スピアー・スクイッド・クリスマス
黒かもめ
スピアー・スクイッド・クリスマス
小雨が降って来た。この雲模様だと、もうすぐに雪になるかも知れない。
久々のホワイトクリスマスだ。まあ、俺には何の関係もないけど。
夕食後、ちらつく小雨を眺めながら、俺は家の裏の灰皿でタバコを吸っていた。
段々寒くなって来て、吸い殻を灰皿に捨てて家に戻ろうとした俺は、2階の窓からいきなり声をかけられた。
声の主は、最近まともに口を利いていない、3つ下の妹の希空だ。
「おいお前! これから、ウチら家族でパーティーするから、お前は家に入ってくんなよ!」
両親は隣町の温泉旅館に泊まっていて、最初から家にいない。
そして、旦那と2人の子供がいる希空に言わせれば、俺は最初から家族に入っていないらしい。
確かに俺は、去年、都会から出戻りして来て、仕事もスーパーのパートだ。
30も半ばになって、未だに独り身でもある。
ても、だからって、何も家から締め出す事はないんじゃないか?
そう思った俺が何か言う前に、希空は頭上から残酷な宣言をした。
「とにかく、11時まで家に入ってくんな!」
「は? 11時って……」
俺が反論する前に、希空は、いかにも嫌そうな口調で、一方的に罵声を浴びせて来た。
「お前さ、自分じゃ何も出来ないくせに、自分だけ偉いと思い込んで、周りの事見下してるよね? そう言うのが、ホント、ムカつくんだよね」
昔から仲は良くなかった妹だけれど、こんなに邪険な態度を取るようになったのは、去年、俺がこの家に戻って来てからだ。
それまで、この家で、両親と、旦那と子供と悠々と暮らして来た妹にとって、せっかく離れられたと思っていたのに、急にこの家に戻って来た俺は邪魔者でしかないらしい。
妹は、一方的に罵声を浴びせてくる。
「あのさ、ウチら家族がパーティーしてる時に、お前見たいなのが家の中にいたら、それだけで雰囲気悪くなるって、分かんないの? お前って、昔からホント、他人に無関心だよね。そんなだから、彼女に振られるんだよ」
「おい、彼女は関係ない……」
俺が言い終わる前に、妹は乱暴に窓を締めた。
参ったな。大体、俺を追い出してパーティーするつもりなら、先に言えよ。
この時間、俺が住んでいる田舎町に、時間を潰せる場所はほぼない。
俺はパチンコはやらないし、今日は生憎月曜日。
この辺りに3軒だけある飲み屋も、みんな年寄り向けで、クリスマスの特別営業なんてしている訳がない。
無理矢理家に入る気にもなれなかった。
だって、妹の機嫌を損ねたら、会う度に罵声を浴びせられるか、ネチネチ嫌味を言われる羽目になるから。
仕方がないから俺は、家のすぐ前の堤防で、ヤリイカ釣りをする事にした。
幸い、釣り道具と餌は、家の裏の物置に置いてある。
俺は装備を調えて、自転車に跨った。
堤防に向けて自転車を漕ぎ出した頃には、小雨は、粉雪に変わっていた。
堤防に到着した頃には、粉雪は少し強くなって来ていた。
堤防の陸側では、イカ釣り漁船が漁をしてる。
だから俺は、漁船のいない、無数のテトラが積み上げられた、堤防の沖側に釣り座を構える事にした。
テトラの坂を降りて、釣り座に到着した俺は、隣のテトラに空のワンカップが並んでいるのを見つけた。
昔からこういう事をする人はいるけど、俺には理解できない。
よくそんな危ない事が出来る物だ。
まあ、今は、そんな事気にしている場合じゃない。
俺は気を取り直して、早速竿に仕掛けをセットして、電気ウキを海面に投げ込んだ。
今日は、運よく群れが入って来てるみたいだ。
一投目から、潮上から順調に流れていた電気ウキが、俺の正面で急に止まって、すぅ、と海面に沈み込んだ。
今まではっきり見えていた電気ウキのトップが、海中に引きずり込まれた。
シャープだった緑の光が、海面でぼやけて、見えなくなった。
この釣りで、俺が一番興奮する瞬間だ。
今、この瞬間だけは、日々の嫌な事を忘れて、あぁ、釣りに来て良かったと思える。
この日は、大きな群れが入って来ていたらしい。
それからもアタリは止まらず、気づけば、釣り上げたヤリイカは十杯を超えていた。
そしてそこで、俺は一旦竿を置いて、タバコをくわえた。
雪は更に強くなって来ていて、時々、雪の結晶がタバコの火種に当たって、じゅ、と音を立てた。
黙ってタバコを吸っていると、今まで釣りに集中していて感じなかった寒さが、一気に身に沁みてきた。
俺は、スマホで時間を確認した。
11時まではまだ少しあったけど、もうそろそろ帰っても良い時間だった。
釣果は十分にあったし、この時期に風邪を引いたりしたくない。
俺はそう思って、ここで撤収する事にした。
俺はキャップライトを点けて、クーラーボックスと竿入れを背負うと、まずは、波打ち際の、隣のテトラポットに跳び乗った。
何度も行き来したルートだから、足元は見ない。
でもこの日は、それが間違いだった。
踏み出した右足に、ぐにゃ、という嫌な感触が走って、何の反応もする間もなく、俺はテトラのコンクリートに背中を打ちつけた。
背負っていたクーラーボックスの中身が海面にぶちまけられる音と、釣り竿が折れる嫌な音が響き渡った。
後から考えると、多分テトラに、猫か鴎の死骸が落ちてたんだろう。
俺はテトラにしがみついて、何とかその上に這い上がったけれど、下半身はずぶ濡れになってしまった。
身体中が痛くて、立ち上がる事も出来なくなった。
俺は、呆然としながらも、助けを呼ぶために、ズボンのポケットに手をやった。
けれど、そこにスマホは無かった。
多分、さっき転倒したときに海に落ちたんだろう。
最悪だ。
さっき見た限り、このテトラ帯に他に釣り人はいないし、堤防の内側の漁船も、もうとっくに漁を切り上げて、船着き場に戻っているだろう。
それでも俺は、大声で助けを呼んだ。
けど、何度叫んでも、何の応答もなかった。
その間も、12月の夜気は、淡々と、残酷に、海水に濡れた俺の両足から、俺の気力、体力、そして思考力を奪っていった。
……ああ、こんな終わり方か。まあ、別にどうでも良い。
俺はそう思って、最後に一服する為に、震える指で何とかタバコを咥えた。
それから、かじかんだ手で、ライターを取り出そうとした。
けれどそれは、俺の、もうほとんど感覚のない指の間を、あっけなく滑り落ちた。
ライターは、一瞬きらめくと、海面でぼやけて、暗い海の底に消えていった。
あのライターは、5年前のクリスマスに、彼女にプレゼントされた物だった。
あの時は、街のイルミネーション全てが、2人を祝福してくれている気がした。
この幸せが、永遠に続くと思っていた。
でもそれは間違いだった。
二人で過ごす内に、俺達は段々とずれていった。
喧嘩が増えて、最後の方には、お互いに口を利かなくなっていた。
そして一昨年のクリスマス、仕事終わり。
今日なら、クリスマスの浮かれた雰囲気を借りて、昔の様に仲良く話して、やり直せるかも知れないと思った俺は、ケーキとちょっとしたプレゼントを買って、同棲していたアパートのドアを開けた。
でも、俺を待っていたのは、彼女の私物が消えた部屋と、テーブルを置かれた、簡潔に、事務的に別れを告げる手紙だった。
そして、それで思い知った。
あんなに想い合っていた事、その後ずっと、今は辛くても、いつかきっと昔の様に戻れると信じていた事。
それらは、全部まやかしだった。
全ては、俺にたまたま、一時の幸せが訪れただけだった。
そうだ、この世界は、俺たちに、辛くも優しくもない。
全ての物事は、ただ淡々と、ある様にあって、なる様になるだけ。
だから、全ての物事は、生命も含めて、そこに漂う、ちっぽけな埃の様な物だ。
そして俺なんて、その埃の中でも、特に醜くて、惨めで、救い様のない存在だと思う。
……まあ、確かに、家を追い出す時に、希空が言った通りかもな。
俺は、人見知りで、自分に自信が無い臆病者のくせに、内心周りを見下している。
自分だって、別に愛嬌があるわけでも、顔が良い訳でもないのに、愛嬌のある美人にばかり気持ちが傾いている。
俺は、たまに良さげな人を見かけても、わざと関わらないようにしている。
左手の薬指に指輪を見つけて、がっかりするのが嫌だから。
それでも、ついその人を目で追ってしまうのだから、本当に自分が嫌になる。
最近は、俺の知り合いにも、独り者より既婚者の方が多くなった。
全ての生物には、自分の遺伝子を増やせ、残せと言う指令が、初めからインプットされている。
それは、種が繁栄する為に必要な事だけれど、そこでは、俺みたいな脱落者は顧みられない。
それでも、種は問題なく繁栄できるのだから。
だから、もし俺が消えても、種全体には何の問題もない。
ちっぽけな埃が一つ消えても、世界には何の影響もない。
……雪は、更に強くなって来た様子だけど、俺はもう、殆どなにも感じなかった。
やかましいエンジン音と、乱暴なドラ声が、俺に意識を取り戻させた。
どうやら、少し眠っていたらしい。
声の主は、磯舟の上に仁王立ちになって、俺の顔をライトで照らしていた。
眩しくて顔は見えなかったけど、声で分かった。
須藤の父さんだ。
もう七十近い父さんは、親兄弟と絶縁してこの町にやって来たと言う変わり者で、今は俺と同じ町内に、奥さんと二人で暮らしている。
多分、雪が強くなって来たから、生け簀の様子が気になって見に来たんだろう。
動けない俺に、父さんは更にドラ声で怒鳴りかけてきた。
「こら! そこで何してる!? ウニか? アワビか? 密漁は犯罪だど!」
……は?
「あれ、おめ、小堺の裕也か? こんな所で何してる?」
……ヤリイカ釣りに来たんだよ。良いから父さん、助けてくれ。
俺はそう言おうとしたけど、寒さで舌が縺れて、上手く言葉にならなかった。
俺に出来たのは、父さんに向かって、弱々しく腕を振る事だけだった。
そしてら、父さんはまた怒鳴った。
「おめ、まだ若いのに、馬鹿な事考えるな!」
……ちげーよ。
どうやら父さんは、隣のテトラのワンカップを見て、俺が自殺しようとしていると勘違いしたらしい。
考えてみれば、父さんは昔から思い込みの激しい人で、俺も昔は、よく父さんに勘違いで怒鳴り回された。
俺は、否定の意味を込めて、また弱々しく腕を振った。
それでも父さんはまた怒声を浴びせてくる。
「とにかく止めろ! 家族が悲しむど!」
俺はもう、寒いやら、呆れたやらで、否定する気にもなれなかった。
俺が、さっきとはまた別の理由で応えられないでいると、父さんは、打って変わって優しげな声をかけてきた。
「……ああ、済まねえ、おめ、家族とはあれか……」
…………。
「その気持ちは、俺にはよく分かる。でも大丈夫だ。親兄弟は選べなくても、嫁さんは自分で選べるど」
父さん……。
「おめ、まだ40前だべ。俺なんて、今の奥さんと結婚したの40過ぎてからだど。あれ、美人は3日で飽きる、ブスは3日で慣れるって言うべ。あれは本当だ。俺が保証する」
……おい、父さん。途中まで良い話だったのに、オチが奥さんに対して失礼過ぎんだろ。
「おめは今、何でもかんでも嫌になって、とにかくもう終わらせたいんだべ。気持ちは分からなくもないけんど、それは違うど。とにかく、おめはまだ若い! 生きてれば、楽しい事なんて、なんぼでもるど。美味い飯食って、美味い酒飲んで、タバコも吸えるし……いい嫁さんも、きっと見つかる」
おい父さん、なんだ今の間は。
俺がまた応えられないでいると、父さんは遂に涙声になって、訥々と、俺に語りかけてきた。
「……おめ、よりにもよって、何で今日なんだ。今日は……今日は、クリスマスだど!」
その言葉を聞いて、今までグチャグチャと考えていた事が、全部馬鹿らしく思えて来た。
……おい父さん、父さんこそ、こんな夜に何してんだよ。
そんな事、あんたにだけは言われたくねーわ。
スピアー・スクイッド・クリスマス 黒かもめ @kurokamome
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