大曲本町駅前公園・謎のアタッシュケース事件

金城由樹

大曲本町駅前公園・謎のアタッシュケース事件

 東京都の一角、大曲本町おおまがりほんまち駅前の公園は、朝の光に対してやけに正直だった。

 隠すものがない、というより、隠す必要がない場所だ。

 木々は低く刈り込まれ、遊具は古いが手入れが行き届いている。

 砂場の縁は丸く削れ、何年も子どもたちを受け止めてきた痕が残っていた。

 ベンチの木目は深い。

 新しくはないが、荒れてもいない。

 誰かが「ここは使われ続ける場所だ」と信じて、最低限の世話を続けてきたのだろう。

 時間だけが、静かに積み重なっている。


 フォンフォンフォンフォン――


 その空気を割るように、少し間の抜けたサイレン音が近づいてきた。

 今では滅多に聞かれなくなった昭和の音だ。

 鋭さよりも律儀さを感じさせるその響きに、公園にいた鳩が首を傾ける。

 角ばったフォルムの昭和型セダンのパトカーが、公園脇の路肩に寄せて止まった。

 屋根の上で回る円形のパトランプは、光り方も回り方も実直だった。

 光る、回る、走る、そしてなぜか、歌う……。

 

 運転席から降りてきたのは、五十代の警部補。

 背筋は自然に伸び、歩幅は一定。

 急ぐでもなく、遅れるでもない。

 その動きには、何百回と現場に立ってきた男の「癖」が染みついていた。

 ――カワさん、大曲署捜査第一課所属。

 取り調べで容疑者を「落とす」ことに定評があり、同時に、現場では余計なことを言わない刑事でもある。

 助手席からは、やや勢いよく若い刑事が降りてきた。

 長髪、ノーネクタイの私服刑事、通称、チノパン。

 動きが先に出て、考えが一拍遅れるタイプだ。


「……現場、ここっすか」


 チノパンが、公園を一望して言った。


「そうだ。大曲本町駅前公園」

 

 カワさんは短く答える。


「通報内容は?」


「謎のアタッシュケースが置かれている。以上だ」


 チノパンは一瞬、口を閉じた。

 情報が少ない。

 だが、それはこの仕事では珍しくない。


「以上って、雑すぎません?」


「雑に見えるやつほど、面倒だ」

 

 二人の視線の先、ベンチの足元に、黒いアタッシュケースが置かれていた。

 新品ではない。

 だが、傷だらけでもない。

 使い込まれているが、放置された感じはなかった。

 ――持ち主がいる。

 それだけで、警戒するには十分だった。


「どう見ても、ヤバいやつっすね」


「『ヤバい』は便利だが、『逃げ』だ」


「さっき俺に『雑』って言ってましたよね?」


「『雑』は仕事だ。『逃げ』は仕事じゃない」


 カワさんは手袋をはめた。

 年季の入った手にぴたりと馴染む。

 チノパンも、少し遅れて同じことをする。

 手袋を引っ張る動きが、わずかにぎこちない。


「爆発物の可能性は?」


「ある」


「毒ガスは?」


「ある」


「現金は?」


「……それも、あるかもしれん」


 最後の答えだけ、声の温度が変わった。

 チノパンは、それを聞き逃さなかった。


「最後、声のトーンが変わりましたよね?」


 だが、カワさんが、チノパンのリアクションを無視するかのように、アタッシュケースに耳を近づける。


「チノパン、聞こえるか?」


「……何がっすか」


「音だ」


「音?」


「あるはずの音が、ない」


「……時限爆弾の、時計?」


「そうだ」


 チノパンは、無意識に息を止めていたことに気づき、ゆっくり吐き出した。

 鍵穴はある。

 だが、鍵はかかっていない。


「……多いパターンだ」


「逆に怖くないっすか?」


「だからだ」


 カワさんは、留め金に指をかける。


「……開けるぞ」


「本気っすか」


「本気だ」


「……じゃあ俺、後ろ下がります」


 留め金が鳴った瞬間だった。

 ケースの蓋が、自分から跳ね上がった。

 バサッ、と鳩が一斉に飛び立つ。

 羽音が、公園の空気を切り裂いた。

 二人は反射的に身を低くし、息を詰めて中を覗き込む。


「自動開閉……!?」


「落ち着け」


 カワさんは、開いた蓋を無理に押さえず、

 視線だけを中へ滑らせた。

 チノパンは半歩遅れて、覗き込む。


「……先輩」


「なんだ」


「これ、時限爆弾だったら……」


「だったら?」


「コード、切るやつですよね」


「……」


 チノパンは真剣な顔で言った。


「赤か、青か……」


「お前、映画を見すぎだ」


「でも、そういう場面ありますよね!?」


「現実には、色分けされてない」


「夢がない!」


 チノパンは、開いたケースの縁に指をかけ、

 中を見ようとして、ふと止まる。


「……じゃあ、どれ切るんすか」


「切らん」


「え?」


「切らん。まず見る」


「いやでも、見る前に爆発したら?」


「そのときは、見る必要がなかったということだ」


「結論が冷静すぎる!」


 チノパンはごくりと唾を飲み、意を決したように言った。


「……先輩、俺、青を切る派です」


「理由は」


「青は、なんか……理性的じゃないですか」


「色に理性を求めるな。それで、……赤は?」


「赤は……情熱的すぎて信用できません」


「色の人格分析をやめろ」


 カワさんは、短く息を吐いた。


「いいか。赤も青も切るな」


「えっ」


「“切る”という判断は、中身を決めつけた証拠だ」


 チノパンは、言葉の意味を考えた。


「……あ」


「気づいたか」


「俺、完全に映画の刑事でした」


「今、戻ってきたな」


 二人は、同時に中を覗き込んだ。


 発泡スチロールの箱。

 緩衝材。

 その中央に——卵。


「…………卵?」


「……卵っすね」


「鶏卵か」


「鶏卵っす」


 爆発はしない。

 音もない。

 沈黙が、ゆっくりと戻ってくる。

 鳩が、様子をうかがうように戻ってきた。

 カワさんは卵を一つ取り、掌の上でそっと転がした。

 力は、ほとんど入れていない。


「異常はない」


「でも、分かったって言えるんすか」


「言えん」


 チノパンはケースの内側を見回した。

 内ポケットに、一枚の紙が挟まっている。


「先輩、メモがあります」


「読め」


「“取扱注意。金の卵。絶対に割るな”」


 さらに目を走らせる。


「“本町駅前公園・十時・受け取り。ボ――“」



 そのとき、低いエンジン音が、公園の外から滲んできた。

 黒い覆面パトカーが、音もなく滑り込んでくる。

 光らないし、回らない。

 走りもしないし、もちろん、歌いなどしない。

 それだけで、空気が変わった。

 運転席から出てきたのは、三つ揃えのスーツ、完璧に締められたネクタイ。

 そして、右手には、ブランデーグラス。

 平日の午前に、しかも、運転中であるにも関わらずである。


「……ボスだ」


 カワさんが、ぽつりと言う。

 捜査第一課課長、警部、通称――ボス。


「ご苦労」


 ボスはアタッシュケースを覗き込み、卵を一つずつ確認した。


「……割れてないな。これは俺のだ」


「へ?」


 チノパンは呆気あっけにとられる。

 

「なぜ、これに入れたと思う」


 ボスは卵を一つ確かめ、元の位置に戻した。

 それから、アタッシュケースの縁に指を置く。


「……警戒させるためですか」


「それもある」


 指が、ケースの縁を軽く叩く。


「だがな。理由はもう一つある」


「……もう一つ?」


「中身を、勝手に決めさせないためだ」

 

 二人の視線が、同時に卵へ戻る。


「スーパーの袋なら、誰も開けない。箱なら、誰かが覗く。だが、これは違う」


 ボスはアタッシュケースを見下ろす。


「危険かもしれない。だが、そうとは限らない」


「……」


「刑事が一番やってはいけないのは、“分かった気になる”ことだ。だから卵にした。駅前交番に通報したのも、俺だ」


「……卵」


「爆弾にもなる。差し入れにもなる」


「……」


「扱い方を間違えれば、割れる。だが、慎重に扱えば、何も起きん」


 ボスは二人を見た。


「公園に置いたのは、人目があるからだ。通報を入れたのは、考える時間を作るためだ。訓練だと伝えなかったのは……」


 ボスは、そこで言葉を切った。


「現場に出た瞬間、事件は事件だからだ」


 チノパンが、ゆっくり息を吐く。


「……じゃあ俺たちは」


「試された」


「……卵で」


「そうだ」


 ボスは、わずかに口元を緩める。


「お前らは、捜査一課の金の卵だ」


「出た! ボスの名言!!」


「割れたら終わりじゃない」


「……料理になります」


「そうだ」


 ボスは踵を返し、最後に言う。


「だから今日のお前らの昼飯は、――卵焼きだ」



 覆面パトカーが去る。

 低いエンジン音が、公園の空気を引き締め、そして消えた。

 静けさが戻る。

 チノパンの腹が、正直に鳴った。


「先輩」


「なんだ」


「事件って……腹減りますね」


「生きてる証拠だ」


 やがて、円形のパトランプが回り、セダンが、ゆっくり走り出す。

 卵事件は、卵のまま終わった。

 だが二人は知っている。

 次に開けるアタッシュケースの中身が、卵とは限らないことを。



(了)

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大曲本町駅前公園・謎のアタッシュケース事件 金城由樹 @KaneshiroYuki

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