アラサーのふたり(以下「甲」「乙」という。)は純異性交遊(以下「恋愛」と 定義する。)を楽しみたい。
豊島夜一
第1話 神原直士は動じない
失恋をしたことがある。そこで俺こと
『日々是安定、通常運行』
何事にも動じず冷静に対処できる、安定した精神を持つこと――それこそが〈幸福〉である。大学で哲学を専攻し社会人として5年目に突入した今、俺はこの命題が真であると確信している。
常に安定を心がけよ。たとえ、頭からアイスコーヒーを被ったとしても。
「神原くん! 大丈夫!?」
まず正常な認識ができているかを確認する。声のする斜め後方を向き、その主を目視する。
烏の濡れ羽色……つまり艶を帯びた黒髪のストレートボブに、グレーのパンツスタイルのスーツ。黒目がちで切れ長な瞳が鋭く光るが、威圧感はない。面長な輪郭とあいまって上品さを醸している。そんな彼女は、木村
「す、すすすみません先輩! 手が滑って!」
次いで、木村さんの左隣に立つ人物に視線を移す。栗色の髪のハーフアップで、白い肌に琥珀色の円らな瞳が印象的である。ライトブルーのブラウスとベージュのロングスカートを身にまとった彼女は、
よし、認識力に問題はない。では、前後の記憶から何が起きたのかを照合する。
「…………」
5月14日(金)の15時、木村美玖チーフがテイクアウトのアイスコーヒーを差入れにBDUワークスペースを訪れた。同僚の玉城日菜乃さんが駆け寄って受け取り、俺にも片手で渡そうとした。その際に手が滑ったらしく、空中に放たれたカップはデータ入力作業中だった俺の頭に落ちた。
「なるほど」
頭に手をやると、茶色い液体で染まった。
冷たい。氷が首筋を伝って背中側に落ち、全身の筋肉がこわばる。
しかしながら。
「問題ございません」
「いや大ありでしょう!?」
木村さんが声高に指摘する。だがやはり問題はない、なぜなら。
「ホットコーヒーでは火傷の危険性が考えられますが、アイスコーヒーにおいては凍傷の危険性はありません」
「そういうことじゃないと思うよ!?」
「ていうか早く拭きましょ!?」
玉城さんがハンカチを取り出すのが見えた。あわてて手をかざし、制する。
「コーヒーが付着して使えなくなりますから。これが適切です」
デスクに置いていたペーパータオルを手づかみで取り出し、頭から拭く。無論、俺もこの状態をあえて維持しようとは考えていない。だが、それほど慌てふためくほどのことではない。コーヒーでしかも無糖状態であれば粘性は低く、拭けば簡単に除去できる。
「先輩ホントすみません!! ごめんなさい!! うちが手を滑らせたから……」
「日菜乃ちゃんのせいじゃないわよ。私が傍まで寄って本人に取ってもらうようにすれば良かったのよ」
いやでも、と玉城さんは続け、木村さんもそれに被せる。この
「……原因を特定するには再現性に着目する必要があります。室内の気温・コーヒーの温度・カップの素材による結露の状況を測定し」
「「いやAIか!!」」
声がきれいなハーモニーを奏でる。とりあえずオチがついたようである。
◆ ◆ ◆
「――で、ワイシャツなんですけど」
肩口まで拭き終わった頃、玉城さんが切り出した。
「コンビニで新しいの買ってきます。んで、今着てるのは責任を持ってうちが回収して、洗って返します」
「いえ、そこまでしてもらわなくても結構です」
そう返すと、明らかに玉城さんの眉間に皺が寄った。
「わざとではないんですから、謝罪は言葉のみで結構です。自分のシャツですから、自分で購入します」
「そんな、ドブに落ちた猫のような先輩を行かせるわけにはいきませんよ! うちのせいなんですから!」
「コンビニは道路を挟んだ隣にあります。エレベーターを使えば買って戻ってくるまでに10分もかかりません。注目を集める可能性はありますが、それも一時的なものでしょう。それに買ったばかりならともかく、このシャツの減価償却はとっくに済んでいますので」
「金額じゃありません、うちの気持ちの問題です」
「気持ちの問題であれば自分はさっき述べたとおりなのですが……」
弱った。自分に与えた加害は結果として存在はする。しかし、過失ではあるが故意ではない。弁償のうえ洗濯までさせるのは釣り合いが取れない。不安定だ。
「まあまあまあ、ふたりとも」
そこに、木村さんが割って入った。
「落ち着いて、『順序と同意』で考えましょう?」
柔和な顔で俺たちを交互に見る。
「神原くん、まず被害者のあなたに出費させるわけにはいきません。被害が補填されることでこの一件は落着する。そういう道筋なのは納得してもらえる?」
「わかります」
「で、序列で言えば、この中で一番偉いのは誰になりますか?」
「木村さんになります。BDUのチーフですから」
「そのとおり。で、日菜乃ちゃんはつまるところ、過失の責任を取りたいのよね?」
「はい、そうなんですけど、先輩がそうさせてくれないんですもん。唐変木の朴念仁、トウヘンボクネンジン!」
「ほう、言葉遊びとして完成度が高いですね。唐変木と朴念仁がしりとりになっていたとは盲点だった。しかも最後の[ジン]が人を表しているようで、その点でもシャレが効いている」
「……はぁ、そすか」
「あー、神原くんもういいかしら」
コホン、と木村さんは咳払いをひとつして。
「だったら、こうしましょう。差入れは業務の範疇だから、今回のトラブルはチーフである私に責任があります。なので私がワイシャツ代を負担します。その代わり、日菜乃ちゃんにはワイシャツの買い出しと、汚れたシャツの洗濯をお願いします。それでどうかしら?」
「ふむ……」
弁償は上司の責任として引き取り、あくまで過失者には行為のみの償いで決着させる。
木村さんが天秤を持っていて、コーヒーで汚れた俺と走る玉城さんが皿に載り、釣り合いが取れている……そんなイメージができた。
「異議ありません」
「ラジャーです! じゃ、買い出し行ってきます!」
となれば話は早い。立替ということで、玉城さんは財布片手にオフィスを出て行った。
「……日菜乃ちゃんのこと、怒らないであげてね?」
ふたりきりになったオフィスで、木村さんが俺の隣の空き椅子に座った。
「怒る? どうしてです? 故意ではないのは彼女の様子を見ていれば分かります。もちろん愉快な感情こそありませんが、怒りの感情はありません。それに、責任を転嫁せず過失を認める姿勢は人として正しいと思います」
「さすが神原くん、ブレないわね……」
たはは、木村さんは苦笑した。
「もうちょっと柔軟でもいいと思うけど……でも、裏を返せば頼もしくもあるから。いいんじゃない? 私も神原くんの冷静さは頼りにしてるし」
「ありがとうございます」
俺とて血の通う人間である。褒められれば嬉しい感情が起こり、返報したいと考える。
「木村さんこそ、先ほどはありがとうございました。話まとめてくださって」
「ぜーんぜん、部下の揉め事を解決するのも上司の仕事だし。『順序と同意』で考えれば、大抵のことは解決するのよ」
「上長に必要なマネジメント能力とは、そういう安定感だと自分は思います」
「ありがと。お互いBDUの年長組として、頑張っていこ」
「かしこまりました」
『日々是安定、通常運行』
『順序と同意』
この2つの人生哲学が恋愛で掛け合わされるとどうなるのか――俺はこの時、まだ知る由もなかった。
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