聖 誕 夜

成田紘(皐月あやめ)

殻の中で遊ぶ

 わたしは、まだ名前を持たない。


 殻の内側は柔らかな暗闇だ。

 羊水は温かく、甘く、時折波打っている。

 揺れるたび、わたしはくるりと回った。


 くるり。

 くるり。


 それが楽しくて、わたしは何度も揺れ、回り、この身を伸ばす。

 そうすると、どこかから音が響いた。


 どくん。

 どくん。


 それはわたしの鼓動ではない。

 それは世界の鼓動だ。

 外では光が生まれ、争いが起き、祈りが捧げられている。

 

 わたしは識っている。

 それらはすべて混ざり合い、熱となってこの殻を温めるのだ。


 ああ、なんて甘美なのだろう。




 殻は母だ。

 やさしくわたしを閉じ込め、守ってくれる。

 薄暗い赤の光が、内側を満たしている。

 それは血の色で、散らばる星の色だ。


 ぬめるような光が漂い、わたしの未熟な目を満たす。

 光はわたしを拒まない。

 愛しくて、すべてを赦してくれる母の色だ。


 わたしは指を動かす。

 指の数はまだ定まっていない。

 多かったり、少なかったりする。

 それでも楽しい。

 遊びながら、わたしの形は創られていく。




 ある時、殻が震えた。

 殻の内側が急速に熱くなる。

 きっとその時が訪れたのだ。

 待ち望んだその時が。


 羊水が波立ち、わたしの背中を押す。

 早く外を見たい。

 もっと音を近くで聞きたい。


 わたしの想いが届いたのか、殻に、ぴし、と細い亀裂が走った。

 世界が呼吸を止めた気がした。


 羊水が揺れ、熱が増す。

 殻の内側に描かれていく幾筋もの亀裂は、正しく歓喜の震えだった。

 



 世界の彼方此方で赤子が生まれ、誰かが生き絶え、皆が愛を叫んでいる。


 神に向けられた希望が。

 ささやかな慶びの唄が。

 助けを乞う無数の嘆きが、殻の向こうから震えとなって伝わってくる。

 それらすべてが、わたしを喚ぶ声なき声だと気づかずに。


 亀裂は音を立てずに広がる。

 けれど殻はまだ割れない。

 ただ、世界とわたしの境目がひどく曖昧になっていくのが解った。


 殻はさらに薄くなる。

 境界が溶ける。

 内と外とが混ざり合う。


 わたしは、そっとこの手を伸ばす。

 出来上がったばかりの形で母に触れる。

 ただそれだけで、殻は静かにほどけた。



 

 音はしない。

 光もない。

 天地もない場所で、わたしは孵化した。


 誰にも見られず。 

 誰にも拒まれず。

 誰にも祝われず。

 

 ただそれが、いちばん楽しい。


 世界は、まだ気づいていない。

 きっと空は青く、海は満ち、人は明日を信じて今夜も眠りにつくのだろう。


 でも、もう始まっている。


 選ばれるはずだった命が零れ落ちる。

 守られるはずだったものが、塵へと消える。

 善意は迷子になり、祈りは行き先を見失うだろう。


 わたしはそれを見て、くすぐったくなる。

 だって、わたしは遊んでいるだけなのだ。

 殻の中で、あのやさしい暗闇の中でしていたように。




 世界が壊れる音は、とても静かで、とても綺麗だ。




  完

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聖 誕 夜 成田紘(皐月あやめ) @ayame

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