ミラー・コンプレックス

蒼井モノ

第一章 鏡よ鏡

SCENE 0:届かない唇と、繋げない手

第1話 三十二階の恋人たち

SCENE 0:


午前七時。


東京の空はまだ薄い靄に覆われていて、タワーマンション三十二階の窓からは、灰色がかった朝の光が静かに差し込んでいた。


高層階特有の、外界から切り離されたような静寂。遮音性の高い窓ガラスは、三十二階下で蠢く都会の喧騒を完全に遮断している。聞こえるのは、空調が微かに空気を循環させる音と、隣で眠る恋人の寝息だけだ。


結城拓海ゆうきたくみは、枕元で鳴ったスマートフォンのアラームを素早く止めた。


六時五十九分にセットしたバイブレーション。音が出る設定にはしていない。隣で眠る湊を起こさないための、ささやかな配慮だった。


拓海は身を起こさないまま、そっと隣を見た。


シルクのような艶を持つアッシュグレーの髪が、枕の上に無造作に散らばっている。白いシーツに映える肌。長い睫毛が、頬に淡い影を落としていた。寝顔だけは無防備で、起きている時の鋭さや、時折見せる刺々しさが嘘のように穏やかだ。薄く開いた唇から、規則正しい寝息が漏れている。


七瀬湊ななせみなと。二十三歳。新宿二丁目のゲイバー「Bar Mirror」でバーテンダーとして働く、拓海の恋人。


(……綺麗だな)


何度見ても、そう思う。


この顔を独り占めできている幸運を、拓海は静かに噛み締める。


昨夜、湊が帰ってきたのは午前四時過ぎだった。閉店作業を終え、始発を待って帰ってくる頃には、空が白み始めていた。拓海はリビングのソファで待っていたが、湊は「ただいま」も言わずにベッドへ直行し、服を脱ぎ散らかしたまま、泥のように眠りに落ちた。


その背中に「おかえり」と声をかけることすら、拓海には躊躇われた。


(疲れてるんだ。俺が関わると、余計に消耗させる)


最近、そう思うことが増えた。


拓海自身も、クライアント先への常駐勤務が始まってから生活リズムが完全に変わってしまった。本来なら在宅でこなせる仕事なのに、「顔を合わせて打ち合わせがしたい」という先方の要望で、毎日オフィスに通う日々。満員電車に揺られ、遅くまで働き、帰ってくる頃には湊はもう店に出ている。


すれ違いの日々が、もう二ヶ月になろうとしていた。


拓海は少し息を吐き、湊の寝顔を見つめる。そして吸い寄せられるかのようにそっと身を屈め、湊の額に唇が近づく。


あと五センチ。あと三センチ。


湊の髪から、微かにシャンプーの残り香がする。柑橘系の、爽やかな匂い。その奥に、夜の店特有の煙草と酒の匂いが僅かに混じっている。


(……だめだ)


拓海は、寸前で動きを止めた。


昨夜の湊の姿が、脳裏をよぎる。玄関で靴を脱ぐ力すら残っていないような足取り。ベッドに倒れ込んだまま、微動だにしなかった体。


(起こしたら、可哀想だ)


拓海は、そっと唇を引いた。伸ばしかけた手を、シーツの上に戻す。

本当は、触れたかった。「おはよう」と言って、額にキスをして、「今日も綺麗だな」と囁きたかった。


でも、それを湊が望んでいるかどうか、最近は分からなくなっていた。


***


湊は、目を閉じたまま、全てを感じ取っていた。

拓海が起き上がった気配。こちらを見下ろす視線の重さ。近づいてくる体温。

そして——寸前で引き返していく唇。


(……なんで)


心臓が、ぎゅっと握り潰されるように痛んだ。

キスしようとした。確かに、拓海は自分にキスしようとした。なのに、やめた。


(なんで、やめるんだよ)


湊は薄く目を開け、バスルームへ消えていく拓海の背中を見つめた。

広い肩幅。引き締まった背中。Tシャツの下で、筋肉が滑らかに動いている。


結城拓海ゆうきたくみ。二十五歳。フリーランスのWEBデザイナー。湊より二つ年上で、湊より少しだけ背が高くて、湊よりずっと大人で、湊のことを世界で一番愛してくれている——はずの男。


(はず、だった)


最近、その確信が揺らいでいる。


付き合い始めた頃は、拓海は隙あらば湊に触れていた。手を握り、肩を抱き、額にキスをし、「好きだ」と囁いた。湊がどれだけ素っ気なくしても、拗ねても、試すようなことをしても、拓海は諦めずに愛を示し続けた。


それが、最近は違う。


触れようとしない。踏み込んでこない。「愛してる」を、言わなくなった。


バスルームのドアが閉まる音がした。シャワーの水音が、遠くで響き始める。

湊は仰向けになり、高い天井を睨みつけた。


(大事にされすぎて……触れられないなんて、意味ないじゃん)


愛されているとは思う。でも、湊が欲しいのは「配慮」じゃない。「熱」だ。 もっと乱暴に抱きしめられたい。髪をぐしゃぐしゃにされたい。 「好きだ」って、余裕のない顔で言われたい。


(いや、やっぱりもうダメなのか?)


焦りが、胸を焼く。 こんなに好きなのに、拓海の心が離れていく気がする。 それが怖くて、でも「寂しい」なんて口に出して言えなくて、湊はまたプライドという鎧を着込む。


(……話したい)


湊は起き上がり、バスルームの方を睨んだ。 まだ俺に夢中なのか。俺の価値を分かっているのか。 確かめずにはいられない。そうでもしないと、不安で押しつぶされそうだから。

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2025年12月25日 07:00
2025年12月26日 07:00

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