開かない引き出しの正しい使い方

轟ゆめ

あの席には、触れてはいけない場所がある

 この研究施設では、音が均されている。


 足音は響かず、声は角が取られ、物が落ちても乾いた音しかしない。

 初めて来た人は「静かですね」と言い、三日もすれば何も言わなくなる。


 ここでは、

 静かだから黙るのではない。

 黙っている人間だけが、静かだと感じる。


 私は三十六歳で、この施設に採用された。

 社会人経験枠の新人だった。


 「即戦力」という言葉が使われる年齢だが、この施設においては、意味が少し違う。


 即戦力とは、

 を指す。


 履歴書には、十年以上勤めた民間企業の名前がある。

 仕事内容は「説明担当」。

 現場と上層の間に立ち、

 意味の通らない決定を、意味があるように言い換える仕事だった。


「なぜ、そうなったのか」を説明するより、

「そうなったことに、どう納得させるか」が評価される職場だった。


 私は、その手の仕事が得意だった。

 だから、長く残った。


 しかし、面接で聞かれたのは、専門知識ではなかった。


「意見が通らなかったとき、どうしましたか」

「説明を求められなかった経験は?」

「違和感を覚えたまま、仕事を進めたことはありますか」


 私は正直に答えた。

 黙ったこと。

 飲み込んだこと。

 説明を諦めたこと。


 面接官は、何度かうなずいた。


「即戦力ですね」


 その言葉の意味を、

 私は配属されてから理解した。


 だから――

 最後に、理由を聞かれずに外された。



 配属は第三研究棟、記録管理課。

 研究結果を保存する部署ではあるが、実際に扱うのは成果よりも、「記録として残すかどうかの判断」をする部署だ。

 施設内は、研究棟ごとに役割が分かれている。

 第一、第二研究棟が実験と検証を担当し、第三研究棟は、それらの結果を整理し、番号を与え、必要に応じて「参照可能な状態」に整える。


 残すか。

 残さないか。

 番号を振るか。

 振らないか。


 研究が成功したかどうかは、二の次だった。

 どう扱われたことにするか。

 それだけが重要だった。


 つまり、

 研究が成功したかどうかよりも、

 どう扱われたことにするかを決める場所だ。


 白衣はない。

 実験器具もない。

 机と書類と、番号がある。


 私の机は、よくある金属製だった。

 引き出しが三段。


 そして、その下にもう一段あった。


 床に近い位置。

 取っ手はあるが、鍵穴はない。


「それは、使わないでください」


 案内係の先輩は、マニュアルを読むような声で言った。


「最初から付けなければいいのでは?」


 先輩は一瞬だけ考えてから答えた。


「……外れないんです」


「壊すとか」


「それは、やめたほうがいいです」


 理由は言われなかった。

 説明されないこと自体が、説明だった。



 記録管理課の仕事は単純だった。


 提出された報告書を受け取り、

 内容を確認し、

 番号を振り、

 所定の場所に収める。


 所定、という言葉は便利だ。


 どこかを指しているようで、

 何も示していない。


「このデータ、見当たらないんですが」


 初めてそう言われたとき、私は三段の引き出しをすべて開けた。


「ありませんね」


「……下は?」


 上司は、確認事項のように聞いた。


「……開きません」


「ええ。では、未確認ということで」


 それで終わった。



 この施設では、

 


 話題にしない、というより、

 話題として成立させない。


 書類が一部欠けていても、

 「そういうものです」で終わる。


 番号が飛んでいても、

 誰も戻らない。


 代わりに、床に近い位置を、一度だけ見る。



 ある研究員が、来なくなった。


 前日まで普通に話していた。雑談もした。


 翌日、席が空いていた。


 誰も理由を聞かなかった。

 名前も出なかった。


 その日の午後、私の机に書類の束が置かれた。


「これ、処理お願いします」


 上司は、

 私の足元を一瞬だけ見て、去った。




 私は前職の癖で、

 報告書を丁寧に読んでしまった。


 曖昧な記述。

 途中で途切れた考察。

 結果が出なかった理由の欄が、空白のまま。


 ――出なかったのだ。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 私は、そのまま記録した。


「結果:未確認」



 数日後、確認が入った。


「結果が、出ていませんね」


「出ませんでした」


 私は、事実だけを答えた。


 上司は、少しだけ間を置いた。


「……では」


 上司は、続きを言わなかった。


 言わないことで、決定した。


 その日を境に、

 私の予定表から予定が消え始めた。


 会議の招集が来ない。

 確認メールが回らない。


 机の上は、日に日に整っていく。

 仕事は減り、

 机の上は整い、

 引き出しを開ける必要もなくなった。


「最近、余裕ありますね」


 先輩が言った。


「ええ」


「大丈夫です」


 何が、とは言わなかった。



 辞令は、簡単だった。


 異動。

 部署名の記載なし。

 本日付。


「行き先は?」


 私が聞くと、上司は少し困ったように笑った。


「……引き出しですね」



 机を片付けた。


 私物は少ない。

 最初から、増やしていなかった。

 長居する場所ではないと、

 どこかで分かっていた。


 最後に、机の下を見る。


 開かない引き出し。


 取っ手に触れる。


 開かない。


 だが、不思議と、

 中が空だとは思えなかった。


 廊下は、いつも通り静かだった。


 音がないのではない。

 均されている。


 私は歩きながら、

 私がこの施設で最初に教えられた言葉を思い出していた。


「それは、使わないでください」


 正確には、

 使なのだ。



 その使い方を、

 私は最後に、ようやく間違えずに実行した。

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開かない引き出しの正しい使い方 轟ゆめ @yume_todoroki

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