水をやる男
鳴貍
#1
朝は6.30に始まる。
アラームは鳴らない。目覚める時刻は、いつも正確だった。
白い天井。滑らかな照明。規則的な換気音。
この部屋で目を覚ましたのは何度目だろう。
少なくとも数えられるほどではない。とても多いのだろう。
洗面台の前に立つ。
鏡の中の男は若く、健康で、どこにも異常がない。
それが少しだけ不安に感じていた。
昨日も同じ顔だった。その前の日も。変化がないことは、安定を意味するはずだ。だが、鏡の中の男は時おり、彼を見ていないような気がした。視線が微妙にずれている。ほんの数ミリ。気のせいだと思う。思うことにしている。
歯を磨く。
泡が口の中で広がる。味は薄荷だ。
——薄荷?
その単語が浮かんだ瞬間、舌の上で味が変わった。もっと古い、もっと苦い何か。井戸水のような冷たさ。彼は吐き出し、口をすすいだ。鏡を見る。唇が震えていた。
仕事は9.00から。
書類に署名をし、端末を操作し、同僚と必要最低限の会話を交わす。
自分の名前は知っている。
ケンジ・アオキ。
端末にも、デスクのネームプレートにも、そう書いてある。
ただ、それが本当に自分のものかどうかは分からない。
声に出して言ってみたことがある。「ケンジ・アオキ」。音として不自然ではない。だが、自分を指す記号としては、どこか嘘くさい。誰かが用意した衣服を着ているような感覚。サイズは合っている。だが、自分で選んだ記憶がない。
「アオキさん、これ確認してもらえますか」
同僚が書類を差し出す。
彼は受け取り、目を通す。数字の羅列。承認欄。彼はペンを取り、署名する。
青木賢治。
手が勝手に動く。この字を何度書いたか分からない。
「ありがとうございます」
同僚は去っていく。
彼は自分の署名を見つめた。
この字は、本当に自分が書いたのだろうか。
昼休み、建物の中庭に出る。
無機質なコンクリートの壁が、等間隔に並んでいる。地面はタイル張り。植物はない。水はけのための排水溝だけが、格子状に走っている。
備え付けのホースがある。
使用目的は清掃だ。月に一度、業者が来るまでの簡易的な維持管理として、各フロアの職員が当番制で水を撒く。今日は彼の番だった。
彼は蛇口をひねり、ホースを手に取った。
水が流れ出す。
彼はそれを壁に向けた。
その瞬間、視界がじんわりと溶けた。
壁は消え、そこには庭があった。
低い木。湿った土。古びた石畳。苔の匂い。
彼は慌てなかった。
むしろ、懐かしさに近い感情が胸に広がった。
『…そうだ。今日は水をやる日だった。』
一日に一度。
朝食のあと、必ず。
誰がそう決めたのか。彼は知らない。だが、そうすべきだという確信があった。
——なぜだ?
ふとそんな疑問が脳を走った。
水は壁に当たり、弾いて床を濡らす。
だが彼の目には、土が水を吸い込む様子がはっきりと見えていた。根が水を求めて伸びる。葉が濡れて光る。小さな虫が逃げていく。
「……終わったか」
誰に言うでもなく呟いた声は、少し掠れていた。
その声だけが、今の世界に属していた。
彼は蛇口を閉め、ホースを戻した。
振り返ると、同僚が数人、遠くから彼を見ていた。
「どうかしましたか」
一人が近づいてきた。
「いえ、何も」
「ずいぶん長く水を撒いてましたね」
「そうですか」
時計を見る。12.47。昼休みは13.00までだ。彼は何分、あの庭を見ていたのだろう。
同僚は何も言わずに去った。
彼はもう一度、コンクリートの壁を見た。
ただの壁だった。
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