普通
収録は、予定より少し押していた。
原因は誰のミスでもなく、
ただ全体が、微妙に疲れていただけだ。
彼はモニター前で台本をめくりながら、
いつもより口数が少ない。
「次、いけます」
声は落ち着いているけれど、
わずかに、喉を気にする仕草があった。
私は、何も言わない。
代わりに、テーブルの端に置かれていた
未開封のペットボトルを、そっと彼の近くに寄せる。
キャップは、少しだけ緩めて。
「……ありがとう」
目も合わない。
それでいい。
仕事中に交わす優しさは、
このくらいでちょうどいい。
収録が再開されると、
彼の声はいつもの調子に戻った。
問題なく、完璧に。
誰も気づかない。
さっきの一瞬も、
私の手の動きも。
――のはずだった。
休憩中、彼がふとこちらを見る。
「さっきさ」
私は書類から目を上げない。
「水、キャップ緩めてくれたよね」
一拍、間が空く。
「……え? あ、はい。たまたま」
本当は、癖で覚えている。
彼が疲れているとき、
キャップを開ける力を一瞬ためらうこと。
でも、それは言わない。
「みんな、忙しいのに」
彼は少し困ったように笑った。
「なんで、そういうとこ気づくんだろ」
その言葉は、独り言みたいに落ちた。
それ以上、会話は続かない。
続かなくていい。
けれど、その日から。
彼は、
私を“便利なスタッフ”としてではなく、
一人の人間として見るようになった。
目が合う回数が、少し増えた。
指示を出す声が、わずかに柔らかくなった。
それだけ。
でも彼は、知らない。
この優しさが、
特別なものじゃないことを。
私が、
好きな人にだけ向ける行為を、
どれほど必死に“普通”にしているかを。
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