赤橙黄緑青藍紫
玄 麻衣
赤い色彩
「いろは、最近学校休みがちじゃない?」
母さんの声に、姉ちゃんは箸を止めた。
「コンクールに出品する作品を作ってる。」
「コンクール?」
「芸術コンクール。締め切りが来月だから。」
へえ、と僕は味噌汁をすすった。いろは姉ちゃんが絵を描くのは知ってる。
というか、小さい頃から絵ばっかり描いてた。でも、コンクールに出すなんて初めて聞いた。
「それは…いいけど、学校はちゃんと行かないと」
母さんが眉をひそめる。
「大丈夫。授業日数は足りてるから。」
「ちょっと、そういう問題じゃ…」
「それよりさ、ちょっと相談があるんだけど」
姉ちゃんは僕の方を向いた。
「はるき、何か赤い色彩を知らない?」
「赤い色彩…赤い色の何かってこと?」
「うん。茜色でも、夕焼け色でもない。もっと深くて、もっと鮮烈な、赤い色彩。」
また始まった、と僕は思った。姉ちゃんは時々、変な色の話をしてくる。
「知らないよ。絵の具じゃだめなの?赤色の絵の具。」
「試したけど、あんな色彩は私の作品にふさわしくないの。」
母さんが箸を置いて、ため息をついた。
「いろは、あんまり部屋を汚さないこと。いいわね?」
「気をつける。」
姉ちゃんはそう言ったけど、その目はもう食卓にはなかった。
それから一週間が経った。
学校から帰ると、母さんの声が響いてくる。
「いろは!いい加減にしなさい!こんなに散らかして!」
姉ちゃんの返答は聞こえない。僕はその声を無視して、階段を上がった。
鞄を僕の部屋に置く。
「もう知らないわよ」
母さんの声が聞こえる。
僕は好奇心に突き動かされ、姉ちゃんの部屋を覗くことにした。
姉ちゃんの部屋の戸は開いていた。
床にはトマトが転がっていた。数々の赤色の花びらが舞う。
どこから拾って来たかもわからない、赤色のプラスチックのじょうろがこっちを見ている。
姉ちゃんはカンバスの前に座り込み、それらを眺めていた。
「違う、これも違う…」
独り言が聞こえた。
そういえば昨日、友達に「姉ちゃんが最近ヤバい」って話したばかりだった。でも、想像以上だった。
僕は何も言えずに、そっと部屋を離れた。
締め切りまで、あと3日になった。
姉ちゃんはもう学校に行かなくなった。部屋から出て来るのはトイレに行くときだけ。
食事も一人で食べている。母さんが運んだ皿が、手つかずのまま廊下に置かれていることもあった。
その日も、僕が帰って来ると。
「いろは!いつまでこんな事をしているのよ!」
返事はない。
母さんは階段を上がり、戸を開けた。そして、悲鳴に近い声。
「何これ…部屋中が…!」
僕も慌てて姉ちゃんの部屋に行く。
姉ちゃんの部屋は、真っ赤だった。
壁や床はサンプル紙代わりにされ、まるで色見本だ。
乱雑に色を絞られた花卉、潰された果実、砕かれたゴミ。
何もかもが赤かった。
その中心に、姉ちゃんが座っていた。
人一人より大きなカンバスを眺め、呟いている。
「まだ…違う…こんなのじゃ…」
その絵は、見事な風景画だった。ただ、空だけが真っ白に残されている。
「いい加減にしなさい!あなた、頭がおかしくなってるのよ!」
母さんの声に、姉ちゃんが振り向く。
「どこにもないのよ…」
「どこを探しても、私が思う色彩がないの。」
「もっと鮮やかで、もっと美しい赤い色彩が…」
姉ちゃんの声はかすれていた。
母さんは呆れ果てたのか、かける言葉が見当たらないのか、姉ちゃんの部屋を去っていった。
僕は、姉ちゃんに少しだけ話をした。
「姉ちゃん、大丈夫?」
「はるき、私は大丈夫よ。」
「…約束しよ。僕だって部屋を汚しちゃう時もある。だから。」
「姉ちゃんの部屋は好きにしていいけど、みんなの部屋は汚さないで。」
「わかった。約束するよ。」
姉ちゃんはそれだけ言うと、巨大なカンバスに目をやった。
締め切りまで、あと一日。
姉ちゃんは相変わらず部屋から出て来ない。
あの日以来、母さんは姉に食事を持っていくのをやめた。
姉はもはや、部屋から一度も出て来ない。
ただ筆を動かす音だけが、姉ちゃんを生かしていた。
その日の夕方。
姉がやはり心配になり、戸に耳を当ててみた。
すると、独り言で何かを呟いている。
「…これ…」
「これだ…この色彩…」
泡混じりの声が聞こえてきた。
僕は、理由もわからないのに胸の奥がざわついた。
何か、とても聞いてはいけないものを聞いた気がして、その場を去った。
夜中に、物音で目が覚めた。
時計は午前三時を示している。何かが倒れた音がした気がした。
僕はベッドから起き、部屋を出た。
階段を降りる。リビングの戸が少しだけ開いている。
僕はドアに手をかけて、ゆっくりと開けた。
リビングには、姉ちゃんがいた。
「あ、はるき…」
「ごめんね、約束、破っちゃった。」
「あんまりにも嬉しかったんだ。」
「でもこうして、けっこう色が付いちゃって…本当にごめんね。もうしないから。」
リビングは色で染まっていた。
僕は、それを茫然と眺めるしかなかった。
頭が真っ白になって、何も考えられなかった。
家を出て、ひたすら走った。
気がつくと、祖父母の家に来ていた。
祖父母の家に転がり込んでから数週間。
久々に帰って来た父親から連絡があった。
姉が、作品の前で死んでいたそうだ。
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