オイラーの風呂敷
彗星愛
第1話:ボールペン
サンタクロースって実はひげもじゃの泥棒がモデルだったらしい。
あの白い大きな袋は風呂敷で、ひげもじゃは白ではなくて黒で。「贈る」とは対極にある「盗む」象徴の泥棒がモデルってのは皮肉なものだ。
幼い頃の私はこの説を信じていた。
そんなの大嘘だって気づいたのは、たぶんサンタクロースはいないって知ったあとだった。
あるいは、私の祖父がサンタクロースではなく、本物の泥棒だと知ったあとだったかもしれない。
***
ミネ薬局の裏手に入って二軒並んだ家の一番右が、大貫さん家だ。築年数はそこそこありそうだけど、外壁の白は綺麗に磨かれていて、この家の幸せが垣間見える。玄関前に置かれた自転車と、その右に置かれたパンジーからも、住人の愛着が滲み出ている。
お庭と呼ぶにはこぢんまりとしているアプローチを歩いて玄関に向かう。
インターホンを押すと、ザザーと音がして、その向こうから「はい?」と女性の声がした。私はインターホンのカメラに顔を近づける。
「
そう告げると、しばらく沈黙が訪れる。ザ、ザ、とスピーカーの音だけがする。
当然だ。見知らぬ女がいきなり尋ねてきたのだから。しかも要件も言わず、時間をくださいとだけ言われたのなら、無視するのが正解だ。
けれど、私は自分が女性であること、それから23歳という無害そうな年齢であることに、ちょっぴり自信があった。愛嬌がいいと言われたことはないが、不審者と呼ぶにはピュア過ぎるほっぺのはずだ。
「私の祖父が、大貫さんの持ち物を盗んでしまったようで。それをお返しに参りました」
言いながら、インターホンのカメラに向けて、黒いツヤツヤのペンを向ける。スピーカーから「あ」と小さな声が漏れた。それから「少しお待ちください」と、思いのほか柔らかい声がした。
しばらくすると扉が開く。隙間から女性が顔を出す。茶髪を緩く束ねている。三十代前半くらいだろうか。
「突然伺ってすみません。今日は祖父の盗んだボールペンを返しに来ました」
「……えっと」
「本当にごめんなさい」
私は深く頭を下げる。これは演技ではなく、誠心誠意の純度100%だ。
かつて「昭和の大泥棒」と名を馳せた大馬鹿野郎の祖父に代わって、孫娘が盗品を返しに来ているのだ。本当に申し訳なく思うし、こうして対面してくれたことを、奇跡のようにありがたく思う。
――遺品整理をしていたときだ。
祖父の部屋の押入れ、その最上段の奥の壁に隙間があって、その隙間に手を入れると壁が一枚外れて、その向こうには空洞があって、そこから大風呂敷が見つかった。
ぱんぱんに詰まった大風呂敷だ。
祖父は、現役時代はそれなりに有名な泥棒だったらしいが、時代が昭和から平成、令和へと移るにつれて、セキュリティの進化に勝てずに廃業した。
それからは随分と落ち着いた、真っ当な暮らしをしていたはずだった。それに、余命が残りわずかになったときも、俺の後始末は俺がつけるとか言い張って、祖父は祖父なりに後始末をつけたはずだった。
それなのに、大風呂敷が見つかったのだ。
しかも、その風呂敷は唐草模様で、いかにも泥棒が持っていました、みたいなデザインだった。
まあ、でも、後始末をしたはずだし、盗品ってことはないだろう、大切なものを保管していたんだろう、みたいに最初は家族揃って楽観的に考えていたが、風呂敷を解いて、家族揃って項垂れた。
中には盗品らしきガラクタが詰め込まれていた。それぞれの品には「盗んだ家の住所」と「持ち主の氏名」と思われるメモが貼り付けられていた。
残された家族が後始末をしろというメッセージなのか。
押入れの奥深くにしまっていたから、祖父も忘れていたのか。
いずれにしろ、とんだ置き土産である。
母と姉は、とりあえず警察に届けておけばいっか、と投げやりだったが、私はなんとなく人任せにしたくなかった。家族の不始末くらい、家族の手で終わらせたい。そう思って真っ向から対立し、二週間くらい喧嘩して、結果的に私一人で返しに行くことを決意した。
「これ、祖父が盗んだものなんです」と返しに行くなんて、正気の沙汰ではない。罵倒されるかもしれないし、塩を撒かれるかもしれないし、最悪の場合、身ぐるみをすべて剥がされるかもしれない。
だけど、世界はそれなりに優しいのだ。物をあるべき場所へ返すのは、たぶん正しい行いで、その正しい行いに対して何らかの罰が下されることはないだろう、と私は思った。が、母と姉は心配していた。
そんなこんなで、週末を利用して、こつこつ返却行脚を始めたのである。
といっても、この活動を始めたのは、つい先々週のこと。大貫さん家は三軒目なので、それなりに緊張している。一軒目と二軒目では、普通に叱られたし。
十秒ちょっと頭を下げてから、顔を上げる。
女性はまだ警戒っぽい目をしているが、「よろしければ中へ」と控えめに招き入れてくれた。
中に入る。他人の家の匂いには、わくわくとざわざわが混じり合う。洗剤の匂い、家具の匂い、食事の匂い。その家の生活、物語がそこにあるようにして、具体的に「こういう匂い」と決めつけたくない気持ちになる。例えるのさえもったいないというかなんと言うか。
そんなことを考えながら、リビングに入ると暖房が効いていて、体がぽかぽかする。右手でほっぺに触れると、ほっぺの温かさを感じる。
ダイニングテーブルの椅子に腰掛ける。見渡すと、棚の上に写真がある。家族写真のようだ。女性と、旦那さんらしき人と子供が二人。
その棚から少し離れた場所には、クリスマスツリーが置かれていて、その飾り付けはあどけなさがある。白い綿がちぐはぐで、てっぺんの星はわずかに右に傾いている。飾りが下に集中しているのはお子さんが飾ったからだろうか。
そのどれもが味わいになっていて、つい口元が緩む。
女性がお茶を差し出してくれる。落ち着きがあって、品がある。家族を持つと、母親になると、こういう立ち振る舞いができるようになるだろうか。少しだけ自分が結婚する姿を想像してみるけど、笑いそうになるからやめる。
彼女は対面にそっと腰掛ける。この家の人の座り方だ。椅子の高さに慣れているというか、余計な所作がない。美しい。
「あなたのおじいさん」
そう言って、女性は、あ、と目を見開いて、それから首を振る。私は言葉を待つが、彼女がお茶を啜ったので、ボールペンを差し出す。
「大貫美香さんのボールペンのようです」
「私が美香です」
祖父のメモには大貫美香と書かれていた。つまり、目の前の女性が持ち主ということだ。美香さん。
「これ」
美香さんは、しばらくテーブルに置かれたボールペンを見つめて黙る。
それからボールペンを手に取って、角度を変えながらじっくり眺める。
「……ずっと、どこかに落としちゃったんだと思ってた」
そう言われて気づく。
祖父は盗んだのではなく、「落とし物」として拾った可能性もなくはない。真相は祖父に直接聞かないとわからないが、もう聞く手段はない。
いや、一品目と二品目は、いずれも盗品だった。黄色いハイヒールとブランデー。ボールペンに比べれば価値ある物だった。特にブランデーは年代物で、高く売れるものだった。
だから、きっとボールペンだって、祖父がわざわざ盗んだのだ。
なぜ?
私がこうして持ち主に返しているのには、理由が二つある。一つは、さっきも少し述べたけど、単純にその持ち主に返したいという義務感。物だろうが言葉だろうが、持ち主にあるべきだと思うから。
そしてもう一つは、祖父がなぜそれを盗んだのか、その理由が知りたいからだ。たとえば、何の変哲もないボールペンを、どうして盗んだのか。
「あの、大貫さん」
「美香でいいですよ」
「美香さんにとって、このボールペンって」
「懐かしいわ」
小さく声を漏らして、それから大事そうにボールペンを撫でる。黒目が左右に動くから、私はちょっと笑いそうになる。
「これ、インクが出にくいのよね」
そう言って彼女は電話台の横に置かれたメモ帳を取ってきて、ボールペンを滑らせる。円を描く。最初は掠れた黒がぽつぽつと付いて、何度目かの円で黒い線がはっきり現れた。
「ほら」
美香さんは笑う。私もつられて笑う。
「美香さん、このボールペンはどういう?」
尋ねると、彼女はイタズラっぽく笑う。それから、少女のような目で私を見た。
「これ、内緒にしてくださいね?」
「はい、嘘は大事にする家柄なので」
「実はこれ、盗んだものなの」
「え?」
「ふふ、笑っちゃうでしょ? 小学校のとき、すごく好きだった男の子がいてね。彼、いっつも授業中にボールペンをくるくるさせるものだから気になって、それで、休み時間にこっそり」
美香さんはボールペンを人差し指で弾く。
「おまじないがあったのよ。好きな人のものを持っていると、恋が叶うって。それで盗んだんだけど、やっぱり罪悪感があるじゃない? で、返すタイミングを見計らうばっかりで、それで声を掛けるのすら気まずくなっちゃって。で、中学校を卒業したら、彼とも離れ離れになって」
美香さんはため息混じりに笑う。
「このボールペンもいつの間にか無くしちゃって。ああ、やっぱり独り占めしようなんて下心は、バチが当たるんだって思ったのよ」
「没収したのは神様じゃなくて、うちの祖父でしたけど」
私が申し訳なさそうに言うと、美香さんは吹き出した。
「そうね、まさか泥棒さんが持っていったなんて」
「ごめんなさい」
「不思議ね。あなたのおじいさんが盗んでくれたおかげで、今、こうして帰ってきたわけでしょう?」
「本当の持ち主は違いました」
「いいのよ、これで。私が持っていたら、きっと、捨てちゃっていたから」
そう言って、ボールペンを両手で包み込む。その手つきを見て、私は少し不安になる。
過去の甘酸っぱい思い出が、今の幸せな家庭のノイズにならないだろうか。
家族写真。八重歯が優しそうな旦那さんと、にっこり満点の二人の子供。美香さんには、今の幸せがある。そこに彼女の初恋を持ち込むのは、野暮だったかもしれない。
私の表情が少し暗くなっていたのか。美香さんは笑顔で私の顔を覗き込む。
「サンタクロースみたいなおじいさんね。一番いいタイミングで届けてくれるなんて」
気遣ってくれたのだろうか。私はやさしさに感謝する。
ボールペンの物語は、私が思ったよりは、複雑だった。祖父がなぜ盗んだのかはわからないけれど、もしかしたら美香さんの罪悪感ごと盗んだのか。
いや、あの祖父が気遣えるとは思えない。美香さんが大切そうに持っていたから、価値のある物だと思い込んだのだろう。さっきから彼女がボールペンを見つめる瞳は、本当にきらきらしているから。
「今日はありがとうございました。突然お邪魔したのに、お茶までいただいて」
湯呑みを置いて、席を立つ。
美香さんも立ち上がる。
「いいえ、こちらこそ、わざわざありがとう」
そのまま玄関まで見送りに来てくれる。私は靴を履いてドアノブに手をかける。その手は少し重い。
野暮なことをしてしまった。
罪悪感。
盗品を返すのは、考え直した方がいいかもしれない。盗まれた人には、今があって、昔の何かを返すことで、それを歪めてしまうことだってあるかもしれない。
暗い気持ちが、おでこまで浸透したとき。
ふと、美香さんはボールペンを眺めて呟いた。
「帰ってきたら驚かせなくちゃ。あなたのボールペン、返ってきたわよって」
「え?」
「このボールペンの持ち主、今の夫なの」
私はしばらく思考停止して、それから吹き出す。
「なんだ、じゃあ、おまじない、効いていたんですね」
「ふふ、そうみたい」
胸のつかえが一気に取れて、視界がクリアになる。大貫さん家の色がもっと鮮やかになる。玄関先に飾られたリースは賑やかだ。
「では、お幸せに」
「あなた……」
「
「星乃さんも、お幸せに」
扉が閉まる。冬の冷たい空気が火照った頬に心地いい。
空を見上げると、もう一番星が光っていた。
世界は、思っているよりずっと、粋な計らいをしてくれる。
だけど、人のものを盗むのは、悪いことだと、やっぱり思うのです。
今日はクリスマスイブで、たぶん街はもっと賑やかになる。私は少しスキップをする。中野坂上はスキップにちょうどいい街なのだ。
オイラーの風呂敷 彗星愛 @susei-ai
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