異世界会計士 ~その冒険者ギルド、経営破綻しています!~
会計士N
第1部 ローレンツァ編
第1章 ミーナの給料が払えない
(1)給金遅配の通知
「……え?」
ミーナの手が、ぴたりと止まった。
朝のギルド受付は、いつもどおり騒がしかった。
カウンターには昨夜の討伐報告の残務で、書類とスタンプとインク壺が山のように積み上がっている。
依頼掲示板の前では新米冒険者たちが今日の仕事をめぐって押し合いへし合いしている。
掲示板の上段には、赤枠の新しい依頼書が一枚――『ロックリザード討伐/金貨30/C級以上』。
冒険者パーティー「グラスホーク」がその紙の前で足を止め、周りの視線を一瞬集める。
「へえ、30枚か。景気がいいな」
誰かの声が聞こえた。
けれど、その喧噪のなかで、ミーナだけが時間から置いていかれたみたいに、固まっていた。
「どうかしたの?」
僕は、隣で書類運びをしていた手を止めて、ミーナの横から覗き込む。
彼女が握りしめているのは、一枚の羊皮紙だ。
ギルドマスターの乱暴な字で、こう書かれていた。
『今月の給金の支払いは、来月十五日以降にまとめて行う。
理由:金庫が一時的に空っぽだから。以上。』
「……“以上”じゃないよ」
思わず口から漏れた。
ミーナがびくっと肩を震わせて、慌てて振り向く。
「あっ、ご、ごめんなさいアラタさん! 声、聞こえちゃいました?」
「いや、別に怒ってるわけじゃ……」
僕が慌てて手を振ると、ミーナはほっとしたように胸に手を当てる。
肩までの栗色の髪を幅広のカチューシャでまとめた、小柄な受付嬢だ。
生成りのブラウスにえんじ色のエプロンドレスという、どこか家庭的な服装がよく似合っている。
このギルドで僕に最初に優しくしてくれた人で、命の恩人でもある。
だからこそ、僕は、紙に書かれた内容から目を離せなかった。
「ミーナさん、その紙……給料のこと?」
「えっと……はい。ロアンさんから、職員みんなに渡すようにって」
ロアン――ローレンツァ冒険者ギルドの支部長であり、この支部のトップだ。
いつも不愛想で、声はでかくて、机の上は書類と酒瓶で埋まっている。けれど、なんだかんだ言って、行き場のなかった僕を「とりあえず雑用として」拾ってくれた人でもある。
「今月の支払いが、来月に……?」
言いながら、胃のあたりがぎゅっと冷たくなる。
給与の遅配。
現代日本の感覚で言えば、それは小さなミスなんかじゃない。
それだけでニュースになってもおかしくない、大問題だ。
「ミーナさん、この前も遅れたって言ってたよね?」
「え? あ、はい。えっと……」
ミーナは指折り数えながら、少し困ったように笑ったあと、カウンターの下で、履き古したブーツのつま先をこっそり隠すように足を引いた。
「昔は、ちゃんと月に一回きっちり払われてたんですけど……最近は、二、三ヶ月に一度くらい、こういうことがあって。そのぶん、次の月にまとめて多めにくださるので……。その、まぁ、そういうものかなぁって」
「“そういうもの”で済ませちゃうんだ……」
つい本音が出てしまい、僕は慌てて口をつぐんだ。
ここは日本じゃない。
そもそも、この世界に“労基署”なんて便利なものは存在しない。
「ごめん。驚いただけ。今まで、払われなかったことは?」
「ないですよ?」
ミーナはきっぱりと首を振る。
「ロアンさん、怖いですけど、約束だけは守る人ですから。
だから――ちょっとくらい遅れるのは、しょうがないかなって……」
その笑顔が、かえって痛かった。
“ちょっとくらい”で済む話じゃない。
給料の支払いが遅れるのは、会社――いや、この場合はギルドか――の“健康状態”がかなり悪化しているサインだ。
現代の日本の感覚からすれば、まったく笑えないレベルの異常。
現金が足りない。お金の出入りが、どこかでおかしくなっている。
それを放っておいて、勝手に良くなることなんて、まずない。
「おい、そこで何こそこそやってる」
荒々しい声が、受付の奥から飛んできた。
振り向くと、件の張本人――ギルドマスターのロアンが、腕を組んでこちらを睨んでいた。
大柄な体格に、傷だらけの顔。
元・一流冒険者らしい威圧感は健在で、初めて会ったときは正直、心臓に悪かった。
「ろ、ロアンさん。これ、その……」
ミーナが慌てて羊皮紙を隠そうとして、逆にぐしゃぐしゃにしてしまう。
ロアンは大股で近づいてくると、彼女の手から紙をひったくった。
「何もやましいことは書いちゃいねぇだろ。どうせそのうち皆の耳に入る」
言いながら、彼はカウンターの上に紙をべしっと叩きつけた。
周りにいた受付の同僚たちが、びくっとそろって振り向く。
「今月の給料は、ちょっとだけ待ってもらう。金庫がスッカラカンだからな」
ロアンは、悪びれもせずにそう言った。
場の空気が、一瞬で凍りつく。
「え、またですか?」
「前も二ヶ月くらい遅れましたよね……?」
「だ、大丈夫なんですか、ギルド……」
職員たちがざわつく。
そのざわめきを、ロアンは手を振って押しとどめた。
「うるせぇな。心配すんな、もうじきでかい依頼の着手金が入る。
ギルドが潰れたことなんざ、一度もねぇだろうが」
「でも……」
「不安なのは分かるがな。今は一時的にカネがねぇだけだ。
冒険者どもの前で変な噂を立てられたくなきゃ、職員がまずどっしり構えとけ」
言い方は乱暴だけど、職員たちを落ち着かせようとしているのは分かる。
ミーナも、ぎゅっと拳を握って、無理に笑顔を作った。
「……大丈夫ですよ、アラタさん。今までも、ちゃんと払ってくれましたから」
「……そう」
僕は小さく返事をしながら、喉の奥にひっかかった違和感をごまかす。
“今までは大丈夫だった”から、今回も大丈夫――。
最悪の判断パターンだ。
元いた世界で会計士をしていた僕からすると、あまりにも見慣れたフレーズ。
そして、何度も痛い目を見てきたフレーズでもある。
「なあ、アラタ」
ロアンが、ふいにこちらを顎でしゃくった。
「お前、顔色悪いぞ。そんなに心配か?」
「……正直、はい」
僕は嘘をつくのが下手だ。
この世界に来てから、その欠点を何度も痛感している。
ロアンは、ふんと鼻を鳴らした。
「数字のことばっか気にしてるからだ。
商売なんてのはな、勢いと度胸と、最後は根性だ。数字は後からついてくる」
「はぁ……」
返す言葉に困って、曖昧な相槌を打つ。
「それに、だ」
ロアンはカウンター越しに、ぐいっと僕を親指で指した。
「お前まで浮き足立ってどうする。職員が不安そうな顔してたら、真っ先に噂が立つだろうが。
心配なんぞ、ギルドマスターの仕事だ。雑用係は、目の前の仕事だけきっちりやっときゃいい」
言い放つと、ロアンは「ったく、朝っぱらから暗ぇ顔しやがって」とぼやきながら、踵を返して乱暴な足音を立てて奥へ戻っていく。
「……了解しました、ギルドマスター」
思わず、前の職場でやっていたみたいに、ぺこりと頭を下げてしまう。
その背中に向かってそう告げると、ロアンは「気持ち悪ぃ敬語はやめろ」と肩をすくめてそのまま去っていった。
――勢いと度胸と根性、ね。
確かに、それだけでどうにかなった時代もあったのかもしれない。
でも、目の前のミーナの表情を見てしまった今、
僕はそれを、ただの“昔ながらのやり方”として笑い飛ばすことができなかった。
ロアンはああ言っていたけれど、だからといって「何もしないで見ている」のは、どう考えてもまずい。
この一週間、よそ者の立場でむやみに口を出すのはどうかと黙って見てきたけれど、給料が平然と遅れるような状況を、もう見過ごすわけにはいかなかった。
剣も魔法も使えない、ただの雑用係。――それでも僕には、まだ“数字”という武器がある。
ミーナの笑顔を守るために――僕の「仕事」を始めよう。
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