選んだ先で、笑うために

メカトロニクス

第1話 転生

私には、どうしても忘れられない大好きな漫画があった。

その物語の最初のヒロイン――エレナは、いつも柔らかな笑顔を浮かべ、誰よりも主人公のことを想い、彼のために行動する少女だった。

けれど物語が進むにつれて、主人公の周囲には次々と新しいヒロインが現れる。

そして彼は、まるでそれが当然のように、エレナには目も向けず、別の誰かと親しげに過ごすようになった。

それでも作者は気にも留めていないのだろう。

エレナにこんな台詞を平然と口にさせるのだ。


『あなたは優しいから、たくさんの人が引き込まれるんだよ』


――優しい?

そんなわけがない。

本当に優しい人間が、こんな仕打ちをするだろうか。

どうしてエレナは、こんな男に笑顔を向けられるの?

どうして、そこに幸せを見出せるの?

もし私だったら――

絶対に、エレナをあんな扱いはしない。

私なら、必ず彼女を幸せにできるのに。








目を覚ましたとき、最初に感じたのは違和感だった。

天井が高い。見慣れない木目。柔らかな光を通すカーテン。

――ここ、どこ?

起き上がろうとして、視界の端に映った自分の手を見て息を呑んだ。

白くて、細くて、指先がやけに綺麗だ。


「……え?」


思わず声を出すと、聞き覚えのない少女の声が返ってきた。

慌てて部屋を見渡し、鏡を探して覗き込む。

そこにいたのは、知っている顔だった。

いや、“知っている”なんて言葉では足りない。

何度も何度も漫画で見てきた、あのキャラクター。

――この世界で、主人公に一度だけ淡い恋心を向け、

その後は他のヒロインたちに押し流されるように出番を失う少女。


「……嘘でしょ」


私は、あの漫画の世界に転生していた。

次の瞬間――心の奥から、別の感情が湧き上がる。


(……なら、ちょうどいい)


この世界を、私は知っている。

物語の流れも、主人公の選択も、

そして――エレナが、どれほど報われないかも。

その日の午後、私はエレナに初めて会った。

庭園の隅、花に水をやりながら微笑む彼女は、

漫画で見たままの、優しくて、どこか儚い少女だった。


「こんにちは」


声をかけると、彼女は少し驚いた顔をしてから、すぐに柔らかく微笑んだ。


「こんにちは。あなたも、お花の世話を?」


その笑顔を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。

――この人は、この先、どれだけ傷ついても笑う。

主人公の何気ない一言に、

他のヒロインたちの距離の近さに、

それでも「仕方ないよ」と自分を納得させながら。


(……そんな必要、ない)


私はエレナの隣に立ち、同じ花を見つめた。


「あなたって、本当に優しいんですね」


何気ない一言だった。

けれどエレナは少し困ったように笑った。


「そんなこと、ないですよ」


――ほら。

自分の価値を、こんなにも低く見積もっている。

この瞬間、はっきりと理解した。

私はこの世界で、主人公と争うつもりはない。

奪うのは、エレナの心じゃない。

“主人公が当然のように得ている立場”そのものだ。

彼より先に彼女を理解し、

彼より深く彼女を尊重し、

彼より確かに、彼女の味方であり続ける。


「エレナ」


名前を呼ぶと、彼女は少し驚いたようにこちらを見た。


「これから、仲良くしてもいいですか?」


彼女は少し考えてから、嬉しそうに頷いた。


「はい、もちろん」


――その笑顔を、

最後に選ばれる理由にしてみせる。

この物語の結末は、原作通りになんてさせない。

主人公が気づいたときにはもう遅い。

エレナの幸せは、

私が、私のやり方で掴み取るのだから。








主人公――アルトは、最近どうにも落ち着かなかった。

理由ははっきりしている。

いや、正確に言えば「理由がはっきりしないこと」そのものが、彼を苛立たせていた。


(……なんだ?)


学院の中庭。

昼休み、いつものようにエレナの姿を探して視線を巡らせる。

――いた。

噴水のそば。

けれど、そこにいるのは彼女一人ではなかった。


「……あれ?」


エレナは、見慣れない少女と並んで座り、穏やかに話している。

笑顔は変わらない。

けれど、どこか違う。


(あんなふうに、話してたか?)


以前なら、エレナはアルトの姿を見つけると、すぐにこちらに気づいて、軽く手を振ってきた。

それが当たり前だった。

――なのに。

彼女は、気づかない。

いや、正確には「気づいているのに、こちらを見ない」。

アルトは小さく舌打ちし、二人に近づいた。


「エレナ」


名前を呼ぶと、彼女は少し遅れて振り向いた。


「あ、アルト。こんにちは」


声は柔らかい。

笑顔も、いつも通りだ。

それなのに。


(……なんだよ、その“距離”)


以前より、ほんの一歩。

たったそれだけ、彼女が遠い。


「隣、いい?」


断りもなく腰を下ろすと、エレナは少し驚いたように瞬きをした。

だが、拒むことはない。

その様子を、隣の少女――“私”は静かに見ていた。


(来た)


原作通り。

アルトは、エレナが自分から離れ始めたときだけ、妙に敏感になる。


「最近、忙しそうだな」


アルトの言葉に、エレナは少し考えてから答えた。


「そう……かもしれません」


「ふーん。何してるんだ?」


問いかけは軽い。

けれど、その裏にあるのは「把握しておきたい」という無意識の独占欲。

エレナが答える前に、私は口を挟んだ。


「私と話してるだけですよ」


アルトの視線が、私に向く。


「……君は?」


「同じクラスのリナです」


名前を名乗ると、アルトは一瞬だけ眉をひそめた。

原作でも、彼は脇役ヒロインの名前を覚えない。


「そう」


興味を失ったように、視線はすぐエレナへ戻る。


「エレナ、今度の休日――」


「ごめんなさい」


エレナの言葉が、アルトの声を遮った。


「その日は、先約があって」


一瞬、空気が止まる。

アルトは笑った。

いつもの、余裕のある笑みだ。


「そっか。じゃあ、また今度な」


――原作なら、ここで終わる。

エレナは「ごめんね」と謝り、次の機会を待ち続ける。

でも。


「はい」


エレナは、それ以上何も言わなかった。

追いかけない。

言い訳もしない。

「寂しい」も「残念」も、口にしない。

その変化に、アルトは気づいていないふりをした。

けれど。


(……なんだよ、それ)


胸の奥に、小さな棘が刺さる。

その日の帰り道。

エレナは私と並んで歩いていた。


「さっきは……ごめんなさい」


ぽつりと、彼女が言う。


「無理しなくていいですよ」


私はそう返した。


「エレナが誰と、どんな時間を過ごすか。

それを決めるのは、エレナ自身です」


彼女は足を止めた。


「……そんなふうに、考えたことなかったです」


小さな声。

でも、確かに“気づき”があった。

原作のエレナは、

「選ばれるかどうか」だけを考えて生きていた。


(でも、今は違う)


私は彼女の隣で、立ち止まる。


「誰かの優しさに、しがみつかなくてもいいんです」


エレナは、ゆっくりと私を見た。


「……リナさんは、どうしてそんなことを?」


その問いに、私は少しだけ笑った。


「そういう話を、してくれた人がいたんです」


嘘ではない。

前世の私自身が、ずっとそう願っていた。

遠くで、アルトがこちらを見ている。

二人で並ぶ私たちの姿を。

その視線に、私は気づかないふりをした。


(もう始まってる)


これは恋の奪い合いじゃない。

“当たり前だと思っていた関係”が、崩れていく物語。

そして、アルトが気づく頃には――

エレナの心は、もう彼だけのものじゃない。




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2025年12月25日 18:00
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