溺れるほどのキスを私はまだ知らない
志に異議アリ
日常なのに非日常
朝は、いつもより少し早く目が覚める。
理由はひとつしかない。
彼が関わる現場の日だから。
私は正式な担当マネージャーじゃない。
現場付きの、いわゆるサブ。
彼のスケジュール全体を握る立場でもなければ、
一番近い距離にいるわけでもない。
だからこそ、
踏み込みすぎないことが、
私の仕事だった。
鏡の前で髪を整えながら、
「仕事、仕事」と小さく唱える。
好きな人に会う日の呪文としては、あまりに味気ないけれど、
それでもこれは必要な儀式だった。
スマホのロック画面は無地。
昔は彼の写真にしていたけれど、
一緒に仕事をするようになってから、やめた。
“推し”は、ここではただの仕事仲間。
少なくとも、そう振る舞わなければならない。
現場に向かう電車の中、
イヤホンから流れるのは、彼の声じゃない。
意識的に、距離を保つ。
それでも、脳裏には浮かんでしまう。
笑うと少しだけ目尻が下がること。
マイクを持つ手が、思ったより大きいこと。
疲れている日は、語尾がほんの少し低くなること。
――知りすぎている。
それを悟られないように、
私は今日も“何も知らない顔”を作る。
控室で挨拶を交わすときも、
心拍数だけが勝手に仕事を放棄する。
「おはようございます」
それだけ。
名前も、感情も、余計な温度も乗せない。
幸運だと思う。
本当に、運が良すぎる。
同じ空間で働けることも、
彼の真剣な横顔を至近距離で見られることも。
だからこそ、
この好意は、丁寧に隠す。
迷惑にならないように。
彼の世界を壊さないように。
恋は、ここでは不要な感情だ。
……そう言い聞かせながら、
今日も私は、彼の背中を一番近くで見送る。
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