02『君はもう、ただの奴隷じゃない。――一方、俺がいなくなった元パーティは、雑魚相手に絶望する』




「……アルス様、本当に、よろしいのですか?」




 焚き火の爆ぜる音が、夜の静寂に小さく響く。街道を外れた深い森の中、急ごしらえのキャンプ地で、ルナが不安げに俺を見つめていた。




 彼女の視線の先にあるのは、俺が先ほどからスタイラスを走らせている、数枚の厚手の布切れだ。それは、俺が予備として持ち歩いていた、本来なら寝具にさえならないような、ごわついた安物の麻布に過ぎない。




「ああ。こんな夜更けに、まともな宿もなしに夜露に打たれるのは酷だからな。少しばかり、手を加えさせてもらうよ」




 俺はルナに微笑みかけ、精神を集中させる。昼間の戦闘を経て、俺の中の魔力は以前よりも研ぎ澄まされ、世界の「構造」がより鮮明に視界に浮かび上がるようになっていた。




 目の前の麻布に、青白い情報の糸が絡みついている。




 【状態:粗悪】【属性:無】【概念:布切れ】。




(書き換えろ。この娘を、世界で一番優しく包むものへと)




 俺がスタイラスで空中になぞった術式が、麻布へと吸い込まれていく。次の瞬間、無骨な麻の質感は、まるで雲を織り上げたかのような、滑らかで光沢のあるシルクのような輝きを放ち始めた。




 【状態:神級】【属性:聖】【概念:王者の寝具・不滅・恒温】。




「よし、これで完成だ。くるまってごらん、寒さは感じなくなるはずだ」




「……っ、ありがとうございます……。あ、暖かい。まるで、陽だまりの中にいるみたいです」




 ルナがおずおずとその布を羽織ると、彼女の表情がパッと明るくなった。ただの布を『神の寝具』に変える。かつての俺なら、こんな芸当は不可能だった。常にあのクズ共のわがままな肉体を維持するために、俺の魔力は九割九分が消費されていたからだ。




(あいつらがいないだけで、これほどまでに世界は自由なのか)




 俺は自身の掌を見つめる。皮肉なことに、俺を縛っていた『黄金の獅子』という鎖が、俺を最強の付与術師へと押し上げる最大の重石だったというわけだ。




「ルナ、君のその傷も……もう一度、詳しく見せてくれ。さっきの応急処置だけじゃ、心の奥まで届かないかもしれない」




「あ……はい。お願いします、アルス様」




 ルナが首筋の、かつて呪印があった場所をさらけ出す。そこには、長年彼女を苦しめてきたであろう、皮膚を焼き切ったような痕跡が微かに残っていた。俺の目は、その肉体の奥底、細胞の一つ一つに刻まれた『絶望の記憶』を読み取る。




 【概念:虐げられた者】【性質:自己欠損】。




「……酷いな。これだけの痛みを、一人で抱えてきたのか」




「……仕方ないことだと思っていました。私は、生まれながらに……そう、決められていたのだと」




「誰がそんなことを決めた。そんな理不尽な設定、俺が全部書き換えてやる」




 俺は彼女の細い肩に手を置き、静かに魔力を流し込む。かつて彼女を打ち据えた鞭の感触。凍える夜に与えられた罵声。空腹に耐えながら見上げた、冷たい星空。それらの負の概念を一つずつ、丁寧に、そして力強く上書きしていく。




(『絶望』は『希望』へ。『欠損』は『充足』へ。この娘の魂を、何者にも穢されない黄金の概念で満たせ)




「あ……う、ああぁ……」




 ルナの目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。それは悲しみの涙ではない。彼女の魂が、本来あるべき形へと再構成されていく、歓喜の産声だ。




 光が収まった時、ルナの姿は神々しいまでの美しさを纏っていた。髪は銀の糸を紡いだように輝き、肌は真珠のような光沢を湛えている。何より変わったのは、その魔力波形だ。俺の概念付与によって、彼女はただの少女から、伝説に謳われる『戦乙女ヴァルキリー』に近い存在へと変貌を遂げていた。




「アルス、様……。私、自分が……自分じゃないみたいです。力が、溢れてきて……」




「それが君の、本来の姿だよ。……俺が、そう書き換えたんだ」




 俺たちは焚き火を囲みながら、静かに夜を過ごした。明日からは、誰も俺たちを縛る者はいない。この圧倒的な力を使って、どこまでも自由に行こう。そう誓いながら、俺は深い眠りに落ちた。




 一方、その頃。  王都からほど近い『深緑の平原』では、世にも奇妙な光景が繰り広げられていた。




「がっ……はぁ、はぁっ! な、なんだ……この剣の重さはっ!」




 Sランクパーティ『黄金の獅子』のリーダー、ケヴィンは、必死の形相で自身の聖剣を振り回していた。  対峙しているのは、本来なら一撃で首を撥ね飛ばせるはずの、低ランク魔物『フォレスト・ボア』だ。




「おい、ルカス! バフはどうした! 身体が……身体が言うことを聞かないんだ! まるで全身に鉛を埋め込まれたみたいだぞ!」




「う、うるさいっ! こっちだってそれどころじゃないんだ! 魔力回路が……熱いっ! 暴発するっ!」




 魔導師のルカスは、鼻血を出しながら自身の杖を支えていた。彼が放とうとした中級火炎魔法は、空中で形を成す前に霧散し、逆に彼の魔力貯蔵庫マナ・プールを激しく揺さぶっている。




「どういうことなの……!? 治癒魔法が、全然効かない! 傷口が……傷口が塞がらないわ!」




 聖女のクラリスが、震える手で祈りを捧げるが、その奇跡の光は弱々しく、ケヴィンの足の擦り傷一つ治せない。




 彼らはまだ、理解していなかった。アルスが施していた『付与』が、どれほど異常な恩恵であったかを。      アルスは三年間、彼らの身体にかかるあらゆる「負荷」を、概念レベルで肩代わりしていた。剣を振れば振るほど溜まる筋肉の疲労。強力な魔法を使うたびに焼き切れる神経の摩耗。受けた傷がもたらすはずの、継続的な激痛。それらすべてを、アルスが裏で「なかったこと」に書き換えていたのだ。




「ぐあああああっ!」




 猪の突進を躱そうとしたケヴィンの膝が、突如として悲鳴を上げた。アルスが肩代わりしていた『三年間分の蓄積疲労』が、ほんの僅かな綻びから、津波のように彼の肉体へ逆流し始めたのだ。




「あ、足が……動かない……!? クソッ、ふざけるな! 俺はSランクだぞ! 選ばれた天才なんだ!」




 プライドだけは高い金髪のリーダーが、泥まみれになって地面を転がる。 かつての凛々しい姿はどこにもなく、そこにあるのは、ただの無様な敗北者の姿だった。




「ひ、避けてっ! ケヴィン!」




 クラリスの悲鳴が響く中、フォレスト・ボアの無慈悲な突進がケヴィンの腹部を直撃する。




 ドゴォォォォォン!




「がはっ……!?」




 吹っ飛ばされたケヴィンが、大樹に激突して止まる。普段ならアルスの【概念:衝撃吸収】で無傷だったはずの衝撃が、ダイレクトに彼の骨を砕き、内臓を揺さぶった。




「お、おい……嘘だろ? フォレスト・ボア相手に、リーダーが……?」




 ルカスが呆然と呟く。彼らが最強だと思っていた実力は、アルスという巨大な土台の上に築かれた、砂上の楼閣に過ぎなかった。土台を失った楼閣は、今、音を立てて崩れ去ろうとしていた。




 翌朝。俺は、ルナを連れてさらに北へと進んでいた。




「アルス様、あそこを見てください」




 ルナが指差したのは、街道から少し離れた場所にある、古びた石造りの廃屋だった。かつては番所か何かだったのだろうが、今は屋根が崩れ、雑草に覆い尽くされている。




「ふむ……ちょうどいい。今日はここで腰を落ち着けるとしようか」




「えっ? でも、ここじゃ雨風も凌げませんし、魔物が出るかも……」




「ははは、心配しなくていい。俺を誰だと思ってる?」




 俺はスタイラスを抜き放ち、廃屋の壁に手を触れた。




 【状態:崩壊】【属性:土】【概念:廃屋】。




「書き換えろ。ここは――『絶対なる安息の聖域』だ」




 ゴゴゴゴゴ……!




 地響きと共に、廃屋が変質を開始する。崩れていた石壁は、大理石のような滑らかさと鋼鉄以上の強度を併せ持つ白亜の壁へと修復され、腐っていた木材は、芳香を放つ神木へと生まれ変わる。さらに、周囲の地面には『概念:不可侵領域』が展開され、低ランクの魔物どころか、高位の魔族でさえ容易には近づけない鉄壁の要塞へと変貌を遂げた。




「な、なんです、これ……。お城……? いえ、それ以上に清らかな場所……」




「さあ、入ろうか。今日からはここが、俺たちの最初の拠点だ」




 俺が扉を開けようとした、その時だった。




「――グルルルル……」




 地を這うような重低音。俺たちの背後から、圧倒的な質量を持った「殺気」が押し寄せてきた。ゆっくりと振り返ると、そこには、この世のものとは思えないほど巨大な、漆黒の毛並みを持つ狼が立っていた。




 その頭上には、二本の捻じれた角。  瞳は燃えるような紅蓮色。




「……フェンリルか? いや、それ以上の……伝説級レジェンド・クラスだな」




 ルナが反射的に剣の柄に手をかける。だが、俺はそれを制した。




「待て、ルナ。こいつ……戦いに来たんじゃないみたいだ」




 俺の『概念視』が、その巨大な魔獣の情報を捉える。




 【状態:魔力飢餓】【概念:孤独な王】【悩み:背中が痒いのに届かない】。




「……ぷっ、あはははは!」




「えっ? アルス様、何が可笑しいのですか!?」




 俺は笑いながら、無防備にその巨大な魔獣へと歩み寄った。伝説の魔獣は、突然近づいてきた人間に戸惑うように、大きな鼻をヒクつかせている。




「おい、お前。かっこいい姿してるのに、そんなことで悩んでるのか」




 俺は恐れることなく、その漆黒の毛並みに手を埋めた。そして、スタイラスを一点に突き立てる。




「『痒み』を消してやるよ。ついでに……そのゴワゴワの毛並みも、世界一のモフモフに書き換えてやる」




「グルッ!? ガ、ウゥゥ……」




 魔力が流れ込んだ瞬間、伝説の魔獣の瞳から険しさが消えた。書き換えられたのは、ただの感覚ではない。彼の中にあった『荒ぶる魂』が、アルスの温かな魔力によって『安らぎ』へと再定義されていく。




 数分後。そこには、俺の足元に腹を見せて転がり、盛大に尻尾を振る巨大な「超大型犬」の姿があった。




「……アルス様。それ、伝説の魔獣『終焉を喰らう牙』ですよね……? なんで、そんなに懐いているんですか……?」




「さあな。毛並みの概念を『至高のモフモフ』にしたからじゃないか?」




 こうして。追放された初日に、俺は最強の拠点を手に入れ、伝説の魔獣をペットにした。一方、王都では――。「アルスを連れ戻せ!」という悲痛な叫びが、満身創痍のケヴィンたちの口から漏れ始めていたが。      そんなことは、今の俺には、もうどうでもいいことだった。




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