吸血鬼のあの子は暖かい
月野 咲
第七章 最後の外出
時間はあっけなく過ぎて、明日には旅行の日になった。行先は城崎温泉。
つまり、彼女と別れるまで後数日になったということだ。一泊二日のいつもよりも長く、短い旅。自分の分と彼女の分の下着と次の日の分の服はすでにカバンに入れた。
「まじで楽しみ!」
「そうだね。俺も初めて。なぎさはどこか行きたいところある?」
「それが無いんだよね。今から探そっか。どうせ家を出るのも夕方だもん」
「だね」
携帯で城崎温泉周りの観光スポットや遊ぶ場所を探してみる。といっても俺たちは太陽が出ている間は活発に動き回ることが出来ないので、殆ど旅館で過ごすことになるだろうから行けて二カ所くらいだ。
「ここ行こ。夕日ヶ浦海岸!」
携帯をこちらに向けて見せる。
「花火大会の時に行ったところと違うの?」
「違う。今回は夕方に行きたい」
「はあ? 死ぬからダメに決まってるじゃん」
「大丈夫。死なない死なない。夕日くらいなら大丈夫だよ。すこーしだけ体力使うだけ。そんで―」
「食事量が増える。そうでしょ?」
彼女が言いたい事は分かっているので先に答える。
「正解。だからけいたが良いならって感じなんだけどいい?」
「今更断るわけないじゃん。それになぎさも断らないって分かって言ってるでしょ」
「まあね」
彼女の頬が紅潮しているように見えた。
「俺は良いんだけど、本当に大丈夫なの?」
「夕日は何故か大丈夫。朝日は全く駄目。暁光ですらも体が寄せ付けなくて消えてしまいそうになる」
暁光という言葉が何か分からなかったけど、朝日の光の事なんだろうという事くらいは頭の中で補完出来た。
「ほら前に太陽光に触れたの見たでしょ?」
「…ああ、見た」
確かにあの時シルクのような軽い太陽光だったのに彼女の体から泡のようなものが浮き上がっていた。
「あんな感じで、多分、数分で死んじゃうんだけど夕日は死なないんだ。何故か分からないけどね。もしかしたら可哀想だから夕日だけは許してくれたのかもね」
カーテンから薄っすら見える空は紫色になっていた。
太陽が昇ってから眠って起きたのは十五時過ぎだ。俺の方が先に起きた。彼女の部屋に行って起こしに行く。
ノックをすると「はーい」という声が聞こえる。すでに起きているらしい。
「入っても大丈夫?」
「いいよー」
入ると彼女は既に着替えていた。長袖長ズボンに帽子を被って、準備万端だ。
「さ、行きますか」
「行こう行こう」
勢いよく言ったは言いもののまだ外は明るい。夕方にもなっていない。
こんな中で彼女を連れ回したら亡くなってしまう。すぐにタクシーを呼んだ。程なくしてタクシーが来たので彼女を連れていく。まるで逃亡中の有名人を隠すかのように顔まで服をかぶせて、日光が一切当たらないようにした。
自分も同じように彼女の隣に座って目的地を運転手に伝えた。かなり遠いので運転手は驚いているようだったが、嫌な顔はしていなかった。遠い分お金はもらえるだろう。
タクシーには遮光カーテンがついていたので遠慮なく使わせてもらう。
動き出してすぐに彼女は大きな欠伸をした。
「眠ってていいよ。俺の膝貸してあげるから。シートベルトしながらでもしかしたら寝にくいかもしれないけど」
まだ彼女は寝ている時間だし、旅行の準備などであまり寝ていないはずだ。
「ほんと? ありがと。かなーり疲れてるから寝るね」
「いいよ。おやすみ」
睡眠不足の上に太陽の光が薄いながらも、当たったから体に疲労が溜まっているのかもしれない。
彼女は俺の膝に頭を預けた。頭を撫でているとすぐに寝息を立て始めた。念のために持ってきていた厚めの上着を彼女の頭にかけた。
すぐに高速道路に乗って目的地に向かい始めた。ここから目的地までは約三時間から四時間の旅になる。
「お客さん旅行ですか?」
俺が暇だと思ったのか、運転手が話しかけてきた。
「そうです。旅行です」
「いいですね。城崎温泉。私も好きです。疲れを癒したい時に行きますよ」
「俺もこれからそうしようかなと思います。…大切な思い出の土地になると思うので」
彼女の肩を撫でた。
この機会だから運転手に話を聞こうと思った。
「こんなこと聞いていいかわからないんですけど、これまでに変な客乗せたことってありますか?」
本当に聞きたいことは吸血鬼を乗せたかどうかだ。しかしストレートに聞いたら彼女が疑われる可能性がある。それだけは避けないといけない。
「変な客ですかあ…。そうですねえ」
過去を思い返すかのようにハンドルを指でトントンと叩く。
「いろいろありますけどねえ。どんなのを聞きたいですか?」
「…例えばですけど、人じゃないものを乗せた事ってあります?」
「あー、ありますよ。幽霊とかその類って事ですよね?」
即答したから驚いた。本当にこの世界には怪異は当然のようにいるらしい。
「そうです」
「それこそ最近、話題になってる怪異物って言うんですか? 乗せたことありますよ」
彼女のような人ならざる者の事だ。あの部活が探し求めているそのものだ。
「どんなのか聞きたいです」
「吸血鬼ですね」
運転手の放った言葉に驚いた。最も願っていた答えが返ってきた。
「あれは忘れませんよ。目の前で死んだんですよ」
「え?」
「その反応になりますよね。深夜のあれは確か三時過ぎでしたかね。あ、そうそう。これくらいの時期だったと思います。とびきり美人の女の人で太陽が出るまで永遠に車を走らせてくださいっていうんです。まあ、言ってしまったら二時間程度ですよ。永遠と走らせていくわけです。
その間話をずっとしていてですね。
もう少しで太陽が出てくるなという時に、そのお客さんが『私吸血鬼なんです。分かりました?』って言うんです。
「分かりませんでした」そう答えるのが精いっぱいで、状況を飲み込めていなかったんですけど、無理やり納得させたことを今でも覚えています。
『優しい人ですね。早くにあなたのような優しい人と会えていたらもっといい人生を送れたのかもしれないです。一つお願いいいですか?』
そんな事を藪から棒に言うんです。
私も男ですから美人の願いは断れない訳で「いいですよ」と答えたら『太陽が出たら私、死ぬんです。その瞬間、見ていてくれませんか』と言うんです。何でなのか、今思っても分からないのですが「良いですよ」と答えてしまったんです。
「ありがとうありがとう」と凄い感謝しながら言いましてねえ。結局のところ太陽が出てきて光の粒みたいなものが体から出てきてそのまま一切何も無かったかのように消えたんですよ」
「それでどうしたんですか?」
ウインカーの音が鳴ってすぐに右車線に移動する。
「その日は仕事がなかなか乗り気になれませんでしたよ。会って数時間の人でしたけど、目の前で死んだんですから。死生観が変わった感じがしましたね。いつ死んでも後悔はないですね。太陽の光に当たるだけで、死ぬものも居るんだから普通に生活して結婚して楽しく生きてるんだからもう充分だな、って思うようになりましたね」
「…なるほど。凄い経験です」
自分も死生観は変わりつつある。彼女と出会うまでは「死」というものに対してあまりにも遠く自分には関係ないと思っていた。
でも彼女と会ってからは死というものが色濃く眼に映るようになった。動物の死。そして昔からの友人がなぎさを殺そうとしている事。
おじさんの言葉はまだ体の中で咀嚼していた。いつ死んでもいいなって思う。
自分と会った事で、これからやれる事は増えていくに違いない。しかし、それを彼女に告げるのも良くないとも感じてしまい、口に出すことは出来ない。
もう彼女と一緒に過ごせる時間は数日しかないというのに。
寝ている間に目的地に着いた。城崎温泉駅だ。良い感じに太陽は傾いて地球に半分ほど食べられかけている。
新たなタクシーを捕まえて、夕日ヶ浦海岸に向かう。彼女はまだ元気がないらしかった。太陽の光に当たって体力がかなり奪われているように見える。はやく自分の栄養を彼女に渡したいが、こんな人通りが凄い所では出来ない。旅館まで我慢してもらうしかない。
タクシーに乗っている間も彼女は話す力さえもセーブしているようで、ずっと俺の膝で眠っていた。タクシーの運転手も察したのか、こちらに話しかけることなくただ静かに目的地に車を走らせた。
程なくして着いて、海岸に向かう。
長袖長ズボンでつばの深いハット。真夏にこんな格好をしているのは彼女だけだ。彼女がとびきり美人なのも相まって注目の的だ。
「大丈夫?」
「…大丈夫」
疲労がたまっていて歩くのも限界というレベルに見える。
「ほら」
彼女の前に座る。
「おんぶしてやるから」
彼女はすぐに体を預けた。以前おんぶした時よりも彼女の体は軽くて胸が痛くなった。
「ありがと」
波音で途切れそうなほどか細い。
「良いよ。じゃあ行こう」
波打ち際まで彼女をおぶると彼女はまるで溶けるかのように俺の体にもっと体重を任せるようになっていく。波の反射が彼女を照らしている。
「あの道もっと近くで見たい」
「道?」
「ほら海にあるでしょ」
海を注意深く見ると道があった。太陽の光でできた、一本道。途切れながらも太陽まで続く道はまるで動脈のように太く強さを感じる。
「あそこね」
道の終わりの砂浜に彼女を降ろす。
「綺麗だね」
太陽が背中に背負った彼女を温める。徐々に軽くなって力が弱まる彼女は太陽を浴びれば炙りほど人間に近づいているように感じた。
「うん。初めて太陽の光を浴びた。心地いいね。皆が夕日を浴びた海を好きな理由が、やっとわかった」
「俺もやっと分かった。洗われる感じがするね」
夕日は憎らしいのに美しい。
「文字通り洗われそう」
彼女は笑って言う。
「ダメじゃん」
「みんな楽しんでるね」
海で遊んでいる人たちを見ながら、羨ましそうに呟く。綺麗な海に入る事さえ許されない。彼女が人間だったら。
「見てるだけでも楽しい」
「…だね」
彼女に海を体験させたかった。でもこの状態で彼女を海に入れたりしたら海に溶けて亡くなってしまうに決まっている。
数分太陽を見て海から去った。彼女はもっと太陽を見たがっていたけど帰ることにした。こんな所で亡くなってしまったら嫌だ。
旅館に着いた。旅館に着いた頃にはもう陽は落ちていて太陽の光は見えないけど、まだ明るい。
「そこで座ってていいよ。やっとく」
部屋の説明や夕食や朝食の説明などいろいろと説明を受けて、やっと部屋に案内される。床踏む音や自然から流れる音が耳に心地よい。
すぐに彼女は食事を求めているようだったので首元をはだけて彼女に差し出した。首を目の前にして一瞬ためらったのちに、噛みついた。栄養だけじゃなくて俺の心まで吸われていくようだった。
吸い終わると彼女はみるみるうちに元気になっていく。
「やっと元気になってきた」
さっきまでの萎むような声はどこかに行っていつもの元気な声が戻ってくる。
彼女は嚙みついた首元を撫でた。
「ありがとう」
それが最後の食事かのように静かな感情を込める。
「いくらだってしてくれていいから」
離れないように添えられた手に指を絡ませた。
彼女は目を逸らして手を引いた。
「さあご飯行こう」
すぐになぎさを連れてご飯どころに行く。コース料理で順番にご飯が運ばれるので、彼女の分のご飯も一緒に食べやすい。
「美味しい?」
「美味しい。今まで食べたご飯の中で圧倒的に美味しい」
「流石いいとこなだけある」
次の料理が運ばれてきてまたすぐに食べた。周りの客は俺たちをどう見ているんだろう。二人分を食べている子どもを見ておかしいと思っているのだろうか。カニや見たこともないようなものやいろいろ運ばれてきたが、全部美味しい。
そうしてご飯を食べ終わって部屋に戻ると布団が既に敷かれていた。
「いっぱい食べてたね」
「そうだね。またどうせ腹も減るだろうしコンビニ行かないとダメだろうな」
「だねー」
布団で三十分ほどダラダラとしてから広縁に向かった。
「やっぱいいね日本」
「なにそれ急に」
「綺麗だと思わない?」
窓の外を見て、目を細めて体の力が抜けていた。
「侘び寂びってやつ?」
「そう。落ち着く」
適当に話しながら時間を過ごした。
「温泉入る?」
「そうだな。入ろうか」
「そういえば貸し切り温泉あるらしいんだけど一緒に入る?」
彼女は顔を伏せながら照れくさそうにくちをすぼめる。
「…照れるくらいなら言わなきゃいいじゃん。俺は入らないから」
入れる訳ない。女の人と一緒にお風呂に入れるほど俺は大人びていない。もっと大人になったら入れるのだろうかと考えてみるけれど分からない。この羞恥心は大人になったら無くなるのだろうか。でも彼女は俺よりも随分と大人なはずなのに、恥ずかしそうにしているしそういう訳でもないのかもしれない。
「ははは。普通に温泉に入るか」
「…だね」
実際彼女と一緒に温泉に入りたいと思ったけど言わない。部屋から出てそれぞれの温泉に向かった。俺は温泉が特別好きでも嫌いでもないので、十分ちょっと浸かってから温泉を出て、宿で貸し出されている浴衣に着替えてブックライブラリーと呼ばれる場所で彼女を待つ。
数分待っても彼女が来ないので心配になる。女の人だから男の俺よりも時間がかかる事は理解しているけど、それでもやはり、彼女は吸血鬼で普通じゃないからどうしても不安になる。
物音のない通学路のような言いようのない不安がよぎる。旅館の人に言って、見に行ってもらおうか、と思案していると彼女の声が聞こえた。声の方向に顔を見せると彼女が居て糸が解けていく。
「どうだった?」
「まあ、正直あんまり落ち着けなかった。…やっぱり貸し切り温泉予約しようよ」
「一人で?」
「一人で入るくらいならけーちゃんも一緒に入った方が良いよ。折角ここまで来たんだから入らないのは勿体ないよ」
入りたいけれど入りたくない。今考えるだけで恥ずかしい。
でも彼女の願いを叶えると決めた。彼女のやりたいことを叶えることができる。この一か月ほど願っていたことだ。緊張と興奮が息を荒くしようとする。何とか深呼吸して落ち着いて彼女に答える。
「…分かった。じゃあ借りとく」
貸し切り温泉に入るのは二十二時過ぎにすることにした。遅くにしたのは自分の気持ちを固めるのが理由と、早めにコンビニに行きたかった二つの理由だ。
部屋に戻ってすぐに広縁で少しだけ休憩して宿から出た。
「コンビニで何か買いたいものあるの?」
「…え? ああ食べれるものだったら、何でもいい」
緊張が止まらない。彼女と一緒にお風呂に入る事を考えると緊張する。タオルを巻いたまま入る事は分かっているけど、それでも緊張する。
「ねえ」
「何」
「けーちゃんってちゃんと学生だよね」
彼女は揶揄ったような口ぶりで言う。
「はあ?」
「どうせお風呂の事考えているんでしょー?」
図星を付かれる。
「俺はまだ子どもなんだから緊張するに決まってるじゃん。そっちはしないのかよ」
口調を少しだけ強くして言う。
「そりゃするけれど恥ずかしさよりも私はけーちゃんと入る方が楽しみだからさ」
「…俺は無理。緊張する」
「今のうちに経験してたら将来恋人と一緒にお風呂に入る時、緊張しないで大人ぶれるよ」
将来の恋人を作る事なんてどうでもいい。俺は今、なぎさが居たらいい。
「その為の前準備的な感じで入ろうよ」
カランコロンという日本らしい下駄の音がリズムよく聞こえる。見渡す限り浴衣を着ている人が殆どで新しい日本という感覚がした。
しだれ柳が規則的に並んでいる。川面に映る木造家屋が青色を濃くしている。流れてくる夏風は気温以上に涼しく感じる。この風を受けていると温泉に入りたくなる。数十年数百年と吹いているうちに風が温泉に入りたくなる成分を含み始めたのかもしれない。
買いたい物だけ買って旅館の部屋に帰った。
「温泉行こっか」
「うん」
帰ってきて予約した時間になったので貸切温泉に入る。視線が忙しなく動いてしまう。視線が、服を脱ぐ彼女に吸い寄せられそうになるのを必死に理性で抑える。
「ねえ。髪の毛しばって?」
彼女は突然言う。
「は?」
脱衣所で声が響く。反響して何度も声が聞こえると彼女の差し出すヘアゴムを視認出来た。
「お願い」
自分で出来るだろう。なんで俺が。今も緊張で体が破裂してしまいそうなのに。
「…分かった」
受け取って後ろ髪を縛る。浴衣からのぞくうなじを視界に入れないように髪の毛を突き刺すように見続ける。髪のまとめ方なんて知らない。湿った髪の感触が艶めかしい。
縛り終わって、すぐに彼女から離れた。「ありがとう」というどこかに投げた声が反響して返ってきても言葉は返さなかった。
「先入っとく」
彼女の方には目を向けずに言うと「分かった」と気の抜けた返事をする。自分だけ気にしている事に恥ずかしさがまた強くなる。
流れ出る水の音だけが今の頼りだ。脱衣所の方に傾けられてしまう耳を水の音に傾けさせる。
かけ湯をして温泉に入り脱衣所とは別の方向に目を向ける。
一秒がとてつもなく長く感じる。水面に映る波紋を眺め続ける。
視線の置く場所を意識しているせいなのか彼女が入ってくる事を待っているからなのか時間が長く感じる。
数秒経って脱衣場に繋がるドアが開く音が響く。耳がその方向に動く。釣られるように視線も動いてしまいそうになるが抑える。
ペタペタという軽い足音は水が心に染みこんでくるような感覚がした。
ちゃぽんという音が聞こえる。
「気持ちいいね」
こちらに向かって話しかけている。
「…だね」
風呂場で話すことは無かった。どちらも静かに入って聞こえるのは、水が流れる音や水が温泉から流れ出る音だけだ。
彼女と一緒のお風呂に入っているせいなのか、たった数分でのぼせてきた。
「早いけど出るわ。ごめん」
お湯から上がって脱衣所の方に向かうために視線をそちらに向けると温泉に浸かっている彼女の白い背中が目を襲う。
時間が止まったかのように体が動かなくなった。
「ん?どうした?」
彼女の声を聞いて意識が戻る。
「いや、なんでも」
彼女がこちらを向いていなくてよかった。俺がなぎさに見とれていた事は知られたくない。
彼女の方を見ないように気を付けながら風呂を出て服を着て出た。
宿にある日本庭園の前にある椅子に座って彼女を待つ。日本庭園がいまだに人気があるのか分かる。心が落ち着く。
一度部屋に戻って水を二本持ってきて彼女を待つ。
数分待っていると彼女が出てきた。
「気持ちよかったー」
「それはなによりで」
彼女に水を手渡す。
「気が利くね。ありがと」
「どうだった? 落ち着いて温泉に入れた?」
「入れたー。最高だね。一応聞くけどけーちゃんはどうだった?落ち着いて温泉に入れた?」
「じゃあ俺も一応言うけど落ち着いて入れるわけないじゃん。初めてあんなに緊張した。心臓がずっと飛び出てきそうだった」
静かな旅館の雰囲気を壊さないようにか上品に笑う。
「だと思った。全然話さなかったもんね」
「仕方ないだろ」
「ふふ。次誰かと入る時は緊張しないようにね」
彼女は柔和な笑顔でにこりと笑う。彼女の笑顔を見ると胸が苦しくなる。あと三日で彼女とは会えなくなる。そう考えると今のうちに全てを見ておかないといけない。
しかし彼女の顔を凝視するのは恥ずかしい。
横目で彼女を見ていると雨が降り始めた。
「雨だ」
「本当だ。雨久しぶりだ」
葉っぱが雨の重力に負けてしだれる。雨雫が落ちる。定期的に落ちる雨雫はまるで俺の涙のようで瞳がじんわりと熱くなる。
「そろそろ台風の時期だからこれから雨がふりはじめる」
「もっと雨が降る時期に出会うことが出来てたらな。お昼過ぎにも外で遊ぶことが出来たのに」
「じゃあ…」
勢いのままに口を開いたけれど、続きを言うのは躊躇われる。何度も抑えてきたのに今更言うのは、彼女の決断を尊重していないことと同義だ。
「でも時期が違かったら私たち出会っていないからね」
彼女は言葉の続きが分かりきっていたのか先に答えた。俺の言葉の先は消えて無くなる。今ここで言ってしまったら、彼女は生きる事を心の底から諦めるように思えた。
「でも夜に雨降ってよかった。夕方に雨が降ってたら多分夕日見れてなかっただろうしよかった」
「それはそうだな。ビーチはよかった?」
「めっちゃよかった。だって初めて夕日を見たもん」
「ここの夕日はいつもより綺麗だったな」
「そうなの?」
「海に照らされた先にある夕日なんて見ることないから」
「そうなんだ。見れてよかった」
心底、嬉しそうな顔をする。彼女を連れて行ってよかった。
「…こんなに良かったらまた来たくなっちゃうよ」
彼女の瞳は窓に垂れる雨粒のように濡れている。目に映るそれが彼女の涙なのか、それとも雨なのか分からないし、分かりたくなかった。
言えば良いだけ。
「今年の冬に行こうよ」って。「また違った景色が見えてまた来たくなるよ」って。「来年また来たら違う景色が見えてもっと良いかも」って。
でもなぜか言葉に出せない。
なぎさと契約を果たした時みたいに動け自分。動かないと変わらない事は分かっている。
…断られたら希望が消えるから言えない。
「…だね。そうだよね」
「明日家で過ごさない?」
彼女は潤んだ瞳から涙を落とさないように口元だけで笑いながら言った。
「うん。そうしようか」
「…雨いいよねえ。何もかもを隠してくれるもんね」
彼女の沈黙の間を雨の音が埋める。
「隠さないでいいものまで隠すけれどね」
彼女の涙を隠したのは紛れもなく雨だ。
外を眺めていると欠伸が出た。時計を見てみると二十二時を超えている。それに釣られたのか彼女も同じように大きく口を開けて、くあと欠伸をする。
「眠たくなっちゃった?」
「そっちこそ眠たくなった?」
「雨の音聞いてたら眠たくなってきたかも」
「そうかも。私もいつもこんな時間に眠たくなることないし」
夏休みに入ってから夜型の生活をしているからこんな時間に眠たくなるのは久しぶりだ。極度の緊張によって疲れているのかもしれない。もちろん、彼女も今日は太陽に当たって疲労しているだろう。
「じゃあ一回部屋に戻るか」
顔に当たる冷たい風で目が覚めた。薄らと明るい空が、夜が明けた事を知らせていた。隣の布団を見てみると彼女の姿がなかった。焦らなかったのは広縁に人影が見えたからだ。
彼女は物思いに耽って外を見ている。
「いつからそうしてたの」
向かいの席に座りながら言った。彼女は驚いた表情をしてこちらを向く。
「あ、おはよう。一時間くらいかな」
「おはよ。そんな早くからそこに居たんだ。眠れなかった?」
「そうだね。寝れなかった。また移動中寝ちゃうかも」
「だろうね。携帯見とくから大丈夫だよ」
「良かった。まだ朝ご飯には早いから外を散歩しない?」
「いこっか」
浴衣のまま外に出た。念のため、鞄に入れておいた折りたたみ傘を開くと二人で入るには小さくてお互いの肩に雨が当たる。
人が少なく雨で歌う町は耳心地が良く歩いているだけで癒される。
「ここは涼しくていいな」
「私も来世はここみたいに夏に涼しい所に生まれたいな」
「来世ってあるのかな」
彼女雨が降る空の方を一瞥して答える。
「…分かんない。生まれ変わったら会いに来るって言ってた人も居たけど、結局、一人も居なかったな。どうなんだろうね。結局私たちって悪い事をしてるから生まれ変われないのかも」
何も言えない。
「でも生まれ変われたらいいな。そしたらまた会いに来るよ。次は私も人間になって直接ね」
「…待ってる」
「今のうちに少しでもいい事しておこうかな。けいたの肩濡れてるから傘一人で使っていいよ」
「そんなこて先だけの親切意味ないよ」
二人の肩が雨に濡れて体の輪郭をなぞっているようだった。このまま二人して雨に溶けてしまえば一緒に同じ未来を生きていけるのに。色が薄れていくように雨で吸血鬼と人間の境目が滲んでくれることを願った。
彼女は笑う。
「そもそもなぎさはそんな事しなくても大丈夫なくらいいい人だと思うし、生まれかわれるよ」
根拠のない自信だけど、言い切るしかなかった。彼女が生まれ変わってまた会うことが出来るならそれでいい。
「そうだね。次は人間にさせてくれると信じる」
「…だね」
宿に帰ってご飯を食べる。このご飯を食べると喉がご飯を通したがらない。美味しいはずなのに味が無い。
宿を出たから荷物だけ持って駅まで来た。
「さて帰ろっか」
土産屋さんで親へのお土産を買って電車に乗った。電車内は人も少なく過ごしやすい。
電車から見える景色は少しずつ山景色から都会の空気を匂わせていく。雨が触る窓景色は見ているだけで、将来を想起させるようでどことなく数日後の自分を表しているようだ。
隣を見ると、彼女がうとうとしていて窓景色なんて眼中にないらしい。実際彼女くらい生きていたら景色は興味がなくなっていくのかもしれない。
一時間ほど走って乗り換えてまた景色を見る。
十二時過ぎだというのに厚い雲と周りを包む雨景色のせいで暗く、まるで夕方過ぎみたいだ。夢のようにぼやけている景色は頬を撫でているかのようで、どこか懐かしさを覚える。
雨音が混じる車掌の声が、なんとも心地よく、うたた寝してしまいそうになるたびに彼女の寝息や肩に触れる彼女の冷たい体が眠気を覚ます。
彼女の髪の毛に手を触れる雨による湿気のせいかしっとりとして普段よりもうねっている。湿気なんかの影響で変化している彼女をみるとまだ生きるんじゃないだろうか、と感じる。
窓の外を見ていると電車がゆっくりとスピードを緩めていく。まだ快速列車の止まるような駅でもないのに、遅くなって遂に列車は止まってしまった。何が起こったのだろうか、と思案しているとアナウンスが流れた。どうやら先に走っていた電車で人身事故が起きたらしい。携帯で調べるとどうやら未遂で終わったらしい。
なんで死にたくなったんだろう。彼女が寝ていて時間が空いているからなのか考えすぎてしまう。
仕事によるストレスから飛び込んだのだろうか。仕事が辛かったのか。それとも人間関係の不和なのか。
死がいやに目に映る。
死にたいくらいなら仕事なんてやめてしまえばいいし人間関係が原因ならその人と関わらなければいいのに。逃げてしまえばいいのに。やることが無くなったなら、またやることができるまで生きていればいいのに。
彼女が起きていたら、何を話していただろうか。自殺するなんてダメだ、って事を言うだろうか。それとも自殺しようとした人に共感するようなことを、言うのだろうか。
何にしても彼女が起きていなくてよかったと思う。あと数日で死のうとしている彼女に自殺を匂わせたくない。
車掌が駅の名前を呼ぶ少し前に彼女は自分で起きた。
俺らより後に乗ってきた乗客は、俺たちよりも早く電車から降りていってしまってなんとなく電車から降りるのが恋しくなってしまう。ぎりぎりまで窓から景色を見ていると彼女が「着いたよ」と言ったので降りる事にした。
着いた頃には雨空のせいで夜みたいで、冬の夕方過ぎみたいだ。
「久しぶりに帰るから緊張するな」
「俺の家族と会うのが緊張するの?」
「そう」
「俺の家族よりももっと心配しないといけない奴らが居るでしょ。ここからは気を付けて家に帰らないと。タクシーで帰ろ」
「そうだね」
すぐにタクシーを呼んで家に帰ったおかげかあいつらに会う事はなかった。家に帰ってくると母が玄関まで来て「おかえり」と糸が切れたかのようなほっとした顔で言う。
「ただいま。これおみやげ」
お土産を渡して自室に戻る。疲労がたまっていたので出来るだけ早く風呂に入って一度眠りたかった。彼女と一緒に居られるのも残り二日程度だ。二日は眠らずに彼女と一緒に過ごしたい。
庭先のつぼみが雨に当たって何度も折れそうになっていた。それでも、なんとか咲こうとしている。
幸せを抱きしめてこのまま一緒に生きていきたいと、ただそれだけを思った。繋ぐ彼女の手を温かくなるために強く。
吸血鬼のあの子は暖かい 月野 咲 @sakuyotukinohanaga0621
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