第4話 直士は涙をほっとけない

「……命題が不明瞭のためお答えできかねます」


 俺は1メートルほど距離を取ったまま、答えた。

 間違っているとすれば、まず真偽を問う命題があるはずだ。それを俺は知らない。


「……ですが数式等ではなく、人間社会や個人における問題であれば答えが1つでないケースは非常に多いと考えます」


 木村さんは目元を拭う手を止め、じっと俺を見た。そして。


「……ブフッ!」


 噴き出し、口元を両手で覆った。


「神原くんは相変わらずなのね」


 笑いながら、そっかそっかと小さく声を出す。デスクに肘を突いて、額に指を添えた。


「……はぁー……」


 今度は深いため息を吐くと、背筋を伸ばして膝に手を置く。


「ごめんなさい。何か用事があったから来たのよね?」


 椅子を回し、俺の方へ体ごと向ける。俺は「お願いします」と残業申請用紙を出した。


「……後日でいい? 判子押しとくから」

「かまいません」


 俺の用事は済んだ。踵を返す。


「……」数歩進んだところで振り返った。


 点いていないノートパソコンに申請用紙を置いたまま、木村さんはただ座っている。ティッシュを引き出し、目元を拭いながら。


 ――遅い、遅いですよカンさん。わたしはもう、思い出にするって決めちゃいました。


 9年も前の失恋だ。千草のことは遥か彼方の思い出のはずだ。

 ……結局今でも、あの時の涙を見なかったことにはできない。

 故に、今の涙も見なかったことにはできない。

 俺は出入口を通り過ぎ、室内の隅へと向かった。


「……木村さん」

「まだ、何か?」


 刺々しい声を出す彼女の前に、掃除機を置く。


「一緒に掃除機をかけていただけると助かります」

「……は?」


  目を丸くした木村さんを無視して、俺は続ける。


「床の汚れが目に入ったら、掃除したくなったので。自分は反対の北側の窓際から掛けます」


 出入口とは反対側に歩を進める。やはり片隅に置いてある充電式の掃除機を手に取った。広いオフィスのため、掃除機が南北に2台置いてあるのだ。

 スイッチを入れると、鈍い音を立てて吸い込み始める。フリースペースから掛け始めた。椅子をどかし、まずは窓際の埃を取る。ソファやラックは動かせないので、周りを重点的に掛ける。しっかりと前後に動かして。

 視界の端にいる木村さんは、座ったまま動かなかった。嫌ならそれでもいい、俺の掃除する姿を見てくれるだけでもいい。「あの人何やってんだろう」でも構わない。

 他人にできることは限られている。だから、ほんのひと時でも涙が止まればいい。


「…………」


 しばらくして反対方向から、同じ鈍い音が聞こえた。デスクの間を縫って、木村さんが掃除機を掛けている。

 20時半、ふたりしかいないオフィスで掃除機の乾いた音が重なる。

 整然と並ぶデスクの周りを行き来し、北から南へと進む。真ん中で掃除機のヘッドがぶつかった。

 スイッチを切ると、オフィスは元の静けさを取り戻す。


「ご協力ありがとうございました」


 俺が声を掛けると、無表情だった彼女はふうっと息を吐いた。


「……なんか、ちょっと元気出た」

「良かったです」


 頭を下げ、掃除機を戻す。充電のランプが灯ったことを確認し、俺はまた大股で出入口へと向かう。軽く手を挙げて。


「では、お疲れ様です」

「いやここで帰るの!?」


 目の前に木村さんが立ちはだかった。


「神原くんがここまでとは思わなかったわ」


 でもと添えて、頭を下げた。


「体動かしたらちょっと楽になった。ありがとうございました」

「それは、何よりです」


 声に弾みがある。思ったより効果があったようだ。ならば、俺の目的は果たせた。


「ごめんなさいね、気を遣わせる上司で」

「自己の精神の安定化のためです。あくまで自分のためですから」

「……神原君は相変わらずね、本当に」


 木村さんは高い声を上げて笑った。腹に右手を添え、左手で鼻を押さえて。

 そして、俺に向き直った。


「もしよかったら、1杯付き合わない?」

「本当に1杯だけですか」

「……3、4杯かも」


 明日は読書会に参加する予定がある。しかし、安定化にはまだ遠いようだ。それに家で俺を待っているような人もいない。


「ノンアルでよければ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アラサーのふたり(以下「甲」「乙」という。)は純異性交遊(以下「恋愛」と 定義する。)を楽しみたい。 豊島夜一 @toshima_yaichi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画