第10話
マリーナは撃退されたのち、血まみれのまま泥を跳ね上げて馬を走らせ、夜の山道を抜けてリディアの本陣へたどり着いた。
雨に濡れ、額からはまだ血が流れ続けている。私兵たちも半ば気絶しかけていた。
本陣に入ると、焚き火の明かりに照らされた筋骨隆々の影が立ち上がる。
「戻ったか、マリーナ。……そのザマはなんだ?」
リディアは酒杯を持ったまま笑った。
その顔立ちはどこかあどけなさの残る可愛らしさがあるのに、立っているだけで圧がある。
背は高く、肩幅は広く、強靭な両腕には幾重もの傷跡が刻まれていた。
「男……に敗れました……」
マリーナの言葉に、リディアは腹を抱えて笑う。
「ははっ! 男だと? そんなものに負けて戻るとは、よほどの恥だな。
まあいい。敗者は敗者なりの働きをすればいい」
マリーナはくやしさに唇を噛む。
腰まで届く赤髪は泥と雨で乱れ、胸当ては割れてかろうじて紐で留まっている状態だった。
リディアは腕を組み、外の様子を見る。
「ヴァルティアまで残り二日だ。……だが、今日は雨だな」
空は分厚い雲に覆われ、雨粒が本陣の布を叩く。
「兵を休ませる。酒を出せ。身体を冷やすな」
落雷が響き、リディアの巨影が揺れた。
⸻
ヴァルティア城では、キョウ・セレナ・エマ・ガルザが揃い軍議が開かれていた。
マリーナ撃退の報せで士気は上がっている。しかし問題はここからだった。
「籠城するべきだ!」
ガルザが机を叩く。
「リディア軍の力は未知数だ。城壁を頼りに持久戦に徹するのが――」
「そんなことをしても、ヴァルティア市街が持ちません!」
エマが強く反論した。
「守りばかりでは兵の気持ちが萎みます。勢いがある今こそ、打って出るべきです!」
二人の意見は真っ向からぶつかる。
セレナは黙って二人を見ていた。
彼女の顔には、冷静さの裏に焦燥が滲んでいた。
キョウは沈黙のままだった。
セレナが静かに問いかける。
「キョウ……あなたはどう思う?」
答えは返らない。
キョウはゆっくりと立ち上がり、誰にも何も告げず議場を出ていった。
「あっ……キョウ!」
セレナが慌てて声を上げるが、キョウは振り返らなかった。
そのとき、黒い影がひらりと降り立つ。
「報告」
シオンだった。
「リディア軍、ヴァルティアより二日の地点。激しい降雨により野営。
兵の士気は高い。酒が出されている様子」
その言葉で、軍議の空気が一変した。
リディア軍の士気が高まっている――
このまま二日後を迎えれば、正面衝突では押し切られる可能性が高い。
セレナは思わず胸に手を当てた。
「……キョウは、どこへ?」
エマが周囲に視線を走らせるが、答えはなかった。
⸻
その頃、キョウはすでに馬に跨り、城門へ向かっていた。
兵たちはその背中を見つけてざわめき、次々と後を追う。
「キョウさま!? どちらへ!」
「俺も行く!」
「ま、待ってください!」
必死に呼びかける者もいたが、キョウは止まらなかった。
ついて来れたのは二百騎。
彼らはキョウの背中のように迷いのない馬上姿に心を射抜かれ、勝手についてきた者たちだった。
雨風を切って疾走するキョウの胸中には、奇妙な静けさがあった。
戦いの前の恐怖や焦りはない。
むしろ、リディアという敵将を自ら討ち取らねばという、妙な確信だけがあった。
⸻
キョウが丘の上に到着したのは、日が暮れかけた頃だった。
雨に煙る谷底に、リディアの本陣の焚き火が点々と光っている。
「……完全に緩んでいるわけではない。だが――動ける」
キョウは馬の背を軽く叩き、二百騎の前に立った。
「行くぞ」
一言だけ。
二百騎が咆哮し、雷のように駆け降りた。
ぬかるんだ地面を蹴り、鉄蹄が泥を撒き散らす。
リディア軍は完全に虚を突かれ、悲鳴と怒号が飛び交う。
混乱の渦をかいくぐり、キョウは一直線に本陣へ迫った。
そこに、立っていた。
黒鉄の巨大な大剣を肩に担ぎ、雨に濡れた金髪を背に流しながら、
リディアが悠然とキョウを見下ろしていた。
「あれが……“男”の将か」
その声音には、侮蔑でも驚愕でもなく――
純粋な興味だけがあった。
キョウは馬を跳ばし、瞬時に距離を詰める。
リディアは巨剣を片手で持ちながら、信じがたい速さで迎撃した。
金属が軋む轟音。
キョウは辛うじてかわしたが、馬の脚が裂かれ、地面に投げ出された。
背中に衝撃が走る。
雨粒が肌を叩く。
視界が揺れる。
だがその中で、リディアが歩み寄ってくる姿は異様なほど鮮明だった。
「死ぬなよ。その目……私を楽しませてみろ」
間合いに入った瞬間、巨剣が唸る。
キョウは転がってかわし、立ち上がりざまに剣を振る。
風が爆ぜ、リディアの鎧を切り裂く。
白い肌に赤い線が走る。
だが、怯みがない。
むしろ口角が上がった。
「いいな……もっと来い」
巨剣が振り下ろされ、キョウの剣が折れた。
雷鳴のような金属音が夜空を裂く。
「終わりだ!」
リディアが両手で巨剣を振りかぶった。
その瞬間――隙ができた。
キョウの拳が、炎のように体内から熱を帯びる。
「おおおおッ!」
渾身の右拳がリディアの腹部へ突き刺さった。
鎧が砕け、拳が肉へ深くめり込む。
リディアは血反吐を吐き、地面へ沈んだ。
痙攣しながらも、なおキョウの顔を睨みつけていた。
その瞳は、どこか幼く、
戦うことしか知らない獣のようでもあった。
キョウは剣を拾い上げたが――
とどめを刺せなかった。
その表情には、怒りでも憎しみでもない。
ただ、敗北を受け入れながら、どこか嬉しそうな笑みが浮かんでいたからだ。
⸻
背後から角笛が響いた。
ついにセレナとエマの軍勢が到着し、
混乱するリディア軍へ突入した。
リディア軍は総崩れとなり、散り散りに逃げていく。
倒れたリディアは拘束され、
ヴァルティアへと連行されることになった。
⸻
その知らせを受けたマリーナは、震えた。
(帝都に戻れば……私は確実に処刑される)
ならば――
(あの男のもとへ行くしかない。
あの男は、美人に弱い……ならば、まだ道はある)
マリーナは赤髪を振り乱し、ヴァルティアへ馬を走らせた。
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