第3話 サーシャ

 あたしの表面だけをなぞって、わかったようなことを言ってほしくない。外見だけで判断してほしくない。生きていれば、いろんなことがあるわ。年齢で経験を算出するなんて無駄に年だけ取った人のしそうなことよね。それでいいの?満足?決めつけてほしくない。あたし、ずっと内側に爆発しそうな怒りを抱えてた。

好きになった男が、あたしを軽く扱った分だけ、あたしも思いっきり男をバカにしてやったわ。あたしを傷つけるものは、あたしより全て下等な人間なんだと思うことにしたの。あたしが考えた人生を生き抜く術だった。でも、いつしかそれは、あたしの世間への想いまで、冷めさせた。前に進むためだったのよ。そうする以外になかったの。そうしなければ、生きていられなかった。男だけバカにしたつもりだったけど、いつしか全てに範囲が広がって蝕んでいった。あたし、生きる全てのものをバカにしたのよ。あたしだけが全て正しくて、まっとうで、優っていると自分に言い聞かせた。そうやって生きるしか明日へ進むことができなかったの。負けたくなかった。

 昔話をする女なんか嫌いよ。なんてださいことなのと思うわ。自分のことを話すのも好きじゃないわ。自分のことを話すと、大抵、自慢話になるのよ。それか愚痴のどっちかね。あたしは、格好をつけるのが好きだから、誰かに弱みを見せたりしないわ。いつもにっこり笑って、八方美人の完成形だけを他人に見せてきた。それにあたしの内側を知りたがる人も現れなかった。

年を取ると、うまくいかない人生の言い訳をするために、自分の愚痴やら、自慢話をしたがるものなのかしら。まだ若いつもりでいるけど、これだけ何か言いたいことがあるのだから、きっとあたしは不幸な人生を歩んできたのね。

初恋は、中学生のときだった。相手は、同級生。足が速くて、クラスの人気者だった。女性だったら、わかるかしら、人気者に惹かれてしまう気持ち。

 なぜかそんな人気者の彼だけど、あたしに振り向いてくれたのよ。あたし、うぶだったから、舞い上がっちゃって、教室でも、下校でも、彼を優先したの。でも、男性ってそんなにしつこくされるのは好きかしら。そうね、きっとうっとうしく思われたのね。

 友達のA子も彼に憧れていた。A子と友達になったときは、美人で性格も良い子だと思った。その人気者の彼は、A子にもちょっかいを出した。性格が良いなんてなんて不確かなものなのかしらね。あたしは人を見る目がないんだわ。すっかり信じてしまっていたの。

ある日、中庭に呼び出されてね。あたしはA子とその友達の集団に囲まれた。

「あんたなんかとっくに彼に飽きられてるんだよ」

 と言われて、友達だったはずのA子に花壇の土を思いっきりぶつけられた。そしてね、昇降口の方を見ると、その人気者の彼がこっちを見ていたのよ。だけど、あたしの土をぶつけられている瞬間を見ても、見なかったふりをして去っていったの。

 あたしは、花壇の土をぶつけられたことより、友達にいじめられたことより、その彼が許せなかった。だって、彼はあたしをいないものとして扱ったんだから。

誰かから軽く扱われた経験がある人ならわかるかしら。あたし、すぐ自分の殻に閉じこもった。もう誰も信じない。一人で生きていくわと固く心に誓った。それでも、あたしはバカだから、固い誓いも忘れて、また高校生になると恋をした。次にあたしが好きになった男も、モテ男だった。ある日、高校からの帰りに駅の改札を出ると、

「俺と付き合わない?」

 と言われて、ちょうど退屈していたのね。あたしは、なんとなくOKした。最初のうちはすごく優しくされて、あたしはいい気分だった。彼は、大学生だった。長くは続かなかった。彼の部屋に入り浸っていたのが悪かったのかしら。たまたま連絡せずに、彼の部屋に行くと、知らない女性とベッドで抱き合っていた。彼はあたしを部屋に入れて、あたしがいるのに、あたしを見ながら、知らない女性とずっと抱き合っていた。あたしは泣きながら連絡先を全部消して、彼とは二度と会わなかった。ひどい目なのかしらね。よくわからなくなっていた。二度もひどい振られ方をして、あたしは、自分が軽く扱われるのは、当然と思うようになった。人生ってそういうものなのねと受け入れた。

二度目の失恋で思ったことは、他人に期待するのはやめようってことだった。一人で生きていく道を探すと決めた。だから、一生懸命に勉強に励んで大学にも入った。

でも、だめだった。一人で生きると決めたはずなのに、また恋に落ちた。今度は、あたしがバイトし始めた高級焼肉店のお客さんだった。仕事は何してるか教えてくれなかったけど、ハイブランドを身に着けていて、羽振りが良かった。付き合い始めて、あたしにもハイブランドの服を買ってくれたり、アクセサリーをくれたりした。あたしは、また調子に乗った。でもね、あたし、ハイブランドの服を身に着けながら、学費を稼ぐためにバイトして大学に通っていたでしょ。どれが本当の自分かわからなくなってね。ハイブランドを身に着けていても居心地が悪かったの。過去の経験が邪魔をして、またこの彼もあたしの元を去っていくだろうと疑った。彼が去った後に、このハイブランドのものたちだけが残るんだわと冷めていた。それに、ハイブランドのものは、彼から与えられたもので、あたしが自分の力で獲得したものじゃないから、全然大切に思えなかったの。ただお飾りにされているようで、次第に虚しさを感じるようになったのね。きっとハイブランドのものが悪いんじゃないの。ハイブランドであたしを喜ばせている彼を冷めた目で見ていた私が悪いの。きっと彼に距離を感じてるのも気づかれていたんじゃないかしら。あたしと彼の関係は、お金でしかつながれないと互いに思ってたのかもしれないわ。

 あたしがこれから一人で生きていくために働いて得るお給料とハイブランドの服の値段を比べてみたんだと思うの。それに男性不信はずっとあったから、ハイブランドを与えてくれるこの彼とも終わりが来るんじゃないかといつも不安だった。きっと私に資本主義を考えるきっかけを彼はくれたのね。彼のことは人として嫌いじゃなかったけど、愛かどうかわからなかった。愛だと幻想を抱くには、あたしが人に対して冷め過ぎていたのね。そんな女性を男性は愛せるかしら。

 それに悪い予感は、当たった。半年ぐらいすると、彼も店に来なくなって、連絡もつかなくなったわ。手元にハイブランドのものは残ったけど、あたしは本当に虚しくなった。もらったものは、ゆくゆくお金にでも困ったら、売ろうと思った。そこら辺はあたしのたくましいところだわ。

 あたしは、彼を失った。あたしは、誰かと共に生きることができないんだわと思った。過去のトラウマで友達ともうまく関係が作れなかった。どう友達と付き合っていけばいいのかわからなかった。友達の悩みを真剣に聞きすぎて、

「そこまで他人のこと考えなくていいよ」

 と言われて、じゃ、あたしはどうすればいいの?と腹が立ったこともあったわ。頼り方も頼られ方もバランスの取り方がわからないまま大人になった。

 子供の頃からずっとあたしは、ここじゃないどこかに想いを馳せていて、彼氏がいるときも、独りぼっちだった。相手を大切にしないんだから、あたしが大切にされるわけないのにね。

周りの同級生たちは賢くて、世間の情勢に敏感で、学生時代に遊んでいても、コネを利用したり、こっそり努力を続けたりしていて、卒業と同時に大企業や官庁に就職を決めていった。みんなが社会でうまく立ち回っている間も、あたしは、独りぼっちだった。そう、あたし、一人で生きるには、孤独すぎたの。唯一記憶に残っている人のぬくもりは、死んだおばあちゃんとの思い出だった。おばあちゃんの肩を叩いてあげるととても喜んでくれたの。ほんのささいなプレゼントも喜んでくれた。子供だったから、決して高価なものではなかったのに。その思い出が大事に思えたし、あたしを支えていた。だから、こんなに孤独なら、人のために動いてみたらどうだろうと思って介護士を選んだの。卒業して半年経った頃、会った同級生には、そんな人の下の世話をするような大変な仕事より、もっと楽な仕事を紹介しようかとも言われたわ。価値観は人それぞれだと、どれだけの人が理解しているのかしらね。その言葉は、あたしのことを何もわかってない人の言葉のように聞こえた。伝わらないという絶望があった。あたしがどれだけ深く自分を知ろうとしてるか。人生の中で何を大切にしていこうとしているのか。生きてる虚しさから逃れることができるなら、あたしが何でもやろうとひそかに思ってることなんか考えてみたりしないのよ。きっとそれは、他人にはどうでもいいことなのだと思った。逆にそう言った子にどんな苦しみがあるかを、あたしがわかってるとは言えないわ。お互いさまってことね。確かに介護士の仕事はものすごい大変なのに、給料が安くて、びっくりした。高級焼肉店のバイトの方が、時給にしたら稼げてるぐらいだったの。元カレが残したハイブランドのアクセサリーを見て、お給料との差に気持ちが沈んだわ。だけど、一人で暮らしていくことぐらいはできるお給料だと思ったから、贅沢することもなく、一人で生きていくために仕事を続けたの。

 人のために働きたいと思ってはみたものの、いつも誰かとの関係を作ることが悩みの種だった。介護士の仕事もチームプレーが必要なの。チームの中でうまく自分を生かせなかった。毎日のように、一人暮らしの自分の部屋で、ハイボール飲みながら泣いて暮らした。全然人生がうまくいかなかったのよ。どこで道を間違ったのかと間違い探しばかりしてた。

 職場の人ともうまく関係が築けずにいた。特に、同期のジーナが嫌いだった。ずる賢いというのかしらね。上の人の言うことは、はいはい聞くくせに、同期や後輩にはすごく偉そうなの。何か反論しようものならば、担当を増やされたり、本当に忙しいときに手伝ってくれなかったり、仕返しが姑息だった。ジーナは、人に対するいじわるだけには、とても頭が働くみたい。そういうずるさがあたしは大嫌い。頭の良い人のやることよね。誰かを押しのけて自分の我を通すみたいな生き方。ジーナが稀有な存在なわけではないと思うのよ。そんなやつ、この世の中にごまんといるわ。あたしは、そういうところがうまくできないから、のけ者にされて、ハイボール飲みながら泣くだけなのよ。

 強がりのあたしは、職場の人には落ち込んでるところは見せたくなくて、仕事中は無理して八方美人を続けた。昼休みぐらい偽らずにいたかったから、いつも一人で昼ごはんを食べていた。誰も日陰だからと寄り付かないベンチでね。

その日は、ジーナに、

「あんたの仕事の仕方では、数がさばけないわ。あほなの!みんな迷惑してるわ」

 とみんなの前で怒鳴られて、とても悲しくなってしまって、誰も周りにいないベンチでわんわん泣いていたの。もう仕事なんか続けられないわ。この先なんか真っ暗よとしか思えなくて、泣きながら途方に暮れていたの。辞める選択肢がなかったから、我慢するしかないんだけど、あたしの人生のどん詰まりを感じてた。打開する策が自分の頭では浮かばなかった。それをどこかから見ていたのね。紫色の杖をつきながら、メリーさんがあたしの方へ歩いてきたの。

 あたしは、我に返って、おぼつかない様子で歩いてくるメリーさんを助け、ベンチに座ってもらった。隣に座ったメリーさんに、あたしが目を真っ赤にしてるのを見られてしまったの。

「何かあったのかしら?」

 とメリーさんが聞いてくれて、なぜかその優しい瞳を見ていたら、ぽつぽつと自分の今の状況を語り始めてしまったの。いろいろな愚痴をね。ださいわよね。でも、メリーさんは笑わなかったわ。

 メリーさんは、その話を聞き終えると、

「あなたは、あなたの思うようにやったらいいのよ。あなたの生き方があるだけなのよ」

 と言ってくれたの。あたしは、さらに泣いたわ。今までせき止めていた想いが、あふれ出してしまった。あたしは、今まであたしに起ったことは、全部自分のせいだと思っていた。自分を責めていた。あたしの人生を応援してくれる人にも出会って来なかった。両親は、二人とも教師で忙しくて、あたしがちゃんと勤めていれば、それで良くて、あたしのことなんかほっときっぱなしだったわ。あたしが悩んでいるなんて全く知らないと思う。メリーさんに出会って、あたしは、生き方を肯定してくれる人に初めて出会ったの。優しかったおばあちゃんの面影も見たのかもしれない。それにメリーさんは、あたしのくだらない話を聞いた後で、こう言ったの。

「あなたは優しい人なのね。でも、とても悲しい瞳をしてるわ」

 あたしは、今までのつきものが落ちたかのように大泣きした。メリーさんは、ハンカチを差し出して、肩にそっと触ってくれた。あたし、そのとき決めたの。この人が困ってることがあったら、全力で助けようと誓ったのよ。あたしの人生ずっとつまらなかった。心から楽しんでいたことなんかなかった。いつもあたしの中に軸はなくて、他人軸で過ごしていた。やっと自分で誰かの役に立とうと決めた瞬間だった。誰かに何かをされた、何もしてくれなかった、求めすぎた、無理して役立とうとした、全てあたしは誰かのせいにしてきた。でも、これから、あたしがしたいことをするの。したいように生きるのよ。

 ベンチに座って、空いた時間はほとんどメリーさんと過ごした。私は、介護の仕事をしながらずっと片意地を張って一人で生きていくんだと思っていたの。誰かと過ごす時間のことなんか考えもしなかった。私が流す涙のことなんて誰も気に留める人はいないと。メリーさんと話をすることは、あたしの大切な時間になったのよ。短時間でも誰かと心を通わす時間はとても尊いものよ。この瞬間がずっと続けばいいと思った。

 メリーさんには、家族がいて、二週に一回ぐらいみんなでお見舞いに来てた。メリーさんは、一人一人を紹介してくれた。あたしは、すぐにメリーさんの家族を大好きになったわ。

「サーシャ、かあさんに優しくしてくれてありがとう」

 トムさんは、会ったその日に、あたしにそう言ったの。

「ありがとう、ありがとう、ありがとう」

 三回繰り返すのが、トムさんの人柄を表してるような気がするわ。それを聞いたリーナは、

「トム、ありがとうは一回でいいのよ」

 って言って、そこにいるみんなが笑った。トムさんの周りには、笑顔が溢れていた。あたしも会ってすぐトムさんを大好きになったわ。それにあたしにだけに向けられたあんなに素敵な「ありがとう」は初めてだった。あたしは、ほんとうの言葉を話す人に出会ったのだと思った。うわべの言葉をトムさんはきっと言わない。思ったことをそのまま伝える。どれだけの人がそうできるか疑問だわ。大人になればなるほど、あたしは、ほんとうの言葉を失ってきた。あたしは、この仕事に就いても人間嫌いなんか全く治ってなかったのよ。それなのに、この家族の中で、特にトムさんといると、自然と笑顔になるの。不治の病がウソのように消えたみたいだった。あたしには、傷があった。そのせいで他人を避けてしまうけど、トムさんとは初めて会ったときから距離を感じなかった。あたしは、自分で思うより傷ついていて、他人を受け入れる度量がなかったのだと気づいたわ。ジーナに何を言われても、仕事で失敗しても、トムさんと会った日だとすぐ嫌なことを忘れられる。あたし、一人でも生きていける気もするけど、トムさんがいたらきっと楽しいわ。

 メリーさんとメリーさんの家族と親しくなるうちに、あたし不思議だった。なぜサムさんの奥さんはお見舞いに来ないのかしらって。でも、なかなか聞くことができなかった。離婚でもしていたら、すごく失礼な質問になってしまうでしょ。

 そしたら、サムさんが、あたしにそっと教えてくれたの。

「妻には苦労をかけていてね。ここにくる負担まで負わせるわけにはいかないんだ」

「奥様は、そんな風に思われて幸せですね」

「いや、妻に伝えたことはないんだ。俺と結婚してくれて、こんなかわいい子供たちを産んでくれただけで十分さ」

「サムさんとお話ができて良かったですわ。ちょっと奥様が姿をお見せにならないのが気になってしまっていて。余計なことだとは思ったのですが」

「君は、母のお気に入りのようだから。昔、母の料理教室にも沢山の母のお気に入りの女性がいたときのことを思い出すんだ。妻も母が料理教室に通っていた人の紹介で、最初は母が気に入って、俺の妻になってくれたんだが。いつしか母とは、子育てや家族に対することで、意見が分かれることが増えてしまってね。俺には、そのすれ違いをどうするべきかわからなくてね。母も家で面倒を見てあげたいのだが、妻との折り合いが今は悪くてね。俺が悪いんだな。俺は、妻も母も楽しませてあげられなくてね。話し相手にも役不足のようだ」

「そんなことありませんわ。サムさんもトムさんも大事な息子さんで。よくメリーさんは自慢の息子だってよくおっしゃっていますもの。それにサムさんは何でも作れるじゃないですか」

「母には、褒められたことがないんだがね。トムは、うまくできないこともあるけど、トムはみんなのことを笑顔にする。俺にはそれができないから。トムにとって必要なことがあるならば、俺が助ければいいと思ってるんだ。俺が何か作ろうと思うのは、トムがいるからなんだ」

「素敵ですね。トムさんもサムさんもメリーさんにとって自慢の息子さんです」

 そう言うと、サムさんは、照れ臭そうに笑った。サムさんと深い話をしたのは、それの一回きりだった。うまく自分の気持ちを表せない人だと思った。そんなサムさんは、子供たちやトムさんといるのがほんとうに幸せそうに見えたのよ。トムさんは周りの人を明るくするのよ。きっと幸せな家庭なんだわと思っていた。あの人に会うまではね。

 あたしは、あの人に会って、この家族の二つの側面を見たわ。この病院でのびのびとした空気を纏う楽しそうな家族の様子と自宅でのあの人といる張りつめて緊張した家族の様子の二つよ。その対比を苦々しく感じたの。

 家族というのは、不思議な縁でつながっているものだわ。だって家族は、それぞれ全く違う性格を持っていても、好きでも嫌いでも、家族は家族なのよ。家族というものから逃れることはできないわ。逃げられないから、やりきれないことも出てくるのよ。

 あたしの勤めている病院では、一日付き添いという制度があって、外泊はできないけれども、自宅に介護士が付き添って、家に一日滞在できる制度があるの。

 その日になると、メリーさんは必ずあたしを指名してくれた。メリーさんは、院長の家族がお世話になったとかで病院内でも特別待遇だったの。普通は、指名はできないんだけど、メリーさんだけはあたしを指名したら、その通りになったのよ。それをジーナはよく思わなくて、メリーさんの付き添いをするたびに、あたしがぐちぐち文句を言われるけどね。

 メリーさんの自宅に付き添うと、あの人がいたわ。アーリーさんよ。なぜこの家族の中にアーリーさんがいるのか不思議だった。異質だったの。あたし、アーリーさんのことは好きになれなかった。今まであたしを軽く扱った人たちと同じ匂いがしたわ。メリーさんの付き添いで来てるのに、

「サーシャ、皿を洗ってちょうだい」

 とあたしに召し使いのように命令するの。あたしは、仕事だから言われた通りにしたわ。自宅にいるとき、メリーさんは、いつも顔をゆがめていた。そして、病院に戻ると、いつも体調が悪そうだった。あたしは、アーリーさんの態度がメリーさんの体調に関係してるのだと思った。

 あたし自身は、アーリーさんが家族に暴力をふるっているのは、あまり見たことがなかったけど、メリーさんは、アーリーさんの子供たちへの暴力をすごく気にしていた。それにトムさんを軽く扱うことがとても嫌だと言ったわ。

 メリーさんとあたしは、トムさんたちを守るため、ある計画を立てたの。家族の幸せを願う計画よ。その計画は、トムさんが持っている素晴らしい鐘を盗むという名目で、探偵にメリーさんの家族を監視させようというものだった。そうすることで、トムさんも子供たちもアーリーさんから救い出す方法がきっと見つかるはずだと話し合った。鐘は、簡単には手には入らないのはわかっていた。トムさんが肌身離さず持っていて、とても大切にしているからよ。

 あたしは、メリーさんと出会う前、一年に四回ぐらい死にたいと思ったわ。橋の上でここから飛び降りたら、誰か悲しむかしらと考えながら、その場で動けなかったこともあるわ。カラスの鳴き声で我に返ったから、まだ生きているけど。それに痛いのは嫌だった。生きてるのも、死んでいるのも一緒だと思ってた。存在してるはずなのに、そこに魂が入ってなかったんだから。でも、今は違う。アーリーさん以外のメリーさんの家族といると、その不安が和らぐの。そうね。安らぎというのかしら。その中でも特にトムさんには、将来あたしが必要になるんじゃないかと勇ましく思うことができるの。できないことに目を向けるより、大切なものがあるのよ。誰かと比較して、足りないものを見つけてるようではだめなのよ。うわべだけなぞっている人には一生見つけられない大切なことがこの世にはあるのよ。その大切なものがある人生とない人生では全く違うものになるわ。誰かを幸せにしたいという気持ちがあたしにまだ残されていた。それにあたしもそろそろ幸せになってもいいと思うの。トムさんの存在があって、まだあたしの命が続いているのよ。あたしなんて別にこの世にいてもいなくてもいいような存在なんだから。そんなことをメリーさんには感づかれているようだわ。

 この計画を準備しているときにメリーさんが言ったの。

「サーシャ、自分を大切にしなさい。この計画は、人の幸せを願う計画よ。自分のことをおろそかにする人に協力してもらうことはできないわ」

 あたしは、資料作りにも全力で取り組んでいた。頑張り過ぎていたのね。仕事と計画で寝不足だったの。ふらふらしている私を見て、そうメリーさんは言ったのよ。

 はっきりあたしのことをメリーさんが大切に想ってくれてるのがその言葉でわかったの。それで、あたしは目が覚めたのよ。あたし、ずっと自分を大切にしてこなかったの。この計画が進むうちに、わかってきたことがあるの。誰かを大切にしたいと心から願うと、自分にもその想いが向けられることがあるのだということよ。何を考えるのにも時間のかかるあたしは、やっと人生の光明を見つけようとしてるのを自分でも感じたの。

 この計画で重要となる探偵の選定だけは、あたし、疑問だったの。メリーさんが依頼すると言い出したコンコン探偵さんは、初めて会ったときから、頼りがいがない気がした。だって鐘をお金と間違えるかしら。不安が広がったわ。都会までわざわざ行く必要があったのかしらって。聞いていたより、こじんまりした事務所で、有能な探偵には見えなかったわ。それに最初、あたしとメリーさんをバカにしてるようだったわ。あたしは言ったわ。依頼するかどうか検討する時間を取った方がいいのではないかしらと。だから、二日も日程を取って、最初の日には、メリーさんと相談して、コンコン探偵の様子をうかがうことにして、二日目に真剣な話をすることにしたの。一日目の面会が終わって、メリーさんは、

「私のお知り合いの大事な方なの」

 とだけ言った。そう言われたら、あたしは、探偵さんの選定にはそれ以上、何も言えなかった。メリーさんがあの探偵さんを気に入っていたの。それでもあたしは不安だった。この人で大丈夫かしらと思った。他に沢山探偵さんがいる中で、あの探偵さんを選ぶ理由がわからなかった。文句は言わなかったけど、あたしが引っ越しも段取りをしたし、ホームパーティーでも全然役に立たなかったのよ。最終的に、トムさんの鐘を盗むことができないだけでなく、報告書も抜け落ちているところがあるとメリーさんが言ってたわ。それでも、メリーさんはあの探偵さんを信用しているようだった。あたしからしたら、最後のトムさんへのへまは目もあてられないわ。だってトムさんは、病院に運ばれる事態になったのよ。あたしもメリーさんも苦笑いだったわ。

 それに今、トムさんの鐘があたしの手元にあることにも気づいてないのではないかしら。お金に目がくらんでいるとしか思えないの。トムさんに、「修理するから」と言ったら、すぐあたしの言葉を信じて、鐘を渡してくれたわ。信用されるって凄いことね。あの役立たずの探偵さんは、いくらお金を使っても、トムさんからの信用を得られず、トムさんが救急車で運ばれる事態になっても奪い取れなかったのよ。

あぁ、早くトムさんに会いたい。トムさんには政治の話なんてわからないと思うわ。一流レストランも望めないと思う。トムさんとあたしは、別な人間だから好きなドラマが違うのも当たり前よ。違っているから、わかることがあるのよ。あたしの仕事での細かい悩みについても、わからないと思うわ。だけど、大きな声で笑ったり、怒ったり、はしゃいだり、トムさんの隣には、あたしの自由があるの。それにあたし、大抵のことは自分で出来るのよ。あたしと同じように裏をかいたり、策略を練ったり、そういう頭は、あたしの頭だけで十分よ。二つもいらないわ。別に、トムさんに何も期待してないのよ。ただ笑ってるだけでいい。とても気が楽だわ。人といることが自分らしさだなんて不思議だった。あたしは、いつも自分の幸せを選び取る能力だけ磨けなかったの。でも、トムさんに会って、あたし変わり始めている。あたしの持ってないものをトムさんは持っているのよ。あたしに足りない愛をね。トムさんの周りには愛が溢れてるのがわかる。トムさんは愛されようとしてるわけではないと思うの。でも、知らず知らずに周りの人から愛される。それは、とても大事なこと。あたしにないものだからわかるのよ。

 メリーさんとの計画の目的は、トムさんをアーリーさんから守ることだった。それだけが目的で、この手元にある鐘なんてどうでもよかったのよ。サムさんはすごい技術者さんだから、失くしてもまた作ってくれるわ。トムさんのためならね。素晴らしい鐘だけど、メリーさんもあたしも鐘には興味がないのよ。トムさんにとっても、鐘は便利で頼れるものだけど、なくても困らないものなのよ。だから、あたしに渡してくれたのだと思うわ。

 それにしても、この鐘はどういうしくみになってるのかしら。不思議ね。ほんとうの価値を誰なら見定められるのかしら。まじまじと見つめて、鐘を肴にハイボールを飲んだ。

「サーシャ、鐘は私たちで保管しましょう」

 そう言い出したのは、メリーさんだった。言われた通りに、あたしの部屋に飾られているわ。ハイボールの氷が全て溶けた頃、あたしは眠りについていた。

そして、突然の電話で起こされた。同僚Bからの電話だった。

「サーシャ、病院にすぐ来てちょうだい。大変よ」

「病院?」

 まだ脳が正常に機能せずに、同僚Bの声が遠くの方に聞こえた。

「メリーさんがいなくなったのよ」

 その言葉を理解するまで長い時間がかかり、電話を切った後も、茫然と立ち尽くし、次に何するべきか思いつかず、無駄に部屋の中を動き回った。きょろきょろぐるぐると部屋を見渡し、トムさんの鐘が目に入って、

「動かなくちゃ」

 と声に出し、自分を奮い立たせた。とりあえず病院だ。電話だけでは、状況がわからない。部屋着から着替え化粧もせずに、タクシーで病院へ向かった。

 病院に着くと、病院中が大混乱していた。みんな慌てていて、メリーさんの行方を血眼になって探していた。

 ジーナが駆け寄ってきて言った。

「サーシャ、メリーさんが行きそうな場所に心当たりはない?」

「ないわ。だって夜に一人で出かけるなんてしそうにないんだもの」

「点呼の九時にはいたのよ。私が確認したの。その後、十一時に見回りしたときに、手元の電気がついていて、おかしいと思って、のぞくと、メリーさんの姿が消えていたのよ」

「どうして?」

 あたしは、そう言って、わけがわからずに、しゃがみこんだ。動けなかった。

「いつまでしゃがみこんでるのよ」

 とジーナに言われて、我に返り、そうだ、いつものベンチにいるかと思って、ベンチに行ったが、そこにもメリーさんの姿はなかった。

 その夜は、動ける職員全員で、病院内はもちろん思いつく限りの場所を探した。だけど、メリーさんは見つからなかった。警察にも探してもらったが、やはり見つからなかった。メリーさんの家族にも連絡したが、帰ってないということだった。こんな夜中にどこへ行くというの?

 あたしの頭には、なぜかコンコン探偵が浮かんだ。あの探偵さんなら、何か知ってるかもしれないと思った。

「サーシャかい?」

 電話すると、コンコン探偵ののんきな声が聞こえた。

「どうしたんだい?こんな時間に」

 もう深夜になっていたことを忘れていた。

「ごめんなさい」

「いいよ。いいよ。どうしたんだい?」

「大変なんです」

「どうしたんだい?」

「メリーさんがいなくなっちゃったんです」

「えっ?今、なんて?」

「メリーさんが、どこを探してもいないんです。いなくなっちゃったんです。私も今、聞いたばかりで、わけがわからなくて」

「ほぅ。俺もわからないけども」

「探してください。まだ仕事は終わってないはずだわ。少ないけど、私からもお金払いますから。探してください」

 あたしはすがるように、コンコン探偵に懇願した。

「実は、俺は、鐘は盗めなかったが、メリーさんからもう報酬はいただいているんだよ。それも十分すぎるほどのお金をね」

「えっ?」

 あたしの知らない事実だった。それを聞いてますます嫌な予感がした。

「ほぅ。わかったよ。俺もメリーさんを探すよ。世話になったし、依頼人の一大事だと思うからね」

 あたしは、無能だと思ったこの探偵さんの人の良さに気づいた。

 メリーさんを探していたら、明け方になっていた。いったん家へ戻り、仕事をするための準備をして、出勤すると、すでにコンコン探偵が病院にいた。

「こんなに早く来るなんて」

 あたしが驚いて言うと、

「車の方がいいと思って、レンタカーで来たんだ」

 とコンコン探偵は言った。

「私もメリーさんを探すために、仕事を休んだ方がいいかしら」

 と言うと、コンコン探偵は、はっきりと言った。

「いや、君は仕事をした方がいいさ。きっと時間がかかると思うんだ。俺の勘だけど、この失踪には、いろんな意味があるのさ」

「いつまでこちらにいてくれるのですか?」

「しばらくいるつもりだよ。サーシャが選んでくれたホテルに泊まるよ、俺の心配はいいさ。それぐらいさせてくれよ」

 メリーさんは、このコンコン探偵さんのこういう優しさや包容力をちゃんと知っていたんだわと思った。

「あの、私、明日は休みなんです。一緒に探してもいいですか?私は、車の運転ができないので、心当たりを回りたいんです」

「もちろんさ。構わないよ」

「お願いします」

 その日は、まるで仕事にはならなかった。メリーさんのことが頭から離れることはなかった。コンコン探偵に今は頼るしかない。

 どうしてメリーさんは、あたしに何も告げずにいなくなってしまったのかしら。良き関係を築いていたと思っていた。そう思っていたのは、あたしだけだったのかしら。何か理由があるはずよ。メリーさんとの信頼関係が偽りでなかったなら、メリーさんは事件に巻き込まれた可能性の方が高い気がした。だってあたしとメリーさんはとてもいい関係だった。この感覚を信じたいの。気になるのは、メリーさんがいなくなる前に、探偵に報酬を自分で払っていたことよ。その話は、初耳で嫌な予感しかしなかった。あたしもメリーさんからコンコン探偵さんに払うための百万円を渡されていたから。

 病院の職員が、ジイタ家にメリーさんがいなくなったことを告げると、友達と旅行に出ていたというアーリーさんが病院の不手際をとても怒ったと聞いたわ。あたしが、緊急時に連絡するようにメリーさんから教えられていたサムさんのスマホに連絡すると、

「どうしても抜けられない仕事があってね。行けないんだ。母の一大事だというのに、だめな息子だな」

 と言うので、

「サムさんは、メリーさんの自慢の息子さんです。私が見つけ出しますから」

 とあたしが言うと、サムさんは、涙声で、

「あ、ありがとう」

 と初めてサムさんの悲しみに出会った気がした。

 メリーさんの手がかりをメリーさんと交わした会話の中に見つけようと思い返していた。今まであたしたちは、何を話したかしら。

 そうだわ。トムさんの鐘を預かったときに言われた。

「トムは、ほんとうにサーシャが好きなのね」

「そうなんですか?」

「そうよ。その鐘を預かってこられたということがそのことの証明になるわ」

「メリーさんが言っても、渡してくれたと思います」

「だめだったのよ。私も探偵さんに依頼する前に、試しにトムに言ってみたのよ。トム、お母さんに鐘を預けてみない?って。だけど、だめだったの」

「トムさんはなんておっしゃったんですか?」

「サムに聞かなくちゃダメだって言われたの」

「私のときは、すぐ渡してくれました」

「そうなのよ。それだけサーシャは、トムに信頼されている証拠なのよ。この鐘は、あらゆることを表出させるわ」

 そんな会話を思い出して、泣きそうになってしまった。そして、その会話の最後を今、ありありと思い出す。

「トムのことはよろしくね。いつまでも仲良くしてあげてね」

 とても優しい笑顔であたしに笑いかけてくれた。そうだ。あのときは、何も感じなかったが、今、思い返すと、おかしなことを言っていた。他にも資料を作るときに、トムさんの産まれたときから今までの成長日記とどう教育してきたかを記した大事なノートを渡されたわ。あんな前からメリーさんは、何かを考えていたのかしら。まるで自分がいなくなることがわかってるかのようにも聞こえる。メリーさん、お願い、無事でいて。

 コンコン探偵さんは、一人でいろんな場所で聞き込みをしていたようだった。仕事終わりに、一日の収穫を聞いたが、有力な情報はなかったようだった。病院や警察も独自に捜索はしているようだが、なかなか見つからなかった。

 コンコン探偵とメリーさんの話をしていたら、遅い時間になってしまったので、明日の朝七時に待ち合わせした。車で自宅まで迎えに来てくれた。

 助手席に乗り込むと、

「サーシャ、どこか気になるところはあるかい?俺は俺なりに、昨日車で走ってみたんだけど、土地勘がないものだから」

 とコンコン探偵は言った。

「そうですね」

 あたしの声が落ち込んだ声に聞こえたのだろうか。

「きっと見つかるよ」

 とコンコン探偵は言った。

「メリーさんは、足が悪いし、この辺りは、夜になると、暗くて、バスやタクシー、車以外では誰も徒歩では移動してないと思います。病院に働いてる人も送迎のバスを利用していますし、防犯カメラとかもないと思います。とにかく夜は暗いんです」

「町から病院へ向かう道はこの道しかないのか?裏道とかは?」

「ないと思います」

「でも、九時には、病室にいたんだろう?」

「そう聞いています」

「どこに行ったんだろうな」

「そうだ。トビラには行ってみましたか?」

「あっ、そうか。そこがあったか」

 その言葉を聞いて、心底がっかりした。やはりコンコン探偵は、本当に頼りにならないわと思って、ムッとした。本当に探偵の才能がないわと思った。

 病院から一番近い駅の周辺を車で走ってから、トビラに向かった。

「いらっしゃいませ」

 いつもの初老の店員さんが迎えてくれた。

「すいません、お聞きしたいんですけど。おとといの夜に病院から来た足の悪い女性を見ませんでしたか?」

「あぁ、おとといの夜?」

「何か知ってるんですか?」

「警察の方にも聞かれましたけど、私は、いつも通り仕事をしていただけでして」

「お客さんは何人ぐらいいましたか?」

「常連さんの家族が二組と女性が一人、七時頃にいたかな?警察にもそう答えました」

「なんでもいいんです。おとといの夜のことで覚えていることを教えてください」

「あっ、そうそう。ドボさんがいましたね」

「ドボさんって、バスの運転手の?」

「そうです。私の知ってることは以上です」

 と初老の店員さんは、困った顔をしていた。

「わかりました。ドボさんは今どこに?」

「今の時間だと、バスの中で休憩を取ってるはずです」

「ありがとうございました」

 そうだわ。バスの運転手さんだったら、誰か不信な人がいたら気づくかもしれないわ。送迎もしてるから、見知らぬ人がいたら覚えてるかもしれないと思った。

 バスの中に人影が見えたので、コツコツと窓をたたくと、車から降りてきてくれた。

「お休みのところ、申し訳ありません。おとといの夜のことでおうかがいしたいことがありまして?」

「なんだい?」

「夜九時すぎに、足の悪い女性を見かけたことはありませんか?」

「俺はその時間には仕事終わってるんでね」

「トビラで聞いたら、その日、ドボさんが来ていたとおっしゃっていたんです」

「そうか?」

「そうみたいです」

「あっそうか。俺は、家族が一泊旅行に行ったものだから、夕飯を食べて帰ったのか?」

「そうなんですか?何かその日に気になることはありませんでしたか?」

「そうだな」

 ドボさんは考えたまま、動きが止まった。そして、何かひらめいたみたいだった。

「そうだ。こんな山奥なのに、しゃれた真っ赤な服を着た女性がいた」

「真っ赤な?」

「そうなんだよ。こんな山奥で、真っ赤な服なんか着るやついないだろ?それに、見かけたことのない顔だったから、不思議だったんだ。俺のバスにも乗ったこともないやつで、その道を五百メートルぐらい行ったところを歩いていたと思ったら、トビラにその女性がいたんだよ」

「他に気づいたことはありませんか?その赤い服の女性は、足の悪い女性ではありませんでしたか?」

「足は悪くないさ。歩く速度は、早かったと思う」

「では、赤い服の女性は、足は悪くないんですね」

「そういうことになる」

「おっ、時間だ。俺が知ってるのはそれだけだ」

 ドボさんは、送迎の仕事に戻っていった。

 コンコン探偵は、あたしが質問をするのをひたすらにメモに取っているだけだった。隣にいるだけで、何もしてないようにも思えてきて腹が立った。

 あたしは、メリーさんがいなくなって強くなった。どうしてもこの事態をあたしの手で解決し、メリーさんを取り戻し、トムさんの役に立てたらと力が入った。

 今までの人生で誰かと別れたり、排除したり、関係を断ったり、そうやって生きてきたけど、あたしなりにわかってきたことは、大切だと思ったら、自分から行動して手を離しちゃいけないということだった。深く関われる人の数もそう多くない。それならば、大切な人は思いっきり大切にしようと誓った。強いから優しいんじゃない。覚悟や信念があるから、強くて優しくなれるのだとメリーさんが教えてくれた。そして、それは自分で気づくべきで、教えられて気づくことじゃないわ。あたしは、いつしか誰かのために役立ちたいと自発的に思うようになって、今までにないパワーを手に入れた気がするの。勇敢にこの危機に立ち向かうわ。あたしが、なんとかするのよ。あたしがそこまで覚悟しているのに、隣にいるこのコンコン探偵さんは、どこかとぼけているわ。あたしのやる気についてこれないみたい。熱量が感じられない。だから、あたしは、少しだけこの探偵さんにいらついている。

 病院の周辺をコンコン探偵さんと歩いていると、二人組の男性が近寄ってきて言った。

「アガミルホスピタルの介護士のサーシャさんですか?」

「はい、そうです」

「警察のキメラとコーエンです。こんにちは」

「メリーさんが見つかったのですか?」

 あたしは、嬉しくなって言った。キメラ警官はそれには答えなかった。

「そちらは?」

「東京に住んでいるコンコン探偵さんです」

「そうですか。探偵ですか」

 キメラ警官は、いぶかしげな表情をしてコンコン探偵さんの方を見た。

「すいません。サーシャさん、ちょっと署の方でお話をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「えっ?私ですか?」

 コンコン探偵さんは、キメラ警官に聞いた。

「どういう要件かな?」

「署の方でお話します」

「俺もついていこうか?」

 と優しくコンコン探偵さんは言った。

「すいません。サーシャさん、おひとりでお願いします」

「私、行きますわ」

 メリーさんのことがわかるなら、あたしは地獄でも行くわ。

 パトカーに乗って、近くの警察署に私は連れていかれた。すると、取調室のようなところに案内された。

「私に何が聞きたいの?」

 あたしは、少しでもメリーさんの情報が知れるのだと思って、警察署に来ることを受け入れたけど、不安が頭をよぎった。

「ジイタ家の人の話では、あなたとメリーさんは非常に親しくされていたとお聞きしましたが、それは本当ですか?」

「ええ」

「認めるのですね」

「ええ、仲良くさせていただいておりましたわ」

「それは、金銭面でもですか?」

「ええ。探偵さんに渡すお金を私が預かったことはあります」

「それは、お仕事の範囲を越えられているのではありませんか?」

「私が頂いたお金ではありませんわ」

「認めるのですね」

「ええ」

「メリーさんの遺体が発見されました」

「うそ」

「病院近くの崖の下で亡くなられていました」

「うそよ」

 あたしの頭の中は真っ白になった。ショックで、何をその後答えたかよく覚えていない。両手で顔をおおって、わんわん泣き始めた。

「あなたは、おとといの夜は、おひとりでご自宅におられたんですね」

 そう聞かれたことをかろうじて覚えているだけだった。

「私、疑われているんですか?私が、メリーさんを殺したと?ありえない。ありえないわ」

 そう言って、さらに大泣きしたので、キメラ警官は、

「また来ていただくことになるかもしれませんが、今日はお帰りになって結構です」

 と言い、気の毒そうにあたしを見た。

 あたしのことを心配して、警察署の前で、コンコン探偵が待っていてくれた。

「どうだった?」

 コンコン探偵が聞くので、あたしはまた泣き出した。

「メリーさんが亡くなったの」

「本当か?」

「警察の人が言ったの」

「どこで?」

「崖の下で発見されたって。私も疑われてるようだった」

「調べる必要がありそうだな。家まで送るよ」

 とコンコン探偵は言った。自宅に着くと、コンコン探偵は言った。

「サーシャ、明日休みを取ってくれないか?」

「ええ、構わないわ。なにかあるの?」

「じっくり君と話したいことがあるんだ」

「ええ」

 私は、よく考えずに、コンコン探偵と約束をした。この気持ちのまま、仕事をすることなんてできそうになかった。

 電話に出たジーナに明日休むことを伝えると、

「あなたが自分の都合で休むと、誰かがその分働くことになるのよ。ちゃんとわかっていて欲しいわ。こっちだって大変なのよ」

 と言った。あたしは、やはりジーナのことは好きになれないと思った。

 次の日、約束の時間になると、コンコン探偵は、家の前で待っていた。

「昨日は、少しは眠ることができたかい?」

「眠るなんてできないわ」

 と答えると、コンコン探偵は黙ってしまった。そして、二人で、メリーさんが発見された崖や赤い服の女性が発見された場所をもう一度見て回った。二人で、いろいろ推察しながら、メリーさんの亡くなるまでの流れを確認した。メリーさん一人で来れるような場所じゃないと二人の意見は一致した。絶対に誰かといたに違いないわ。

 そして、トビラに入って、二人で昼ごはんを食べた。あたしは、うにのクリームパスタを、コンコン探偵は、シーフードグラタンを、二人とも無言で食べた。

 あたしは、メリーさんの心をもっと察する必要があったのかしら。あたしは、役不足だったかしら。もっとできたことがあったのかもしれないわ。何が足りなかったのかしらと後悔の念が消えることはなかった。

 ランチのセットの珈琲が運ばれてくると、コンコン探偵が口を開いた。

「サーシャ、俺は聞きたいんだ」

「なんでしょう?」

「鐘はどこにあるんだね?」

 もうウソをつく必要もない気がしたので、正直に答えた。

「私が持っています」

「ほぅ、やはりそうか」

「メリーさんから渡されたのかい?」

「いいえ。私が直接、トムさんから預かりました」

「ほぅ、俺には内緒にかい?」

 そう言われて、私は黙ってしまった。

「メリーさんの死について何か心当たりはあるかい?」

「私もいろいろ考えたの。だけど、わからないの。私とメリーさんの計画だと、ここにある百万円をあなたに渡して全て終わりだと言うことになっていたの」

「ほぅ、鐘はどうでもいいというわけかい?」

「そうよ。この計画は、アーリーさんから家族を守るために考えられたものだったのよ」

「ほぅ、そうか。それで最終的にどうするつもりだったんだ?」

「コンコンさんが、あんなへまするから、もうおしまいにしましょうとメリーさんが言ったのよ」

「ほぅ、俺が役不足だったのか。そういうことか」

「何かわかったの?」

「ほぅ、毎日、俺は、あの家族を見つめ続けていたんだよ」

「何か知っているの?」

「ほぅ、まだ話すわけにはいかないな」

「教えてくれないと、百万円は渡すわけにはいかないわ」

「もうそのお金を渡してくれなんて言わないよ。そんなに悪徳探偵じゃないさ。依頼人は死んだんだ」

「この百万円は、どうすればいいの?」

 我ながら、あほらしい発言をしてしまったと思った。

「ほぅ、そうだな。君がトムくんのために使うのさ。鐘を手に入れたのは、君だからね」

 コンコン探偵は、犯人とメリーさんの死に心当たりがあるようだった。そして、コンコン探偵は、東京へ帰っていった。

三日後、メリーさんの葬儀が東京で行われるというので、私は病院代表として参列することになった。ジーナは、

「もうまた休むのね。大した身分ね」

 と嫌味を言ったけど、ご霊前を私に託した。

 通夜に向かうと、すぐにトムさんがあたしの元へやってきた。

「かあさんは、死にました。悲しいです」

「トムさん、私も悲しいです」

「サーシャは、いつまで東京にいますか?」

「明日までです」

「サーシャは、今日はいつまでここにいますか?」

「終わりまでいるつもりです」

「僕も終わりまでいます」

 私は、その言葉で涙が流れてきて、ハンカチで顔を覆った。

「サーシャ、大丈夫ですか?」

「私、とても寂しいです」

「僕もです」

 私の姿を見つけたアーリーがやってきて言った。

「サーシャは、トムと結婚したらいいわ。あの人がそう言ってたもの」

「あの人?」

「義母よ」

「なんでそれを知ってるんですか?」

 思わず私が聞くと、アーリーの表情が少し歪んだように感じた。

 リーナが、あたしの方に駆け寄ってきて、

「おばあちゃんがね、こないだね、花柄のワンピースをくれたのに、あたしが気に入らなかったから、おばあちゃん死んじゃった」

 と言って、おいおい泣くので、思わず、あたしはリーナを強く抱きしめた。その花柄のワンピースは、リーナに笑顔になってもらおうというメリーさんに頼まれて、あたしがリーナに買ってきたものだった。

 結局、私は、ジイタ家の人々が自宅に戻るまで、世話をすることになった。

「サーシャ、いつまでいますか?」

 とトムさんがしつこく言うものだから、客間に泊まることになった。サムさんも、ニームも、リーナも同じように、

「サーシャ、泊まって」

 というので、予約していたホテルをキャンセルした。

ジイタ家に着き、アーリーが、喪服から着替えると、

「サーシャ、これを洋服ダンスにしまってちょうだい」

 というので、仕方なく、言われた通りにした。

 リーナは、

「サーシャ、あなたはおそとの人から、この家族になるのよ」

 と言って、はしゃいだ。

「なんで?」

 と聞くと、リーナが言った。

「ママが家に泊めたからよ」

「それがどうしたの?」

 と聞くと、隣にいたサムさんが、珍しく口を開いた。

「この家には家族以外の人が泊ったことなどなかったんだよ」

 そして、アーリーの洋服ダンスを開けると、そのタンスの中には何着もの赤い服がしまってあるのを私は見たのだ。

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