとイヴィアンは、壊れかけの翼を抱えながら、空を見上げた。

 まだ高くは飛べない。

 けれど、不可能ではないと、世界が証明してくれた。


 エディルゼアは、平和な世界だった。

 夢を見ても、罰せられない世界だった。

 空を目指すことが、まだ許されている世界だった。

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