最後のクリスマス

宮楠

第1話

今年こそは言おう。そう誓ったのは何度目だろうか。


クリスマスの夕方。校門を出ると空気がやけに澄んでいて、吐く息が白く残った。街の方からはどこか浮かれた音楽が微かに流れてくる。イルミネーションの光がまだ慣れない夜を急かすみたいに瞬いていた。


俺は隣を歩く彼女の横顔を盗み見る。


今日だ。今日、言わなきゃいけない。


「好き」

たった二文字。なのにどうしてこんなに重たい。


去年もその前の年も同じように隣を歩いた。同じようにチャンスはあって同じように何も言えなかった。


言えなかった理由ばかりが雄弁だった。

雰囲気が違うとか、タイミングが合わないとか、今はやめた方がいいとか。どれもそれっぽくて全部嘘だった。


本当は怖いだけだ。


この並んで歩く距離が壊れてしまうのが。彼女が今みたいに自然に笑わなくなるのが。


もし断られたら、もし嫌われたら、もしこれまでの“いつも”がなくなってしまったら。


違う。それでも言わないといけない。だって俺はこんなにも彼女のことが――。


「寒いね」

幼馴染の間宮茜まみやあかねが何気なくそう言ってマフラーに口元を埋める。その仕草ひとつで胸の奥がぎゅっと締め付けられた。


茜を好きでいる時間は幸せだ。ほぼ生まれた時から高校二年の今までずっと茜と一緒にいた。物心ついた頃くらいにはもう茜のこと好きだったと思う。


ずっと言いたかった。でも俺には勇気がなかった。


歩道の先に街路樹が並ぶ道が見える。あそこまで行ったら言おう。信号を渡ったら言おう。次に彼女がこっちを見たら――。


言い訳ばかりが増えていく。空からひとつ冷たいものが頬に落ちた。


雪だ。今年も同じ夜になりそうで。俺は無意識に拳を握りしめていた。


「雪、降ってきたね」

茜が足を止めて空を見上げる。街灯の光に照らされて雪がきらきらと舞っていた。


「ホワイトクリスマスじゃん。なんか嬉し」

そう言った茜は少しだけ嬉しそうで俺の胸はまた勝手に騒ぎ出す。


このまま笑っていつも通り別れてまた同じ後悔をするのだろうか。それだけは嫌だった。


「……茜」

震えた声で名前を呼ぶ。


「なに?」

茜は首をかしげて俺を見る。その視線が真正面からぶつかって逃げ場がなくなる。


今だ。逃げるな。茜との日々を失うかもしれない。

でもこのまま幼馴染でいてもいつかこんな日々は終わる。どうせ終わるなら自分で終わらせたほうがいい。


「俺さ――」

その瞬間だった。


「きゃっ!」

甲高い声と同時に茜の体がぐらりと傾く。足元の白くなり始めた歩道で茜が滑ったのだ。


「危なっ……!」

反射的に腕を伸ばして俺は茜の腕を掴む。勢いのまま引き寄せてしまって気づけば彼女は俺の胸元にぶつかっていた。


「だ、大丈夫?」

「う、うん……ありがとう」

至近距離。マフラー越しでも分かる体温とふわっと香るシャンプーの匂い。


この勢いのまま今なら。


「……茜、俺――」

「ごめんごめんっ」

茜が慌てて一歩離れた。


「ダサいとこ見せちゃったな〜……」

照れ隠しみたいに笑う茜を前にさっきまで喉まで来ていた言葉が引っ込んでいく。


「全然……大丈夫だよ」

それだけ言って俺は視線を逸らした。


言葉は胸の奥に押し戻されたまま出てこない。さっきまであんなに暴れていた心臓も急に大人しくなったみたいだった。


「行こ」

何事もなかったみたいに茜が歩き出す。俺もその隣に並ぶ。結局いつも通りだ。


⭐︎


気づけば駅前の広場に着いていた。大きなツリーを中心に無数のイルミネーションが夜を埋め尽くしている。


「わ……きれい」

茜は足を止めて目を輝かせた。


その横顔を見た瞬間、胸がちくりと痛んだ。茜の隣にいる相手がずっと俺でいられたらいいのに。


「写真撮ろ」

茜がスマホを取り出す。


「はい。こっち見て」

言われるまま並ぶ。画面越しに見る二人はどう見ても仲のいい幼馴染だった。


それだけだった。


シャッター音が鳴る。


「ありがと」

満足そうに笑う茜に俺は曖昧に頷いた。


ツリーの光が風に揺れて雪が静かに降り続いている。この景色はきっと来年も再来年も変わらない。変われないのは俺だけだ。


「……ねえ」

人混みの中で茜が小さく言った。


「さっきさ。滑る前、何言おうとしてたの?」

不意に来た二度目のチャンス。でももう喉は固まっていた。


「……別に」

俺は笑ってごまかす。


「転ばないように気をつけろって言おうとしただけ」

「なにそれ」

茜はくすっと笑った。


その笑顔に胸の奥がまた締めつけられる。

守れたのは"変わらない日常"だけで本当に欲しかったものは何一つ掴めなかった。


イルミネーションの光の中で俺はひとつ深く息を吐いた。


⭐︎


イルミネーションをひと通り見終えて人混みを抜ける。

さっきまで胸を満たしていた光は少しずつ遠ざかって代わりに足元のアスファルトの冷たさがやけに現実的に感じられた。


「……そろそろ帰ろっか」

茜がそう言って歩き出す。俺は半歩遅れてその背中を追った。


駅へ向かう道。さっきよりも雪は強くなり、空気は冷え切っていた。何かを言わなきゃいけない気がしてでも言葉はもう残っていない。


その時。


「……ねえ湊人みなと」

茜がそう振り返って、俺は足を止めた。


胸の奥が嫌な音を立てて波打った。理由は分からない。ただ本能みたいなものが叫んでいた。


「……なに?」

声が自分のものじゃないみたいに遠い。


茜はすぐに続きを言わなかった。視線を外し、降り続く雪を見つめる。白い息をひとつ吐いてから覚悟を決めたみたいに口を開いた。


「今日で……終わりにしよっか」

一瞬、意味が分からなかった。


「……え?」

情けない声が漏れる。茜は小さく息を吸ってゆっくりと言葉を選ぶみたいに話し始めた。


「最近さ。いい感じの人がいて」

胸が嫌な音を立てた。もう聞きたくなかった。


「一緒にいると安心する。でもちゃんと目標とかやり遂げたいこととかがある人で。その人といると私もいい方向変われる気がしたの」

それは俺がずっとできなかったことだった。


そして茜はようやく俺の顔を見て最後に言い放った。


「……私、その人のことが好きなの」

頭が真っ白になった。


「湊人とは……もう今までみたいには一緒にいられない」

分かってたはずなのに。いつかこういう日が来るって。それでも想像していたよりずっと残酷だった。


「……そっか」

それだけ言うのが精一杯だった。

喉の奥が焼けるみたいに痛い。何か言えば全部崩れてしまいそうで。


茜は少し困ったように笑った。


「ごめんね。ずっと一緒だったから……ちゃんと伝えなきゃって思って」

謝られる資格なんて俺にはない。何も言わなかったのは俺だ。何度もチャンスを見送ったのも俺だ。


「……じゃあ」

茜は一歩後ずさる。


「今までありがと。……じゃあね。湊人」

くるりと背を向けて歩き出す。その背中はまっすぐで。なのにどこか震えているようにも見えた。


呼び止める言葉は出てこなかった。足も動かなかった。


行かないでくれ。そう思ったのに声にならない。


茜の背中が雪の向こうに小さくなっていく。それでも俺はそこから動けなかった。


足元に積もり始めた雪を見つめながら頭の中だけが勝手に過去へ引き戻されていく。


小学校の帰り道。夕立が来て俺は傘を持ってなくて。

「しょうがないなぁ」なんて言いながら当然みたいに俺を傘に入れてくれた茜。


中学の頃。部活で上手くいかなくて落ち込んでた俺の家に何も言わずに来て。ゲームをしながらどうでもいい話をして。

気づいたら笑ってて、理由も分からないまま元気になってた。


高校に入ってからもそうだ。クラスが分かれても帰り道は一緒で。

誰かに告白されたとか好きな芸能人ができたとかそんな話を聞くたびに胸の奥がざわついて。

それでも俺は「へえ」とか「そっか」とかどうでもよさそうな顔をしていた。


変わらない日常は努力しなくても続くものだとどこかで思い込んでいた。


でも違った。


何も言わなかった時間も踏み出さなかった勇気も、全部、今日に繋がっていたんだ。


さっきまで隣を歩いていたはずの距離がもう二度と戻らない場所みたいに感じられた。


胸の奥がじんわりと痛む。泣くでもなく叫ぶでもなく、ただ静かに確実に茜を失った実感だけが残っている。


やっと分かった。


俺が大切にしてきた時間。俺が守りたかった日々。俺がいつか言おうと先延ばしにしてきた想い。


俺の楽しい思い出には全部、茜がいた。


「……っ」

喉の奥から押し殺していた何かが溢れ出しそうになる。


遅すぎる。分かってる。今さら何を言っても身勝手だ。


それでも行ってほしくない。失いたくない。


その感情だけが理屈を全部置き去りにして俺の身体を突き動かした。


「茜……!」

気づいた時には俺は走り出していた。

雪で滑りそうになる足元も人混みも全部どうでもよかった。ただあの背中を見失うのが怖くて必死で名前を叫ぶ。


「待って……!茜!」

肩で息をしながら追いかける。胸が痛くて肺が焼ける。それでも止まれなかった。


数メートル先で茜が足を止めた。


ゆっくり振り返ったその顔は驚きと、困惑と、ほんの少しの怯えが混じっていた。

その全部が俺が今まで見て見ぬふりをしてきた現実だった。


「……湊人?」

震えた声で名前を呼ばれる。


ここで何も言えなかったら本当に全部終わる。もう二度と茜と話すことすらできなくなる。俺が俺のことを許せなくなってしまう。


「……ごめん。茜に言わないといけないことがあって」

雪が睫毛に落ちて溶けて視界が滲む。茜は何も言わずただ立ち尽くしていた。


「今さらだし身勝手だし……茜を困らせるだけかもしれない」

一度、息を吸う。冷たい空気が肺の奥まで刺さった。


「でも……言わないまま終わるのは嫌だから」

茜の指先がきゅっとマフラーを掴む。それを見てもう逃げ道はないと覚悟が決まった。


やっと言える。叶わない告白だけど言う直前、胸の奥がスッと軽くなった気がした。



「俺は……茜が好きだ」

雪の中に白い息がほどけていく。



茜は俺を見つめたまま無言でしばらく動かなかった。


「……知ってたよ」

やっと絞り出すように茜が言った。


「でも……ちゃんと聞いたのは今が初めてかな」

声は震えていた。


俺は一歩も近づかなかった。近づいたら縋ってしまいそうだったから。


茜は唇を噛みしめて俯いた。そして小さく首を振る。


「……でもごめんね。もっと早く……言って欲しかったかも」

ぽろっと茜の瞳から涙が落ちた。その一滴が雪に吸い込まれるのを俺はただ見ていた。


「湊人が私を大事にしてくれてたのは分かってたよ。でも……」

そこで言葉が一度途切れた。そして茜は俺に言う。


「私は……ちゃんと好きって言って欲しかった」

その言葉は責めるようでも突き放すようでもなくて、ただ静かに現実を突きつけてきた。


「ごめんね。今、言ってくれて本当に嬉しかった。でも……今の私にはそれを受け取る場所がない」

「……そっか」

喉の奥がひりついたまま俺はそれだけを口にした。引き留める言葉も都合のいい願いももう言わない。


「……ありがとう。ちゃんと聞いてくれて」

「…………」

茜が涙を拭いながら小さく肩を震わせる。その姿を俺はただ見つめていた。


「遅すぎたけど……それでも言えてよかった」

胸の奥に残っていた重たいものが少しだけ形を失っていくのを感じた。


「茜が誰かを好きになるのも前に進むのも当たり前だよね。全部、言わなかった俺のせいだ」

言葉を選びながら一つ一つ確かめるように話す。


「ずっと好きだったのに……こんな時まで言えなくて」

俺は少しだけ息を整えてから続けた。


「それでも茜を好きだった時間は嘘じゃないよ」

雪が肩に積もってすぐに溶けていく。


茜は何も言わず、俯いたまま涙を拭っていた。マフラーの端をぎゅっと握る指が小さく震えている。


「……湊人」

かすれた声で名前を呼ばれる。


「私ね。湊人が嫌いになったわけじゃない」

それだけ言って茜は首を振った。


「だから余計に……ちゃんと好きって言われたら揺れちゃいそうで」

視線を上げないままぽつりと告げた。


その言葉に胸が締め付けられる。ここで俺が押したら茜は考え直してくれるかもしれない。 

でもそれは卑怯だ。ここまで何も言わなかった癖に今になって彼女の気持ちを揺らして引き留めるなんて。


俺は少しだけ笑って呟いた。


「じゃあ……なおさらここで終わりにしよう」

茜が顔を上げる。どこか納得したような目だった。


「俺が今ここで縋ったら茜が前に進むのを邪魔する。それに……そんな形で一緒にいてもきっと俺は後悔する」

言葉にするたび胸の奥がじくりと痛む。それでも不思議と足は震えていなかった。


「俺は茜が好きだよ。多分この先も結構引きずると思う。でも茜が選んだことなら……それだけは否定したくないから」

雪が静かに降り積もる音だけが二人の間を満たす。街のざわめきも音楽も遠くに滲んでいた。


茜はしばらく何も言わなかった。やがてゆっくりと息を吐いて小さく笑った。


「……湊人らしいね」

その声は泣いているのか笑っているのか分からなかった。


「ずっと優しくてずっと臆病で。でも……最後にちゃんと向き合ってくれた」

茜は一歩俺に近づき、いつものように微笑んだ。


「ありがとう。私、湊人と幼馴染でよかった」

その一言で胸の奥に溜まっていたものが静かにほどけていく。失ったはずなのに何かをちゃんと受け取れた気がした。


「……こちらこそ」

俺も同じように笑った。


「今までありがとう。茜」

それが本当に最後の言葉だった。

茜はもう何も言わずゆっくりと背を向けた。今度は迷いなく歩き出した。


雪の中に溶けていく背中を俺はただ見ていた。追いかけなかった。呼び止めなかった。もう言うべき言葉は全部言ったから。


足元で雪が静かに積もっていく。白く覆われた世界はどこか綺麗でどこか残酷だった。


今年こそは言おう。その誓いはようやく果たされた。

遅すぎたけれど、それでも無意味じゃなかったとそう信じたかった。


俺は一人、駅とは反対の道を歩き出す。


白い息を吐きながら俺は空を見上げた。


終わったんだ。幼馴染としての日々も、言えなかった時間も、恋も。


それでもこの夜を忘れずに生きていくしかない。それが遅すぎた告白をした俺に残された唯一の答えだ。


「……メリークリスマス」

雪が静かに降り続く夜。それは俺が少しだけ大人になるためのプレゼントだった。


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