第3話 人生初のもう一回
コントローラーは、思ったよりも重かった。
氷雨は、両手でそれを持ち上げた瞬間、わずかに眉をひそめた。
掌に収まらない。
指が、思う位置に届かない。
『無理しなくていいですよ』
職員はそう言ったが、氷雨は首を横に振った。
『……大丈夫です』
本当は、大丈夫ではなかった。
だが、この場で「できない」と言うことだけはどうしてもできなかった。
画面に表示される「READY」の文字。
カウントダウンが始まる。
3、2、1…START!
戦いが始まった。
氷雨は、親指を動かそうとするが動かせなかった。
正確には、動かしているつもりなのに画面のキャラクターが反応しない。
遅い。
ズレている。
相手の攻撃が、次々と決まる。
派手なエフェクト。
無慈悲な連続技。
氷雨のキャラクターは、ほとんど抵抗できないまま地面に倒れた。
PERFECT
画面いっぱいに表示される文字。
氷雨の胸の奥で、何かが崩れ落ちた。
――ああ。
声にならない声が、喉に詰まる。
まただ。
また、何もできないまま終わった。
家でも。
病院でも。
施設でも。
何かを始める前に、始めた瞬間に、終わらせられる。
『……難しいですよね』
職員が、気遣うように言った。
氷雨は、返事をしなかった。
できなかった。
二戦目。
三戦目。
結果は同じだった。
負け。
負け。
完敗だ。
指が、思うように動かない。
反応が遅れる。
入力が抜ける。
怒りが、じわじわと込み上げてきた。
――若さがあれば。
――目がよければ。
――手が震えなければ。
言い訳はいくらでも浮かぶ。
だが、ゲームは一切配慮しないし尊宅もしない。
強い者が勝つ。
弱い者は、負ける。
それだけだ。
背後から、かすかな視線を感じた。
共有スペースの隅に座っていた、別の入居者だった。
名前も知らない、白髪の老人。
彼は、何も言わず、ただ画面を見ている。
笑ってはいない。
哀れむ様子もない。
その無関心が、逆に氷雨の胸を刺した。
――誰にも期待されていない。
ラウンド終了。
YOU LOSE
またその文字、負けを意味することは分かっている。
氷雨は、コントローラーを膝の上に置いた。
指先が、熱を持っている。
悔しい。
ただ、それだけだった。
生きたい、ではない。
認められたい、でもない。
この負けを、なかったことにしたい。
その衝動が、胸の奥で、はっきりと形を成していた。
『もう一回、やりますか?』
職員の問いに、氷雨は即座に頷いた。
『……はい』
声は、小さかった。
だが、確かだった。
再び、カウントダウン。
今度は、技を出そうとしなかった。
ただ、立つ。
歩く。
ガードする。
一つ動かすたびに、確認する。
――今のは、できた。
――次は、遅れた。
それでも、負けた。
だが、PERFECTではなかった。
その事実に、胸がざわついた。
共有スペースの空気が、わずかに変わった。
さきほどの老人が、ぽつりと呟いた。
『……今の、少し動いてたな』
それだけだった。
賞賛でも、応援でもない。
それでも、氷雨の胸には、十分だった。
負けた。
だが、返せる気がした。
氷雨は、画面を見つめながら静かに思った。
――次は、この一発を返す。
――その次は、もう一つ返す。
勝ちたい、ではない。
ただ、負け越したまま終わりたくない。
その執念だけが、氷雨を椅子に縛りつけていた。
夜桜氷雨、九十歳。
人生で初めて、自分から「もう一回」を選んだ瞬間だった。
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