第2話 異世界の森で、彼女は剣を抜く
━━痛い。
高いところから叩き落とされたのだろうか。全身にじんじんとした痛みが走る。背中に当たる感触に違和感を覚え、俺はゆっくりと目を開けた。
視界いっぱいに、青空が広がっていた。さっきまで夕暮れの部室にいたはずなのに、今は雲ひとつない昼間の空になっている。眩しさに目を細めながら、上半身を起こした。
「ここは……どこだ」
周囲に広がっているのは、見たことのない木々に覆われた森だった。遠くには、石造りの高い城壁のようなものが小さく見える。ビルも電柱も、道路もない。見慣れていたはずの風景は、どこにも存在していなかった。
さっきの黒い穴。あれに、俺は引きずり込まれて──。
頭がぐらぐらする。夢かと思ったが、肌に触れる風が、あまりにもリアルすぎた。
立ち上がろうとした、その時だった。
──グルルルルゥ。
低い唸り声が、背中の方から聞こえてきた。
ゆっくりと振り返る。目に飛び込んできたのは、図鑑でも見たことのない、禍々しい生き物だった。
「何だ……コイツ」
姿形は、猪が一番近いだろうか。だが、その肉体は俺の知っている猪のそれを遥かに超えていた。全身は黒い毛皮に覆われ、口からは巨大な牙が突き出ている。背中からもいくつもの棘が生え、その存在がいかに危険かを雄弁に物語っていた。赤く濁った目が、まっすぐ俺を捉えている。大きく開かれた口の隙間から、ねばついたよだれが垂れた。
「……は?」
頭が状況を処理しきれない。
怪物はこちらの戸惑いなど待ってくれない。もうその影は、俺の足元まで迫っていた。
逃げろ。
頭のどこかで警報が鳴るのに、体は言うことを聞いてくれない。何もわからない場所で、何もわからない怪物に、このまま殺されるのか。死が近づくにつれて、俺の世界から音が消えていく。
死を覚悟しかけた、その瞬間だった。
「下がって!」
澄んだ少女の声が、静寂を破った。
俺と怪物のあいだに、淡い光の壁が突如として現れる。次の瞬間、鈍い衝撃音を立てて、怪物の牙が壁に叩きつけられた。透明な壁の表面に、波紋のような光が走る。
俺の前に立っていたのは、一人の少女だった。
淡い金色の髪を後ろで結び、マントの裾を風に揺らしている。見たことのないデザインの制服のような服に身を包み、手には細身の剣を握っていた。背中越しで顔はよく見えない。けれど、その背筋はまっすぐで、俺の前から退く気配は一切なかった。
「怪我はありませんか?」
振り返らず、短くそれだけ問われる。
「は、はい……おかげ、さまで……」
驚きでうまく喋ることができない。震える声で、なんとか返事をした。
「この魔物は私が倒します! あなたは早く逃げて!」
少女の声が強くなる。俺は慌てて安全そうな場所まで逃げようとしたが、まだ恐怖が残っているのか、思うように足が動かなかった。
「あっ──」
足が空回りして、情けないことにその場に転んでしまう。地面に手をついた瞬間、怪物の牙がまた俺に向けられていた。さっきよりも明らかに速度が増している。怒っているのだと、なぜか直感でわかった。
今度こそ、本当に死ぬ。そう覚悟しかけた時だった。
「駄目!」
俺と怪物の間に、少女が飛び込んできた。さっきの光の壁は、今度は間に合わなかったのだろう。鈍い音が、森に響く。
「がっ……!」
短い悲鳴を上げ、少女の体が宙に舞った。頬に、生ぬるいものが飛び散る。血だ。さっきまで少女の体の中を流れていたはずの血が、今は俺の頬を伝っていた。
地面に叩きつけられた少女は、そのままぴくりとも動かない。
「俺の、せいだ……」
目の前で、知らない女の子が自分を庇って傷ついた。
その事実が、胸の奥の何かを乱暴に引きちぎった。
少女にとどめを刺そうと、怪物がじりじりと距離を詰めていく。
「やめろ……」
喉から掠れた声が漏れる。
やめろ。これ以上、傷つけるな。俺のせいで。彼女が傷ついたのは、俺のせいだ──。
胸の奥が焼けるように熱くなる。心臓の鼓動が、耳元で鳴っているかのようにうるさい。右腕の内側から、何か黒いものが這い上がってくる感覚がした。
掌が痺れる。骨が軋む。皮膚の下で、俺の体が別の何かへと組み替えられていく。
「う、あああああああっ!」
叫ぶのと同時に、右手が弾けたように変質した。
指先が伸びる。爪が黒く変色し、鋭く尖る。手の甲から手首にかけて、黒い鱗のようなものが浮かび上がった。自分のものとは思えない、異形の腕が視界の端に映る。
さっき、黒い穴の前で見た爪と同じだ。
だが、驚いている暇はなかった。
怪物が、少女にとどめを刺そうと身を沈める。それが目に入った瞬間、体が勝手に動いた。
右腕を振る。
風を裂く音とともに、爪が怪物の胴体を薙いだ。
あまりにも、あっけなかった。
厚い黒い毛皮も、その下の肉も、紙みたいに簡単に裂ける。怪物の体が悲鳴も上げないまま地面へ崩れ落ちる。足元に、赤黒い血が飛び散った。
「……っはぁ、はぁ……」
肩で荒く息をつく。右手を見ると、まだ竜の爪のままだった。
指を握るたびに、骨が軋むような感覚がする。怖い。けれど、それ以上に──。
守れた、という安堵があった。
その安堵と同時に、全身から一気に力が抜けた。
右手の爪が、じわじわと人間のものに戻っていく。黒い鱗が肌の下へ沈み込んでいく代わりに、焼けつくような痛みが遅れて押し寄せた。
「いって……」
膝から崩れ落ちる。本当は倒れている場合じゃない。少女は無事なのか、確かめないといけないのに、もう体が動かなかった。
意識が途切れる寸前、森の奥から声が聞こえてきた。
「本当か、こっちから音がしたってのは?」
「はい。この先のはずです!」
「おい! 二人倒れているぞ! そばに魔物の死体がある!」
薄れゆく意識の中、最後に見たのは、さっきの少女と似たデザインの制服を着た、三人の学生だった。
「生きているか?」
「両者とも、息はあります!」
「治療魔術は?」
「今、かけてます!」
「学園の治療室に連れていこう!」
そんな会話が、遠くで響くように聞こえる。
俺の視界は、そこで完全に闇に閉ざされた。
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