花霞の月、僕は異世界の生徒になった

霧原シュウ

第1話 花霞の朝と、黒い穴

扉が、開かない。

さっきまでそこにあったはずの音が、全部消えている。

ノブを回しても、押しても、びくともしない。


「――やっと見つけた」


男とも女ともつかない声が、耳の奥で鳴った。

次の瞬間、扉の向こうが黒に沈む。

影が“穴”みたいに広がって、床ごと俺を引きずり込んだ。



——数時間前。


窓の向こうでは、校門へ続く通りの桜並木が、薄いピンクの花を朝日に透かしていた。


カーテンの隙間から差し込む朝日で目が覚めた。

「……あー、寝落ちしたか」

 机の上には、昨日から放置されたままの進路希望調査票。ペン先は、いまだに第一志望の欄にすら届いていない。

「提出いつまでだっけ……やばいな」

 

ぼんやりした頭でそんなことを考えていると、下の階から母・沙織の声が響く。

「蓮ー、起きてるなら降りてきなさーい。学校遅刻するわよ!」

「はーい」

 

半分寝ぼけた声で返事をして、制服に着替える。最後に枕元に置いていた龍のキーホルダーを手に取った。

 小さい頃、家族旅行のときに土産物屋で買ってもらったものだ。どこにでも売っていそうな、安っぽいキーホルダー。友達には「まだそれ付けてんの? 子どもっぽくね?」と笑われたこともある。

 それでも、なぜか手放せない。これを指先でいじっていると、胸のあたりが少し落ち着く気がするのだ。

 

一つため息をついてから部屋を出て、階段を降りる。リビングの扉を開けると、いちばんに目に入ったのはスマホにかじりついている妹・陽奈だった。

「また新しいゲームにハマってんのか?」

 なんとなく声をかけると、陽奈は画面から目を離さないまま眉だけ寄せる。

「いいでしょ、何にハマってたって。お兄には関係なくない?」

「はいはい。……てか、その時間から起きてるってことは、今日も元気だな」

「元気じゃなきゃ怒られるのはこっちだし。っていうか、お兄こそ大丈夫なの? その時間で出ないと遅刻じゃない?」

 痛いところを突かれて、思わず時計に目をやる。

「……まだ急げば間に合うから」

 強がってそう言うと、新聞を広げていた父・真司が顔だけこちらに向けた。

「今日は帰り、遅いのか?」

「うん。部活あるから、たぶんちょっと遅くなる」

「そうか」

 短くそう言ってまた新聞に視線を戻す父の横で、キッチンに立つ母が振り返る。

「だったら、さっさと食べて出なさい。ほんとに遅刻するわよ」

「はいはい、わかってるって」

 そう口では答えながらも、頭の片隅では、机の上に置きっぱなしの進路希望調査票のことがちらついていた。

「今日の朝ごはんは焼き魚と味噌汁か」

そう呟いて、俺は急いで箸を動かした。


いつもと変わらない朝。

俺は小さい頃、母さんに拾われた。どこの誰だかわからない俺を、本当の家族みたいに受け入れてくれた星宮家のみんなには、感謝してもしきれない。

家族と過ごすこんな日常が、いつまでも続けばいい──そんなことをぼんやり考えているうちに、気づけば朝ごはんはきれいに皿から消えていた。


「行ってきまーす!」

言い終わるより先に、体は玄関を飛び出していた。

「気をつけなさいよー」

背中に、母さんの声が遠くから追いかけてくる。


通学路の桜並木は、ちょうど見頃を少し過ぎたところで、風が吹くたび花びらがアスファルトに薄い絨毯を敷いていく。学校へ向かう道を走っていると、自販機の横にあるゴミ箱から、ゴミが溢れているのが目に入った。

本当は立ち止まってる場合じゃない。頭ではわかっているのに、足は勝手にゴミ箱の前で止まっていた。


昔からこうだ。

やめとけってわかってても、困っているものがあると放っておけない。

ため息をひとつ吐いてから、俺は手早くゴミを押し込み、落ちているペットボトルを拾って突っ込んだ。


「……よし」

ゴミ箱のフタをぱたんと閉めると、今度こそ全速力で学校へ向かう。


息を切らせながら教室にたどり着くと、すでにクラスメイトで席は埋まっていた。


「いっつもギリギリだなー、蓮は」

ドアを開けた途端、友達の声が飛んでくる。

「いいんだよ。間に合ってりゃ問題ない」

適当に返事をして、自分の席にカバンを置いた。


「なぁ、書けた? 進路希望」

「……いや、まだ白紙」

「俺はな、プロサッカー選手」

「小学生かよ」

「ガキっぽいキーホルダー持ち続けてるやつには言われたくねぇよ」


からかう声に、思わず胸ポケットの中の龍のキーホルダーを指先でつまむ。

反論しかけたところで、教室のドアがガラリと開いた。


担任が入ってきて、朝のホームルームが始まる。いつも通りの連絡が終わったあと、先生がふいに俺の名前を呼んだ。


「星宮。進路調査票、持ってきたか」

「……まだです」

視線をそらしながら答えると、先生は大きくため息をついた。

「締め切りは明日だ。必ず持ってこいよ」

「……はい」


席に戻りながら、胸の奥がずしんと重くなる。

助かった。締め切りが今日じゃなくて本当に良かった。

でも、だからといって進路が決まったわけでもない。


俺は、白紙の進路希望のことを考えながら、またひとつため息を落とした。


進路のことを考えているうちに、気づけば放課後になっていた。

答えは、やっぱり出ていない。


「まずいぞ。締め切りまで、あと半日しかないじゃん……」


すでに半分あきらめかけている俺だけど、ここで考え込んでいても仕方ない。


「――こういう時こそ、運動で気分転換だよな」


朝から続く悩みを吹き飛ばすみたいに、俺は駆け足で部室へ向かった。


「なぁ見ろよこのシュート! 俺、やっぱプロなれんじゃね!」


どうやらすごいシュートでも決めたらしい。友達の嬉しそうな声が耳に飛び込んでくる。


「厳しいだろ。俺ら大会で一勝もしたことないんだから」


「うるせぇ。俺は諦めねーからな、プロの道を」


それは、たぶん無謀な挑戦なんだろう。

だけど――はっきりとした夢を持っているその背中は、今の俺にはまぶしいくらいに見えた。


部活を終え、帰り道を歩いている途中で、ふと違和感に気づく。


「あれ……キーホルダー、ない?」


ポケットやカバンを探っても、あの龍のキーホルダーの感触はどこにもなかった。


「悪い、先帰っててくれ。忘れ物した。部室戻るわ」


そう言って来た道を引き返す。

背中越しに「おう」という友達の声が聞こえた。

今まで何度も聞いてきたはずの返事なのに、この時だけは妙に遠く、寂しく響いた。


部室の扉を開けると、机の上にぽつんとキーホルダーが置かれていた。


「……よかった」


胸の奥から、安堵の息が漏れる。

まだ走れば、友達に追いつけるかもしれない。そう思って、俺は急いで扉に手を掛けた。


――おかしい。


さっきは何の抵抗もなく開いたはずの扉が、今はやけに重い。

ノブをひねっても、押しても引いても、びくともしない。


「どうしたんだよ、これ……」


そうつぶやきながら、それでも諦めずにノブを回し続ける。


その時だ。


「――やっと見つけた」


一瞬、男とも女とも判別できない声が、耳の奥で響いた。

次の瞬間、扉が、黒い“穴”へと姿を変える。


「なっ……!」


驚いて声を上げた時には、もう遅かった。

足元から崩れ落ちるように、俺の体は闇の中へ引きずり込まれていく。


視界が、音が、遠のいていく。


「……え?」


ふと、自分の手に違和感を覚えて視線を落とす。

そこにあったのは、見慣れた人間の手じゃない。黒く硬い、鋭い爪――まるで“竜”の手のようなものだった。


瞬きをする。もう一度見ると、そこにはいつもの自分の手が戻っていた。


「どうなって……るんだ、これ……」


そこで、俺の意識は完全に途切れた。

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