黄金色の待ち合わせ

不思議乃九

黄金色の待ち合わせ

 使い込まれたフライヤーの中で、きつね色の泡がパチパチと弾ける。

 この音が、今の私の心拍数にはちょうどいい。

 三ヶ月前まで、私は広告代理店で「流行」という名の形のない砂を積み上げていた。深夜二時のオフィスに響くキーボードの打鍵音、未読のまま積み重なるチャットの通知、そして、すり減っていくヒールの音。

 逃げるようにしてこの実家、東京の端っこにある『佐藤惣菜店』に戻ってきたとき、私の手元に残ったのは、左手薬指の白く細い日焼けの跡だけだった。指輪を外しても、そこだけが「かつての私」を証明し続けている。


「……そろそろ、いいかね」


 隣でバットを構えていた母が、静かに呟く。

 看板から父の名が消えて十年、母はこの店を一人で守ってきた。私が離婚して戻った夜、母は「おかえり」とも「どうしたの」とも言わなかった。ただ「手伝うなら、爪を短く切りなさい」とだけ言った。

 その沈黙は、どんなカウンセリングよりも深く、私をこの場所に繋ぎ止めてくれた。


 十一月。日が落ちるのが早くなり、西日がカウンターの隅にある、長年の常連客が指を置く「ほんの少しの凹み」を鋭く照らす頃、あのおじいさんがやってくる。

 糊のきいた白いシャツに、丁寧に手入れされたスラックス。商店街の喧騒には不釣り合いなほど背筋の伸びたその人は、いつも控えめに会釈をする。


「いらっしゃいませ」


 おじいさんが帽子を脱いだとき、その左手の薬指に目が留まった。私と同じ、けれどずっと深く、皮膚の一部となったような「誰かのいた証」。それは、彼が何十年という月日を、誰かの伴侶として生きてきた勲章のように見えた。


「いつものをお願いします」

「はい。コロッケ一つと、メンチカツ一つですね」

 私は手慣れた手つきで、揚げたての二つを紙袋に包む。

「今日は少し風が冷たいですね」

 私が初めてそう声をかけると、おじいさんは少し驚いたように目を細め、「ええ、あちらさんも温かいものを待っているでしょうから」と、穏やかに微笑んだ。


 あの日。私は閉店作業を母に任せ、おじいさんの後を追った。

 辿り着いたのは、かつて鉄道が走っていたという廃線跡の小さな公園。

 錆びたベンチの片隅に座ったおじいさんは、自分の膝の上にコロッケを、そして隣の、誰もいない「空席」の真正面に、丁寧にメンチカツを供えた。

「……待たせたね。今日もいい色に揚がっているよ、志津子さん」

 おじいさんは、見えない誰かと向かい合っていた。メンチカツから立ち上る湯気の向こう側に、彼だけに見える、木漏れ日のような食卓を再現していた。彼は孤独を耐えているのではない。愛する人との時間を、今も能動的に守り続けているのだ。


 店に戻ると、母は一人で、三人分のペースで仕込んでしまったポテトサラダを、少し困ったように小鉢に分けていた。

 私が見てきた光景を、言葉を選びながら話すと、母は拭き掃除の手を止め、出しっぱなしになっていた父の古い湯呑みに目を落とした。

「あの人はね、お買い物に来てるんじゃないのよ」

 母の声は、揚げ物の衣が熱を蓄えるように、しっとりと店内に広がった。

「あの方はね、心の隙間にちょうどいいサイズの温もりを、探しに来ているの。……二人分買うことで、あの方は一日の終わりを『独り』にしない。それは誰にも邪魔できない、立派な夕食の支度なのよ。……お父さんがいなくなった後、私もそうだったから」

 初めて聞く母の独白に、胸の奥が熱くなる。母は私の強張った手を、土の匂いのする、温かい掌でそっと包み込んだ。

「あんたも、焦らなくていいんだよ。いつか、自分のためだけじゃないメンチカツを、自然に選べるようになる日が来るまで。……それまでは、ここで一緒にジャガイモを丸めていればいいんだから」


 外では枯葉が舞い、冬の足音が聞こえてくる。

 私はまだ、自分の分さえ何を選べばいいか分からない。けれど、ジャガイモの土の匂いと母の体温が、私の「日焼けの跡」を少しずつ、ただの皮膚へと戻してくれるような気がした。

 いつか、あの黄金色の袋を「二つ」持って、誰かの元へ歩き出す自分を。

 冷たい冬の風の中で、私はほんの少しだけ、想像してみた。


【了】

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