水晶のオーナメント

愛月撤灯(まなづきてっとう)

水晶のオーナメント

 その年のクリスマスは、彼女にとって祈りの形を失った季節だった。若い貴族令嬢ルチアは、恋人ミトラをうしなってから初めて迎える聖夜を、屋敷の壁の内側でやり過ごす勇気がなかった。

 彼がいなくなってから、朝は朝であるだけ。湯気の立つ茶も、甘い菓子も、舌の上をすべって形を結ばない。人の声は遠い水音のように薄れ、祈りだけが唇の端で乾く。

 彼女はただ、もう一度あの声を聞きたかった。もう一度、あの手の温度に触れたかった。たとえ代償が要るとしても、その代償の重さを自分の身で引き受けに行きたかった。

 だからこそ、早く眠り、早く起き、誰よりも早く礼拝へ向かうつもりでいる。彼が愛した教会で、せめて彼の記憶に触れたかった。

 けれど、目覚めたとき、夜はまだ深かった。

 窓の外は月光に満ち、時計を見たが、針は十二を少し越したあたりから動いていなかった。だから今が何時なのか、見当をつけられない。

 それでも胸がざわめき、横になっていられなかった。

 ルチアは外套を羽織り、賛美歌集を抱え、教会の方角を見やる。

 教会が、光っていた。

 窓という窓に灯りがあり、まるでもう礼拝が始まっているかのようだった。

「もう人が集まっているのかしら」

 遅れてはいけない。そう胸の内で言いかけた瞬間、理由も分からず涙がこぼれた。

 雪を踏みしめ、丘を上る。

 道は異様なほど静かで、行き交う人はひとりもいない。息の白さだけが、生きている証のように揺れた。

 扉は音もなく開く。

 中には人がいた。

 長椅子は埋まり、聖歌は低く、そろいすぎるほどそろっていた。

 ルチアは、すぐには違和感を言葉にできなかった。悲しみの中では、異様さは簡単に薄まってしまう。

 空いていた席に腰を下ろし、手袋を外し、賛美歌集を開く。

 そのとき胸の奥に、言いようのない寒気が走った。

 周囲にいる人々の顔色が、あまりにも白い。生きている者の血の気ではない。

 誰ひとりとして見知った顔はいないのに、どこかで見たことがある気がする者が何人もいる。

 やがて説教壇に司祭が上がった。だがそれは町の司祭ではなく、背が高く、青白い男だった。彼女はその男にも、見覚えがある気がした。

 説教は不思議なほど美しく、そして教会の中は息が詰まるほど静まり返っていた。いつもの礼拝にある咳払いも、衣ずれもない。針が床に落ちても聞こえるほどの沈黙が、礼拝堂に張りつめていた。

 人々が再び歌い始めたとき、隣の席の人影がゆっくりとこちらを向いた。

「……来たんだ」

 恐怖より先に、胸の奥が熱くなった。会いたかったという言葉が喉の奥でほどけそうになる。ここがどこで、誰が歌っていようと、隣にいることだけが真実のように感じられた。

 けれど同時に、察してしまう。彼の肌は雪の色をしている。生きている者の色ではない。

 その声は、懐かしい響きを含んでいた。

 声を聞いた瞬間、心臓が止まった。

 それは、忘れようとしても忘れられない声だった。

 彼女は恐る恐る隣を見る。

 そこにいたのは、亡くなったはずの恋人ミトラだった。

 生前と同じ黒衣。

 同じまつげの影。

 ただ、肌の色だけが雪のように淡かった。

 会えないはずの人が、ここにいる。たとえ許されない再会だとしても、今だけは息ができる気がした。

「どうして……?」

 言葉にならない問いは、喜びと困惑が入り混じっていた。

 彼は首を振ってさえぎった。

「まだ気付いていないんだね。ルチア、周りをよく見て」

 ルチアは視線を巡らせる。

 すると、初めて違和感が形を持った。

 会衆の顔はどれも見覚えがある。

 だがそれは、葬列で見た顔だった。

 幼いころに亡くなった使用人。

 昔、屋敷の門前で倒れた老人。

 名を刻まれた墓石の主たち。

 血の気が引く。

「……ここは」

「生きている人の礼拝じゃない。早く来すぎたんだ」

 ミトラは低く言った。

「外套を、ゆるめて。すぐに教会の外に出て。ここが終わるまで居たら、あの人たちに命を取られる。ここにいるのは死者だ。死者が礼拝しているんだよ」

 慌てて周囲を見渡すと、説教壇の男も、会衆の中の何人もが、遠い昔に死んだ者たちだと、次々に記憶がつながっていく。背筋が凍り、彼女は言われた通り外套をゆるく羽織ったまま立ち上がり、会衆席の間の中央通路を出口へ向かった。

 そのとき、空気が変わった。

 背後で長椅子が一斉にきしむ。

 歌声が途切れた。

 沈黙が落ちた。

 ――気付かれた。

 白い顔がこちらを向き、無数の視線が獲物を見つける。

「生者だ」

「境を越えた」

「返せ」

 ささやきが波のように押し寄せる。

 ミトラはルチアの手をつかんだ。

「走る。今だ」

 低く鋭い声だった。

 その一言で、礼拝堂の空気が裂けた。

 ルチアは息を吸う間もなく、ミトラに引かれるまま出口へ向かって走った。長椅子の列が両側から迫り、まるで骨のように彼女を囲む。

 足音が落ちる。ひとつではない。無数だ。

 白い顔が一斉にこちらを向いた。視線が背中に突き刺さる。

 祈りのための通路を、逃げるために使うことなど考えたこともなかった。

 足がもつれ、石床が滑り、息が喉に絡みつく。

「速く」

 ミトラは先に立ったまま、振り返らずに彼女の手を強く引いた。引かれる力だけが導きになり、ルチアは転びそうな足を必死に追いつかせる。

 出口が見えた。礼拝堂を出る扉――入口前室へ通じる扉だ。

 あと数歩。

 ミトラは扉を押し開けると同時に、ルチアの手をほどいた。代わりに肩へ手を添え、前へ押し出す。

「行け」

 ルチアは入口前室へ転がり込む。冷え切った空気が、肌の上を走った。

 背後で扉が鳴る。ミトラが礼拝堂側へ半身を残し、追い手を遮るように扉際に立った気配がした。

 立ち止まるな。

 振り返るな。

 ルチアは前室の石床を蹴り、外扉へ走る。取っ手に指が触れた、その瞬間。

 ぐい、と身体が後ろへ引かれた。

 外套の背に、何かが絡みついている。布が引き絞られ、首元が締まる。

「――っ!」

 視界の端に、前室の扉の隙間から白い手が何本も伸びて、外套をつかんでいるのが映った。

「離して……!」

 声にならない叫びが喉を震わせる。

 背後から、ミトラの声が裂けるように飛んだ。

「脱げ」

 ルチアは留め具に指をかけ、もつれる手でそれを外した。外套が肩からすべり落ちた瞬間、白い手がそれを奪い取っていく。布が裂ける音がして、冷気がむきだしの肌へ噛みついた。

 身体が自由になった。

 ルチアは息をのみ、外扉にすがりつくようにして立て直す。だが。


 ――このまま、彼と同じ場所に。


 生きていることが正しいのだと、誰が決めたのか分からない。彼のいない此岸しがんが空っぽなら、境の向こうで満ちるほうを選んでもよいのではないか。

 その誘惑を断ち切るように、ミトラの声が背から届いた。

「ルチア!」

 ルチアははっとして振り返る。

 ミトラは、まだ前室の中ほどにいた。

 白い手が彼の背にかかる。袖をつかみ、肩を引き、中へ引き戻そうとする。

「ミトラ!」

 ルチアは叫び、外扉に手をかけたまま駆け戻りそうになった。

 彼は苦しそうに笑った。

「……ここまでだと思ってた」

 次の瞬間、彼は力任せに身をひねり、追い手を振りほどいてルチアの元へ踏み出した。

 本来、許されないはずの一歩。

 彼の靴が石床を打ち、片方が音を立てて脱げ落ちた。彼はそのままルチアを抱き寄せ、外扉を押し開ける。

 そして、教会の外へ。

 夜気が爆ぜるように流れ込む。

 だが同時に、ミトラの輪郭が揺らぎ始めた。淡い光が身体の奥からにじみ出す。

 消えてしまう。

 また、ひとりに戻される。

 ルチアは迷わなかった。

 彼女は手を伸ばし、彼の指を探し当て、その手を強く握った。

「離しません」

 低く、確かな声だった。

 生者の温度と死者の冷たさが触れ合った瞬間、ふたりは静かに光った。光は雪に溶けるように薄れ、あとには夜気だけが残った。

 それが救いだったのか、罰だったのか、誰にも分からない。


 翌朝。

 教会の石段には、引き裂かれ、ぼろ布のようになった令嬢の外套が落ちていた。

 そのそばに、男物の靴が片方。

 令嬢は、どこにも帰らなかった。

 ただ、教会の入口に飾られたツリーに、新しい飾りが増えていた。

 寄り添うように結ばれた、ふたつの水晶。

 ひとつは細く、ひとつは少し大きい。触れ合う部分だけが、いつも温かく曇っていると人々は言った。夜更けに近づくと、ときおり寄せては返すように、ふたつがかすかに揺れるのだとも。

 それが誰のもので、どこへ行ったのかを口にする者はいなかった。

 その年から、誰も、クリスマスの礼拝に早く来ることはなくなった。


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水晶のオーナメント 愛月撤灯(まなづきてっとう) @tettou_manazuki

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