第6話《死の淵の夜明けと、震える体温》
1. 鳴り止まない喘鳴
夜が、重かった。 かまどの上で新設した煙突が静かに熱を逃がしているが、それ以上に母の容態が急激に崩れた 。 寝台の上で、リュミアの母の胸が壊れたふいごのように激しく上下している。
「……はぁ、はぁ……っ、ごほっ!」
喉の奥で、粘りついた何かが肺を塞いでいるような、嫌な音が部屋に響く。 駆けつけた治療師のフィリオが脈を取り、顔を曇らせた 。
「智也さん、良くありません。胸の奥に溜まったものが動かず、呼吸を邪魔しています」
フィリオの煎じた薬草も、吸い込む力が弱すぎて届かない。
「……お母さん。お願い、目を開けて」
リュミアが母の手を握りしめ、必死に呼びかける。 その細い指が、白くなるほど強く握られていた。
(……このままじゃ、本当に終わる。でも、俺は医者じゃない。下手に手を出して、もし――)
2. 棒が示した『覚悟』
俺はたまらず、一度外へ出た。 夜の冷気が肺に刺さる。 手が震えていた。日本にいた頃の俺なら、救急車を呼んで終わりの場面だ。
ふと、戸口に立てかけてあった『判断の棒』が目に留まる 。 俺はそれを手に取り、暗い地面に垂直に立てた。
「……俺が、俺の知識で介入すべきでしょうか」
指を離す。 棒は一瞬、完璧な静止を保ち―― ことり、と。迷いなく家の方角へ倒れた。
(……やっぱり、そう来るか)
俺は棒を握りしめ、踵を返した。
「分かった。やるよ」
家に戻り、リュミアの隣に膝をつく。
「リュミア、試したいことがあります。お母さんを横向きにするんだ。重力と振動で、胸の奥の詰まりを動かす」
リュミアは俺の目を真っ直ぐに見つめた。 そこには、絶望ではなく、俺への一点の曇りもない信頼があった。
「……うん。トモヤに、任せる」
3. 指先から伝わる信頼
「リュミア、背中を支えてくれ。俺が叩く」
母を横向きに寝かせ、俺は手のひらを丸めて背中を一定のリズムで叩き始めた。 肺の奥に溜まった痰を、物理的な振動で動かす『手順』だ。
看病の熱気と湯気のせいで、隣で支えるリュミアの薄い服が肌に張り付いている。 懸命に動く彼女の肩先や、首筋に浮かぶ汗。 処置の最中、俺たちの指が何度も触れ合うが、それを気にする余裕すらなかった。
ごぼっ、と母が激しく咳き込んだ。
「……出た!」
リュミアが素早く桶を差し出し、詰まっていたものを吐き出させた。 一度では終わらない。何度も、何度も、俺たちは呼吸の音を確かめながら手順を繰り返した。
次に必要なのは、衰弱した体に吸収される水分だ。
「リュミア。塩と蜂蜜を微量に混ぜた水を作ります。ただ、水が足りない。汲みに行く時間が惜しいんです」
リュミアが眉を寄せ、桶に手をかざした。
「水よ……。今、お母さんのために」
彼女の指先から、清らかな水分が溢れ出し、桶を最適な温度で満たした。 魔法で『詰まり所』を一度だけ突破し、そこへ俺が正確な比率で『経口補水液』を仕立てる 。
一匙ずつ、唇を湿らせるように飲ませる。 俺を支えるリュミアの熱い吐息が、すぐそばで聞こえていた。
4. 夜明けの体温
空が青白く染まり始めた頃。 喉の奥の嫌な音が消え、母の胸がゆっくりと、深く上下し始めた。 眠るその顔に、ようやく赤みが戻っている。
フィリオがそっと母に手を当て、安堵の息を吐いた。
「……峠を越えました。智也さん、あなたの『手順』が命を救ったんです」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに。
「トモヤ……!」
背後から、強い力で押し倒されるような衝撃があった。 リュミアが、泣きながら俺に飛びついてきたのだ。
「……っ!」
細い体が胸にぶつかり、彼女の腕が首に回される。 耳元で、震える呼吸と激しい鼓動が聞こえた。 彼女の長くしなやかな尻尾が、俺の腰のあたりにぎゅっと巻き付いている。
「ありがとう……本当に、ありがとう……トモヤがいなかったら、私、どうしていいか……」
彼女の熱い涙が、俺の首筋に落ちた。
(……あ。俺、今……)
抱きしめ返す余裕もないほど、俺の心臓はうるさかった。 だが、腕の中の彼女の重みと、その震えが、何よりも重い『信頼』として俺の胸に刻み込まれる。
「……すごい人、だと思う。……トモヤ。もう、どこにも行かないで」
小さな、けれど消えない決意のような声が漏れた。 外では、スノウィ村の雪を溶かすような夜明けの光が、まっすぐに差し込んでいた。
(……守り抜いたんだな、この場所を)
俺は震える手で、そっと彼女の背中を支えた。
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