ヒト耳のチロル

日家野二季

第1章 サーカス団の裏方

第1部 出会い

第1話 サーカス団シルクス


「舞台なんて、所詮はただの娯楽だ」

 

 父の言葉が印象的で、あの夜から数年経った今でもはっきりと思い返せる。

 彼はその発言から数日のうちに、自らが旗揚げした旅芸人一座の団長に就任した。

 

「単なる見世物に世界の闇を払うだけの力は無い。だが絶望をして立ち上がれなくなった時、前を向く力くらいならば……我々のショーを見に来たヒトに与えられるかもしれない」

 

 彼の言葉は芸事を軽んじるものでもその無力さを嘆くものでもなく、尊さを説くものだった。

 鱗のついた大きな掌。ヒトのそれとは違う手でそっと頭を撫でてくれた父。暗い緑色の鱗にランタンの灯りが反射してキラキラとしていて、綺麗だなと場違いな事を考えながらその横顔を眺めていた。

 

 あれはまだチロルの掌が紅葉のように小さかった頃の、とある夜の事。

 何が原因で眠れなかったのか思い出せない。きっと何となく暑いだとか、上手く寝付ける姿勢が見つからなかっただとか、そんな取るに足らない理由だったんだと思う。その夜のチロルは、いつまでもベッドの上でモゾモゾと居心地悪そうに体を動かしていた。

 

「チロル、おいで」

 

 いつまでも眠れない幼子をを見兼ねて父……ギムは、チロルを外套でぐるぐる巻きにすると外に連れ出してくれた。

 冷たい夜風を顔にピシャリとかけられて、チロルは思わず身を竦めた。恐る恐る瞼を開く。ゼノクリストの薄明かりに照らされた辺りに視線を向け、チロルは「わぁ……!」と小さく声を漏らした。

 

「旅支度だよ」

「サーカスの?」

「ああ、そうだ」

 

 見上げた父が、こちらに優しい視線を向けてくれた。無骨な掌が、チロルの皮膚の薄い頬を撫でる。

 並んだ複数のトレーラーに、それらを引く馬や蒸気車蒸気車スチームワゴンが並んでいる。錆のついていない、まだ真新しいパイプがキラリと光ったような気がした。

 

「ギム、本当にサーカスやるんだ」

「ずっとやると言っていただろう」

「えー、だってさぁ」

 

 クスクスと小さな肩が揺れる。

 

「似合わないなーって思ってさ」

 

 賑やかで華やかなサーカスのイメージと、仏頂面の父が頭の中で結びつかないのだ。

 陽気で楽しく、明るく煌びやかに。

 そんな舞台の真ん中であろうともこの父ならば、場に不釣り合いな説法を懇々と始める姿の方が余程簡単に想像出来た。

 

「舞台なんて、所詮はただの娯楽だ」

 

 そこに来て出たのが、先程の言葉だ。

 これから一座を率いていく事になる父は、歌や芝居ではヒトを救えないと断言した。彼が見ているのは甘い幻想ではなく、どうしようもないこの世界の現実だった。この世界には沢山の理不尽が蔓延っている。現実はどうしようもなく苦しくて、辛くて、絵物語のような優しい展開は約束されていない。

 

「サーカス……」

 

 真新しい傷一つないテントとトレーラー。規模はけして大きく無い。一つ一つが小さく、数も少なかった。

 しかし宵闇の中で灯りに照らされたそれに、父はきっと偉大なる夢を見出していたのだろう。娘の矮軀わいくを抱き締めながらも目の前のそれらに向けられた視線には、確かに希望の光が宿っていた。

 そんな彼の顔を、チロルは彼の腕の中から見上げていた。夢を見る父の瞳は、とても美しかった。

 

「馬鹿げた理想だと笑う者もいるだろうな」

 

 世界なんて救えなくても、観客に少しでも力を与えることが出来たら。そうやって感動の輪を繰り返して行ったその後でいつか、世界に平和が訪れるかもしれない。舞台なんかじゃ、けして救われてくれない現実を見た上で父が描いた理想図。希望的観測だけれど、それはとても素敵な話だった。

 無愛想な父がどうして似つかわしくない旅一座などに手を出そうと思ったのか、最初は分からなかった。だが話を聞く中で彼が目指しているものの実態を知り、チロルの心は動かされた。

 

「大丈夫、ボクも手伝うから」

 

 チロルの目から見てもそれまでの父は別に歌や芝居に興味があるようには思えなかった。彼の理想は理解出来たけれど、どうしてそのための手段としてそれらが選ばれたのか、その理由は未だに分からないままだ。

 

 夢のある舞台で誰かを助けたいと言う父の思いを受け、幼い少女が自分の未来を、人生を定めた事に変わりはなかった。

 

「ボクの歌で世界を平和にしてあげる。だってボクも、サーカスの団員になるんだからさ」

 

 少女が語った夢を父は否定も肯定もしなかった。お前はショーには立てないよとも言われなかったけれど、舞台で歌う事を認めてもくれなかった。その意味を少女が知る事になるのはまだ先の話。

 

 その夜、父はただ大きな手でぎゅっと、抱き締めてくれるだけだった。無知な彼女は父のヒトより少し低い体温を感じながら幼子は無邪気に微笑んでいた。

 

 

 あれから十数年。

 小さなテントと二台ぽっちのトレーラーで始めた旅芸人一座は、年を増す毎にその規模を成長させて行った。団員が増え、それに伴いトレーラーの台数も増えて。気が付けば出来上がった大所帯の大家族。

 マチからマチへ巡業を行い、この寂れた世界に束の間の感動をばらいていく。

 

 獣人サーカス団【シルクス】

 

 明るく元気に騒がしく。無邪気で優雅に華やかに。世界を救う事は出来なくても、観客に絶望から立ち上がる力くらいは与えられるだろう夢の方舟はこぶねは、今日もとあるマチの一角で公演を行っていた。

 

 

 

 

ヒト耳のチロル

第1章 サーカス団の裏方

               第1部 出会い

 

 

 

 

 マチからマチへ移動を行い興行を行う獣人サーカス団【シルクス】。今回彼らは川沿いの交易のマチ、カワセミマチを訪れていた。

 

 赤と白の縞模様で彩られたところどころが煤けた巨大な帆布はんぷ。それらで作られた大きなテントが、風に揺れる度になめらかな波のようにうねっている。

 テントの頂には無骨な綱が絡み合う。そこに吊るされたゼノクリストの結晶が、まるで星屑を閉じ込めたような輝きを放っていた。夜の闇を切り裂くほど眩しく、やかましく眩しい光。まるで昼間のような明るさで周囲を照らし出し、そこに立つ人々の影すらもくっきりと浮かび上がらせたそれは、突き抜ける程明るく陽気なサーカスの雰囲気をの象徴であった。

 

 テントの入口には太い支柱が立てられ、そこに結わえた旗がパタパタと軽快に風に揺れている。旗には獣の爪を表す紋章が刻まれていた。テントの周囲には並んだ晶駆車しょうくしゃの蒸気管からは、微かなシューッという音が盛れ出している。

 

「さぁさお立ち会い! 世にも珍しい獣人のサーカス団、シルクスだよ!」

 

 ピエロに扮した獣人がそう言っておどけたポーズを取ってみせる。

 焚き火の灯りに引き寄せられた子供達がおそるおそる、でも目を輝かせながらテント覗き込むと、ピエロがわざとらしく「ガオッ!」と両手を突き出した。ちなみに彼はヒツジの獣人である。

 キャーと高い声を上げて沸き立つ子供たち。訝しむような大人の視線は慣れたもの。

 

 畏怖と警戒を色鮮やかに塗り替えて、ここではとびきり楽しいひと時を。

 

 夜を忘れた灯り達が、この場を陽気な祭りの会場へと変える。

 ここは解放を望む魂の集う場所。憂いを忘れて笑い惚ける為の場所。

 

 人間様も獣人様もこのテントの中では無礼講。宵闇にひと時のおさらばを。

 

 陽気に明るく、騒がしく。

 今宵もシルクスの舞台の幕が上がる。


 

 

 

「嘘だろ?」

 

 サーカス団の裏方として働く少女、チロルはマチに到着してから公演の周知や団員達のサポートと骨身を粉にして働いてきた。衣装の作成、ビラ配り。テントの設営や小道具の整備、それから日々の団員達の生活を支える掃除に洗濯、炊事の数々。

 スケジュールに追い回され四苦八苦しながらも走り抜け、やっと迎えたカワセミマチでの初公演当日……だと言うのに、舞台袖にウチの花形スターの姿が見当たらない。

 

「どうします? 一つ前のフランさんの演目、もう始まっちゃってますよ」

「……十分前には舞台袖に入れって何回言ったら分かるんだあの馬鹿兄貴。今年で芸歴何年目だよ!」

 

 青筋を立てながら腕を組むチロルからは、ビシビシと怒気が伝わってくる。

 

「仕方ないな……。ボクが連れてくるから待ってて」

「いざとなったらフランさんに場を繋いで貰います……」

「ああ、頼むよ」

 

 周りに言伝すると、チロルは観客で埋め尽くされた興行用のテントを裏口から抜けた。春の夜風がヒュッと彼女の前を走り抜ける。その風がテントの中の陽気な世界から、チロルを現実の世界へと引き戻す。

 中の喧騒から一歩離れると、辺りは途端に静かに感じれた。ふと見上げた空には月が浮かんでいたが、所狭しと並べられたゼノクリストの光が邪魔をして星は宵闇に隠れてしまっている。

 

 テントの裏手には、団員たちが生活をするためのトレーラーが幾つも並んでいた。舞台に必要な資材を運ぶ倉庫用のトレーラーから、団員の個人部屋を兼ねたものまで様々だ。チロルは迷うことなくそのうちの一つに向かうと、問答無用で扉を開け放つ。

 

「バニラ! いつまで化粧に時間かけてんだ。もう出番が来ちゃうだろが!」

 

 語気を強め仁王立ちするチロルに対して、部屋の中にいたそのヒトは「ノックくらいしろよな」と呆気からんと言い放った。

 

「そんなに自分と見つめ合って何が変わるんだ」

「それが大問題、アイラインが微妙なんだよ」

「鷹の獣人でも来てなきゃ見えっこないよ」

「その鷹の獣人が来てたらどうすんだ。この数ミリの差がプロ意識ってやつだろ?」

「プロを名乗るならタイムテーブル乱さないでくれ。フランがもう舞台に上がってるんだぞ」

「分かっておりますよ」

 

 そう言うと彼はようやくメイクボックスを閉じ、鏡の前から立ち上がった。じっと鏡を見つめる横顔に苛立ちが募る。

 

「うん。俺、今日も良い男」

「はいはい、分かったから。とっとと行ってこい。下手な芝居したらはっ倒すからな」

「心配しないでも。キチンと観客を湧かせてきますよ。俺を誰だとお思いで?」

 

 ひらりと手を振って、バニラはチロルの隣を通り過ぎていく。

 

「……誰ってそりゃ」

 

 金糸きんしの刺繍が施された真紅のジャケット。この日のためにチロルが仕立てたとっておきの衣裳だ。その隙間から覗く、薄黄金色うすこがねいろの細長い尻尾がゆらゆらと妖艶に揺れる。自信に満ちた表情と、文句の付けようが無い陶芸品のような端正な顔立ち。その上にピョコンと立った猫のような三角の耳。

 彼の立ち居振る舞いはまるで、一級の人形師がこさえたビスクドールを思わせる。

 

「俺は、この一座の花形だ」

 

 そして吐き出されるキザったらしいセリフと、根底に見え隠れする自意識過剰なナルシズム。客席くらい距離が離れていれば顔の綺麗さだけが見えるだろうけど、対面で会話しているとまあまあウザい。いや、まあまあとは言わずかなりウザい。

 

 だがきっと彼はその言葉通り客席で感動の喝采かっさいの渦を巻き起こすのだろう。

 

(……凄いな、バニラは)

 

 楽屋の扉がバタンと閉まる。彼が立ち去ったトレーラーの中でチロルは拳を握り締めた。

 

 父であるギムがこのシルクスを立ち上げてからもう十年。チロルは今年で十五になる。獣人達に比べれば小柄な事に変わりは無いが、背丈も伸びて顔立ちも大人びてきた。

 

 チロルとバニラは座長のギムに拾われ、兄妹同然に育った仲だ。スタートラインは同じ。それなのに長い年月を経て出来た、バニラとの間の途方もない距離。その長さに時折こうして打ちのめされる。

 

 今のチロルと同じ歳の頃、バニラはもうスターとして舞台に上がっていた。拍手喝采を浴びながらスポットライトの真ん中で、大勢を魅了していたのだ。

 

(それなのにボクは……)

 

 チロルは自分が身につけているシャツを見下ろした。真っ赤な薔薇の造花があしらわれたバニラの舞台衣裳とは比べ物にもならない、動きやすさ重視のみすぼらしい作業着。オーバーサイズのツナギについているのは蒸気車スチームワゴンの修理をした時についた腹の辺りのすすけた汚れ。こちらの汚れはテントの設営時についたものだったか。今の自分を卑下するつもりはないけれど、みすぼらしい姿をしているのもまた事実だ。

 

(仕方がないことだって分かってるんだけどな……)

 

 自分の立ち位置は誰よりも一番理解しているのは、他ならぬチロル自身。分かっている。だから我儘を言って周りを困らせるような真似はしない。

 

 分かっている。分かっている。

 でもそれは悔しくないって事じゃない。

 

(シルクスは獣人のためのサーカス団だ)

 

 シルクスはスタッフ、キャストの殆ど全員が獣人で構成されている。ギムの願いを形にしたこのサーカス団の姿に、ヒトの身でありながらもチロルも賛同しこの身を捧ぐ決心をした。

 

(裏方でも所属が認められてるだけ恩情。完全な身内贔屓だ。団長の娘じゃなかったら、とっくの昔に追い出されててもおかしくない)

 

 つるんとした丸い耳を隠すための、大きな三角耳がついた変形ニット帽。牙も無ければ特徴的な体毛もない、薄い顔を誤魔化すための奇抜で派手なメイク。ゴテゴテとあれそれ身に付け飾り立てても、自分は本物にはなれやしない。

 チロルは人間で、獣人にはなれない。

 

(ああ本当に……小さい耳も、毛のない体も、大嫌いだ)

 

 身に纏う全てを取り払ってしばえば、そこに残るのは獣の要素なも飾り気もない裸体だけ。うろこも尻尾も牙も何も、チロルは一つだって持っていない。

 

「……って、早く戻らないと」

 

 バニラを呼びに来たのだ。彼がいなくなった楽屋に何時までも残っている意味は無い。ショーはこれからクライマックス。客前に立つ事はなくたって、仕事なんて幾らでもある。

 

(そろそろエンディングパフォーマンスで使う小道具出しておかなくちゃ)

 

 チロルが舞台袖に差し掛かった時、バニラのショーが最初の山場を迎えたのだろう。ワッと今日一番の歓声が上がった。鼓膜だけじゃない、体全体を震わせるような歓声。肌がビリビリと揺れる程の熱気。今バニラは、自分が作り出した熱狂を一身に浴びているのだ。

 

(ああ、遠いなぁ……)

 

 兄が作り出した熱気に目がくらんだ。

 

 どうして。

 どうして舞台はこんなにも眩しいのか。きらびやかで華やかで、こんなにも遠いんだ。

 

「……」

 

 チロルは黙って空を見上げた。あの日、父から夢を語られた時と比較すると星の見えない暗い空。

 

 ここは獣人サーカス団だ。そのコンセプト上、人間であるチロルが舞台に上がる事は出来ない。どれだけ装飾品や化粧で誤魔化したところで、彼女の人種が変わる訳では無い。

 チロルの家族が獣人でも、チロル自身は人間なのだ。

 

「分かってるよ。でも……」

 

 一度で良い。たった一回で構わない。自分だってサーカス団の一員として舞台の上に上がってみたい。

 満点の星空よりもずっと眩しいスポットライトの明かりに照りつけられながら、大勢の観客達の前で思いっきり歌ってみたい。

 

 シルクスが好き。サーカスが好き。

 チロルは、サーカス団の一員である事に誇りを持っている。それと同時に現状に不満を抱く自分自身を誰よりも嫌い、呪い続けているのだ。


 

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