星灯と色褪せた蛍火
夏目よる (夜)
Ich liebe dich
晩春の風が桜の花びらを巻き上げ、古い校舎の屋上の手すりを掠め、相沢悠太の垂れた髪梢をも撫でる。彼の指先に挟まれた半分の消しゴムは、手のひらに淡い青灰色の跡を残していた——昨日、隣の席の女の子のために星空を描いたとき、うっかりこすってしまった色だ。風には桜特有の甘い香りが漂い、屋上の隅に生えた雑草の渋みと混ざり合い、彼のぼんやりとした瞳に包み込まれる。
屋上の鉄の扉が「きしり」と音を立てて開かれた。錆びた蝶番の音が、静かな夕暮れの空気の中で、異様に響いた。悠太は振り返らない。誰が来たか、もう知っているのだ。この一週間、毎日この時間になると、転校生の椎名星灯が、画用紙を抱えて、この彼だけの秘密の場所に現れる。
「またここでごろごろしてるんですね、相沢くん。」
澄んだ女の子の声は、朝露に濡れた風鈴のように、きらりと鼓膜に響き渡る。悠太のまつげが微かに震えた。彼は消しゴムを制服のポケットにしまい、ようやく体を向けると、星灯が画用紙を抱えて扉のところに立っている姿が見えた。夕日が彼女の柔らかい髪梢から流れ落ち、白いシャツの襟元に暖かい金色の縁取りをつけていた。風が彼女の制服の裾を翻し、幾筋かの髪が頬に張り付く。まるで、彼が描いた光に包まれた画面のようだ。
星灯は先週、このクラスに転校してきたばかりの生徒だ。彼女は悠太とは違う。いつも背筋をピンと伸ばし、笑顔は夏の真昼の空のように明るく、いつも無愛想な美術の先生でさえ、彼女の名前を呼ぶとき、声に隠しきれない賞賛が込められている。東京の美術専門の中学に通っていたらしく、全国規模の絵画コンクールで賞を取った実績も持っているという。それに対し、悠太は——もう丸々三ヶ月間、ちゃんとした一枚の絵を描いていない。
半年前の市の青少年絵画コンクールで、彼の作品『蛍火の森』が金賞を受賞した。その絵の中には、夏の夜の森に蛍が舞い、白いワンピースを着た少女がつま先立ちになって、一番明るい蛍の光に指先を伸ばしていた。森の奥の木陰には、手をつないだ二人の背中が隠れていた。審査員は評価にこう書いていた——「この絵には人の心を照らす温もりがある。少年特有の、世界への最も優しい想像力が込められている」。
それは悠太の人生で最も輝かしい瞬間だった。授賞式の日、父はタンスの奥にしまってあったスーツを着てきて、母は彼の手を握りしめ、目を潤ませながら笑っていた。だが今、悠太の画用紙はいつも真っ白なままだ。絵の具の入ったパレットは早くもカサカサに乾いてしまい、絵筆は机の引き出しの隅に捨てられ、薄い埃を被っている。
「相沢くんの絵、本当にすごいんですよ。」星灯が彼のそばに歩み寄り、抱えていた画用紙を屋上のコンクリートの上にそっと置いた。紙同士がぶつかる軽い音に、手すりに止まっていた雀たちが驚いて飛び去った。彼女はしゃがみこみ、画用紙の山から巻き込みの折れたアルバムを取り出した。「コンクールのアルバムを見たことがあるんです。あの蛍火の光は、まるで紙から飛び出してきて、人の手のひらに止まるような気がしたんです。」
悠太の喉元がつかえたようになり、一言も話せなかった。彼の視線はアルバムの表紙に落ちた。そこには『蛍火の森』の縮図が印刷されており、少女の白いワンピースが闇の中で微かに光っていた。彼はコンクール終了後の雨の夜を思い出した。豆粒大の雨粒が画室のガラス窓を叩きつけ、パチパチと音を立てていた。母が画室に突っ込んできて、彼の絵の具を全部床に叩きつけた。水彩絵の具が壁に飛び散り、乱雑な色彩が滲んだ。母の泣き声が雨音と混ざり合い、彼の鼓膜を強く叩きつけた。その声は鋭く、絶望的だった——「絵なんか描いていて何が食べられるんだ?お前の父親がこんな無駄なことばかりしていたから、まともな仕事も見つけられなかったんだ。だから……」
それ以降の言葉は、悠太はもう覚えていない。ただ、あの日の雨がとても大きかったことだけは、鮮明に記憶に残っている。まるで、世界中を洗い流してしまいたいような、激しい雨だった。父は出世しないイラストレーターだった。一生を画室の小さな空間に閉じ込めて過ごし、家族に安定した生活を提供することもできなかった。三ヶ月前、突然の交通事故で、いつも優しく彼に絵の具の混ぜ方を教えてくれた父は、永遠に彼らの元を去ってしまった。
あの日から、悠太の絵筆は魂を奪われたようになった。彼はもうあのような蛍火の光を描くことができない。パレットの中で最も明るい黄色さえも、くすんで見えてしまうのだ。彼は逃げ始めた。画室から逃げ、絵筆から逃げ、絵画に関するすべてのものから逃げるようになった。屋上の隅っこでぼんやりと時間を潰す方が、かつて宝物のように大切にしていた絵筆に触れるよりも、ずっと楽だった。
「私も昔、絵が全然描けなかったんですよ。」星灯が突然口を開いた。その声はささやくように軽く、風に乗って散っていった。彼女は膝を抱えて悠太の隣に座り、空に沈み始めた夕日を眺めた。オレンジ色の光が彼女の指先から流れ落ち、溶けたハチミツのように甘やかだった。「小学生のとき、重い病気にかかって網膜に異常が起きて、ほとんど見えなくなる寸前だったんです。あの頃、毎日病室のベッドに横になって、何もすることがなくて、ただアルバムの絵の模様を指でなぞって、色の想像をするだけだったんです。」
悠太は横顔を向けて彼女を見た。夕日の光に包まれた彼女の輪郭は、いつにも増して柔らかく、長いまつげが小さな影を落としていた。
「あのときずっと思っていたんです。空って、どんな色なんだろう?桜って、本当にお母さんが言うようにピンク色なんだろうか?蛍の光は、暖かい黄色なのか、それとも冷たい白色なのか?」星灯の声には懐かしさが込められていた。「蛍の絵の模様を何度も何度もなぞって、凸凹した感触を心に刻み込んだんです。もしまた色が見えるようになったら、世界中のすべての光を描きたい。自分が見逃してしまったすべての景色を、絵に残したいって。」
彼女は手を上げて、空の夕焼けを指差した。オレンジ、ピンク、薄紫、水色——層々に重なった色彩が空に滲み、まるでひっくり返されたパレットのようだった。「その後、目が治ってからは、必死で絵を描き続けました。描いた空が歪んでいても、花が四角くなっていても、蛍の光が太陽よりも眩しくなっていても、決して止めなかったんです。なぜなら、色が見えること、絵筆を握ることができること自体が、もう十分に幸せなことだったからです。」
星灯が顔を向けて彼を見つめた。その瞳には、砕け散った星屑のような微かな光が宿っていた。「相沢くんは、描けなくなったんじゃなくて、ただ絵筆を隠してしまっただけですよね?絵が嫌いになったんじゃなくて、もう一度それに触れる勇気がなくなっただけ、でしょう?」
悠太の心臓が、何かに強く握り締められたように痛んだ。彼は頭を垂れて、手のひらに残った青灰色の跡を見つめた。まるで、凍りついた星空のようだ。父が彼に絵筆の持ち方を教えてくれた姿、絵の具がキャンバスに滲む柔らかな感触、田舎の祖母の家で過ごした夏の夜——そんな記憶が蘇ってきた。祖母の家の裏庭には蛍の森があり、毎晩、蛍が舞い踊って、まるで空から降り注いだ星屑のようだった。父は彼の手を引いて蛍の森に入り、こう言ってくれた——「悠太、絵を描くときに一番大事なのは技術じゃないんだ。心の中の光を、絵の中に込めることだよ。」
あのときの風は優しく、蛍の光は明るく、父の手のひらは暖かかった。
風がまた吹いてきて、桜の花びらが彼の髪に舞い落ちた。まるで、ピンク色の雪が降っているようだ。悠太の目が急に熱くなり、彼は顔をそらして、星灯に自分の濡れた瞳を見せたくなかった。
星灯は彼の気持ちを察したのか、深追いはしなかった。彼女はただしゃがみこみ、画用紙の山から一枚を取り出し、そっと彼の目の前に差し出した。それは未完成の絵だった——灰色の屋上に、手すりの影が長く伸びており、一人の少年が風の中にぽつんと立っている。少年の足元には、桜の花びらが散らばっていた。絵の中の少年は悠太とそっくりで、垂れた髪梢まで、まったく同じだった。
「これは昨日、こっそり描いた相沢くんの絵です。」星灯の声は柔らかかった。「ずっと、何かを待っているように見えたんです。風が吹くのを待って、桜の花が散るのを待って、あるいは……もう一度絵筆を握る理由が見つかるのを、待っているんですね。」
悠太の視線が画用紙に落ちた。少年の背中は、見ているだけで胸が痛むほど細くて寂しそうだった。彼は突然、『蛍火の森』の少女のモデルが、実は若い頃の母だったことを思い出した。あの頃、母はいつも彼の絵を見て笑ってくれて、膝の上に彼を抱き上げてこう言ってくれた——「うちの悠太は、将来すごい画家になるんだよ。世界中を照らすような絵を描いてね。」
いつの間にか、そんな優しい期待は、鋭い責め言葉に変わってしまったのだろう。いつの間にか、彼の心の中の光も、消えてしまったのだろう。
風が桜の花びらを巻き上げ、画用紙の上に舞い落ちた。まるで、静かな慰めのようだ。悠太の指先が、ついに画用紙に触れた。紙の粗い感触が、太陽の温もりを伝えてくれ、彼の眠っていた記憶を覚ました。抑圧されていた、忘れ去られていた、心の奥底に隠されていた愛着が、土から芽吹く若草のように、少しずつ湧き上がってきた。
「僕は……」悠太の声はかすれていた。彼は濡れた目をこすりながら言った。「もう、絵の具の混ぜ方が、忘れちゃったみたい。」
星灯が笑った。その笑顔は春の一番目の陽光のように、悠太の心の中の曇りを晴らしてくれた。彼女はポケットから黄色いクレヨンを取り出し、彼の手のひらに置いた。クレヨンの温かさが指先から伝わり、心の奥底まで暖かくなった。「大丈夫です。蛍火の光から描き始めましょう。少しずつ、ゆっくりと明るくなっていけばいいんです。」
悠太はクレヨンを握りしめた。指の腹に伝わる温かい感触が、彼の不安を和らげてくれた。彼は頭を垂れて、画用紙の上の寂しげな背中を見つめ、長い間躊躇った後、ついに少年の足元に、小さな光点をそっと描き加えた。
一つ、また一つ。
黄色い光点が増えていき、散りばめられた星屑のように、灰色の屋上を徐々に覆っていった。風が桜の花びらを巻き上げ、光点の上に舞い落ちた。まるで、蛍の光がそっと揺れ動いているように見えた。悠太の手はもう震えなくなり、彼の視線は画用紙に集中し、一筆一筆丁寧に光点を描き加えていった。祖母の家の蛍の森、父の暖かい手のひら、母のかつての笑顔——そんな色褪せた記憶が、黄色い光点の中に、少しずつ色を取り戻していくのだった。
星灯は彼の隣に座り、静かに彼が絵を描く姿を見守っていた。夕日は徐々に地平線に沈み、空の夕焼けは最後の輝きを失った。濃い青色の夜空に、最初の星がそっと輝き始めた。
悠太が最後の光点を描き終えて頭を上げたとき、星灯が彼のことを見て笑っていた。彼は突然、色褪せた日々も、隠してしまった夢も、この瞬間に、また色を取り戻したような気がした。彼は手の中のクレヨンを見つめ、画用紙の上の光点を眺め、再び目が熱くなった。
救いなんて、決して派手な奇跡や突然の幸運なんかじゃないのだ。ただ誰かが、あなたのそばに座ってくれて、桜の花が散るのを一緒に待ってくれること。蛍の光が一つ明るくなるのを、静かに見守ってくれること。「大丈夫だよ、ゆっくりでいい。私が待ってるから」と、誰かがそう言ってくれること——それが救いなのだ。
悠太はクレヨンを強く握りしめ、画用紙の上に二人目の姿を描き加えた。画用紙を抱えた女の子が、少年のそばに立っていて、彼女の指先にも、小さな蛍の光がとまっていた。風が屋上を吹き抜け、桜の香りを運んでくれた。まるで、優しい歌が流れているようだ。
悠太は画用紙の上の二人の背中を見つめ、光点を眺めて、久しぶりに笑った。まるで、重い荷物を下ろしたように、心が軽くなった。まるで、見えない鎖から解放されたように、自由になったのだ。
星灯は彼の笑顔を見て、目を細めて笑った。「ほら、明るくなってきましたよね。」
悠太は頷いた。彼は頭を上げて、濃い青色の夜空を眺めた。星が一つ、また一つと輝き始め、まるで散りばめられた蛍火のようだった。彼は父の言葉を思い出した。絵を描くときに一番大事なのは技術じゃない。心の中の光を、絵の中に込めることだ——そうだった。
彼は頭を垂れて、手の中のクレヨンを見つめ、ささやいた。「うん、明るくなった。」
その夜、悠太は家に帰って、初めて自分から画室の扉を開けた。彼はしゃがみこんで、散らばった絵の具を拾い上げ、カサカサに乾いたパレットを洗い流し、埃を被った絵筆を拭き上げた。彼は画用紙を広げ、蛍の森を描き、手をつないだ親子の姿を描き、微笑む母の姿を描き、桜の花の中に立つ女の子の姿を描いた。
窓の外の月明かりは、柔らかな蛍火のように明るかった。悠太は絵筆を握りしめ、唇に浮かんだ笑顔が、二度と消えることはなかった。
心の中の光が再び灯り始めたとき、色褪せた蛍火も、きっと再び輝き始めるのだ。
星灯と色褪せた蛍火 夏目よる (夜) @kiriYuki_01
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