One Frame Life

如月 睦月

第1話 つめたい雨

夜桜氷雨よざくらひさめは、自分の名前が嫌いではなかった。

けれど最近は、その名を呼ばれることもほとんどなくなった。


九十年生きてきた体は、もう季節の変わり目についていけない。

膝は立ち上がるたびに鈍く痛み、指先は冷え切って、朝になると感覚が曖昧だった。

それでも、身の回りのことはまだ自分でできた。

だからこそ、家族の視線が痛かった。


食卓に座るたび、息子とその妻の会話は、必ずどこかで歪んだ。


『あなた、またお義母さんの病院?』

『仕方ないだろ。転ばれたら大変なんだから』

『でも、私だって仕事があるのよ』


声は抑えられている。

だが、抑えた声ほど、氷雨の胸にははっきりと刺さった。


自分が原因だと、言われなくてもわかる。

この家の空気が重いのは、自分が生きているせいだ。


決定的だったのは、孫の一言だった。


『ねえ、おばあちゃん』


六歳の小さな声は、無邪気で残酷。


『おばあちゃんがいるから、パパとママ、いっつもケンカしてるんだよ』


氷雨は、その言葉に何も返せなかった。

ただ、微笑もうとして、うまく口角が上がらなかった。


 ――ああ、そうか。


その夜、氷雨は自分の部屋で、静かに首を吊った。


 死ぬつもりだった。

 迷いはなかった。


だが、ドアを開けた息子の叫び声で、世界は暗転した。


    *


 白い天井。

 消毒液の匂い。

 喉の奥がひりつく。


 『……気がつきましたか』


看護師の声が遠い。

氷雨は、天井を見つめたまま、小さく息を吐いた。


 ――失敗した。


それが、最初の感想だった。


その間に、すべては決められていた。

施設入所の手続き。

退院日。

家には戻らないという選択。


誰も、氷雨に意見を求めなかった。


    *


施設の部屋は、静かすぎるほど静かだった。


ベッド、机、テレビ。

窓の外には、よく整えられた庭。

季節ごとに花が咲くらしいが、氷雨は興味を持てなかった。


花なんかどうでもいい。


食事は部屋で取る。

配膳車が来て、笑顔で職員が運んでくるが、

無言で受け取り、食べた食器は無言で置く。


デイサービスには参加していない、入浴の時だけ。

職員に文句も言わなければ、声を荒げることもない。


『無理に交流しなくていいですからね』


そう言われたとき、氷雨は心の中で苦笑した。

 ――最初から、誰も私に期待などしていないのだ。


廊下ですれ違う他の入居者とも、言葉を交わすことはない。

皆、それぞれの終わりを、黙って待っている…そんな気がした。


夜、ベッドに横になると、天井の小さな染みが目に入る。

それを数えているうちに、眠くなる。


朝が来て、また一日が始まる。


 ――生きているだけ。


それ以上でも、それ以下でもない。


氷雨は、自分の胸に、何も残っていないことを自覚していた。

悔しさも、怒りも、希望も。

ただ、早く終わればいいという、淡い願いだけがあった。


この人生には、もう何も起こらない。

そう、信じていた。


 ――この日までは。

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